【白竜顕現】
全力疾走で廊を駆ける。
行き交う女官たちをすり抜けて走り去っていく異邦人を、彼女らはなびく衣の裾を押さえながら呆気にとられて見送った。
「あの方は……」
「ねえ、お聞きになりまして? 最近、白い鶴が飛んでおりますでしょう? あれは元は博士が陛下に献上なさった木彫りだったのですって。その木彫りをハナ様が生き物に変えておしまいになったそうよ」
「ええ! あの方は術か何かをお使いになるの?」
「さあ、それは……」
女官たちは話しながら、近くの東屋に入る。
下げていた箱を開けてお茶の用意をしながら、かの異邦人の噂話で楽しんでいた。
「おや、何だか面白そうなお話をなさっておいでですね」
東屋の外から男の声がかかった。
「まあ」
「これは青慧様!」
「ご機嫌うるわしゅう」
女官達は慌てて立ち上がり、優雅な仕草で一礼した。
群青色の長衣を纏った男は「いやいや」と笑って手を振った。女官達は彼を東屋へ誘い入れると、いそいそとお茶の準備をする。
「青慧様が御神殿から出られるなんて、なんてお珍しいんでしょう!」
「ご尊顔を拝謁できて嬉しゅうございます」
きゃっきゃとはしゃく彼女達に青慧は苦笑した。
「そんな言うほど神殿にこもりっぱなしでもないんですけどねえ……。出歩いても美しい花に行き当たる確率が低いのですよ。周りには色気のない者どもしかおりませんからね」
「まあ、青慧様ったら!」
青慧――糸目の温和そうな風貌のこの男、三十半ばと見受けられるが、実年齢は知られていない。女王・宰相ともども年齢不詳の人物である。現水華蓮国の神祇官官長であり、宰相に次ぐ高官である。
滅多と神殿から出てくることはなく、国祭の場において祝詞を読み上げることが公の仕事といえる。だが、一方でこの国の繁栄は彼の力によるところが大きいとも言われていた。何故かならば、職務上、国中に存在する神殿から祠にいたるまで全て彼の管轄なのである。神殿は民の声を聞き、ダイレクトに神官長へそれを届けることができるのだ。よって、彼独自の情報網と子飼いの軍団を組織しているという噂もあった。
「……で、先程お話されていた鶴というのは……」
やんわりと問われ、女官達は口元に手を添える。
「あら、青慧様はご存知ありませんでしたの?」
「先日、青海の間に異界の方が現れましたのよ」
「その異界の方が、博士が献上なすった木彫りの鶴を生き物に変えられてしまったのですわ」
「え――?」
青慧の糸目が驚きに見開かれ、青空のような瞳が瞼から覗いた。
洋服の上から着た黒い薄手の羽織の裾をひらめかせ、博士の客間に駆け込んだハナは無作法にも戸口に足を引っ掛けた。床に激突する前に、手をついて受身をとると一回転して起き上がる。
「……見事な身ごなしじゃのう……」
呆気にとられて眺めていた仙人は、やがてくすくす笑いはじめた。
「す、すみません……慌てていたのもので……」
肩で息をするハナに、博士は手ずから茶を注ぎ、湯飲みを渡してくれる。
礼を言って一服し、大きく息をついた。
「ありがとうござ……」
もう一度礼を言おうとしたとき、バンバンと玻璃が叩かれた。
博士とハナが驚いてそちらに目を向けると、緑のドラゴンと大きな鶴がここを開けろとテラスで大騒ぎしていた。
「わかった、わかった。ごめんって……」
鋭い声で短く鳴きながら抗議(?)するドラゴンと、単に甘えて髪をつつく鶴に、勘弁してくれと降参の手をあげる。
鶴はともかく、シュリーマデビイは置いてけぼりをくらって、たいそうご立腹だった。
ハナは苦笑しながら、翅をばたつかせて地団駄踏むドラゴンを掬い上げると胸に抱いた。
「ごめんってば。そう怒るな」
シュリーマデビイの小さな頬をちょいちょいと撫でてやる。ドラゴンは鼻息ひとつ吹きだして、やっと機嫌をなおしたようだった。ハナの胸に頭を擦り付けると、よじ登って肩におさまった。
「おやおや。竜のご機嫌をなおすとはたいしたものじゃのう」
ほほほ、と笑って椅子に座りなおした仙人は、ハナに話を促した。
「そうでした! 博士、一つ試してみたいことがあるんですが」
「何じゃね?」
「あの子を助ける方法です。私が行くことができないなら、代わりに行ってくれるひとを探せばいい――うまくいくかどうかわからないけど」
「ほう……?」
博士は訝しげに首を傾げたが、
「紙と筆をいただけますか」
ハナが言うので紙と筆を渡してやった。
「……っし!」
ハナは墨を筆先にたっぷりつけると勢いよく紙面に躍らせた。
宰相ターガナーダの執務室は珍しい客を迎えていた。
蒼い法衣に銀糸で刺繍を施した帯。聖職者であることを明かす額の印。開いているのか閉じているのかわからないほど細い目。水華蓮国神祇官官長・青慧である。
「青慧殿、お待たせいたしました」
奥の部屋から出てきた宰相は軽く一礼をした。
「いやいや。お忙しいところお邪魔してすみませんね、宰相。ちょっと確認したいことがありましたもので」
青慧は糸目をさらに細くしてにっこりと笑った。
二人の重鎮が異邦の女の部屋に赴くと客人の姿はなく、博士の部屋に行っていると女官の一人が応えた。
「――ですが、青慧殿がこんなに興味を示されるのも珍しいですね」
「そうですか? ただの野次馬ですよ。だって、木彫りを生き物に変えるなんて、聞いたことありませんからねえ」
あはは、と軽く笑う神祇官官長は、悪戯っぽく聞いた。
「何でも、宰相閣下がいたくお気に召した女性だとか。女官達が悔しげにほぞを噛んでおりましたよ」
そんな青慧の軽口にも宰相の表情はまったく変わることなく、「そうですか」と色気もそっけもない返事が返っただけだった。
開け放たれた扉から清々しい墨の薫りが流れてくる。
「失礼いたします。博士はご在室でいらっしゃいますか」
宰相は声をかけた。奥から了承の声が聞こえ、宰相と神祇官官長は中へと入る。
「何かしたためられておいででしたか」
奥の部屋から出てきた仙人は、いやいやと首を振って笑った。
「わしではなく、ハナがの。――おや! これはお珍しい御仁がお見えじゃな!」
「お久しぶりです、老師」
皺深い顔をほころばせた仙人に、青慧もにっこりと笑い一礼する。
やがて奥から「できた!」と歓声があがった。
「できましたよ、博士!」
子供のようにはしゃいで顔を覗かせたハナは、二人の客人に瞠目する。
「あれ?」
「―――っ!」
宰相の後方にいた青慧が息を呑んだ。
(………?)
宰相はちら、と後方を見やったが、部屋から出てきた異邦人の顔を見て溜息をついた。
「――ハナ。そなた、もう少し大人しく描けぬのか」
宰相が呆れたのも無理はない。
ハナの頬と額には墨痕も鮮やかに「一」の字が描かれていた。宰相が懐布を出してハナの頭に手を伸ばしたときだった。
「宰相閣下!」
一瞬、空気が張り詰めるほどの厳しい声がかかった。
「……いけませんよ。女性の顔をゴシゴシこすろうなんて」
驚いて振り向いた彼らに青慧はニッコリ笑い、宰相の手から布を取り上げると手水の壷から水をしたたらせ濡らした。
「失礼します」
青慧は恭しいほどの手つきでハナの頬と額の墨を拭き取った。
「さあ、綺麗になりましたよ」
「は……、あの、ありがとうございます……」
しどろもどろでペコリと頭を下げた異邦の女に、青慧はふと苦笑を洩らす。
「……まさか、この私が気付かなかったなんて……」
「え?」
「あ、いえ。改めまして、お初にお目にかかります。私は青慧と申しまして神祇官を勤めております。どうぞよしなに」
「あ、はじめまして、矢島ハナと申します」
「………」
――その、彼らのやり取りを興味深そうに眺めていた仙人は、ハナの手にある紙に目を留めた。
「ほう。竜神か! ハナは絵も達者じゃのう」
長い髭をしごきながら仙人は目を細める。ハナは紙を博士に手渡し、ちょっと得意げに笑ってみせた。
勇壮な姿の竜が紙面いっぱいに踊り、いまにも動きだしそうだった。
「博士、失礼いたします。女王陛下のおなりでございます」
先触れの後ほどなく、白い着物の美しい女王が姿を見せ、仙人の部屋は再び賑やかになった。
水華蓮の国主とその重鎮たちはハナの目論見を聞き、呆気に取られた。
懸念する人々に、異邦の女はあっけらかんと、
「さあ、どうなるかわかりません。初めてなので。でも、まあ、やって損はないかなと――なあ、鶴?」
傍らに佇んでいた鳥の頭をちょいと撫でてやると、鶴はクエ、と鳴いた。
「さて、と!」
竜の絵を持ち、ハナはブーツの踵を鳴らして庭へと降りていった。
仙人と宰相はそれへ続き、女王までが面白そうについて来た。青慧は立ち上がり、テラスへ出るとハナの姿が見える位置に佇んだ。
「陛下、危のうございます」
「大事ありません」
女王は言い置いてさっさと庭へ降りてゆく。お付きの女官達が大慌てで追って行った。
「シュリー、参謀長官殿のところへ戻って。危ないから」
肩の小さなドラゴンに言うと、彼女はちょっと不満そうに喉を鳴らしたが、素直に宰相へと飛んで行った。
ぞろぞろと大人数が見守る中、ハナは描いた竜を地面におき両手をついた。
「…一体何を…」
「しっ! 静かに!」
女官達のざわめきもおさまり、しん、と静まり返った庭は、小鳥さえもが歌うのを遠慮してしまった。
「…………」
ハナは両手から大地を感じとろうと精神を集中させた。
意識の手を地中へ、そして頬をなでる風へ、蒼い海へ、空を突き抜けさらにその上へいっぱいに広げていく。
もっと深く。もっと高く、もっと遠くへ。
もっと、もっと。
そうして、自分がそれの一部であることを感じ取ったとき、ハナの唇から低い旋律のような声が洩れ出た。
「…すべての命を生み、生きとし生けるものを育む、すべてのものに感謝申し上げる。…健やかな大地と、水と、風に、祝福と感謝を……」
呪文など何一つ知らない。ただ思うままに言葉にしてみただけだ。
心からの感謝は言葉には尽くせなかった。ただただ、その思いを、ついた両手へとのせていった。
ぽたりと額から汗がしたたり落ちる。
さらに深く頭を下げる。ひたすら祈るように。
「…力を、貸して欲しい……。私に助けを求めたあの子を…竜樹を護り、導く力を、どうか貸して……っ!」
血を吐くような言葉のあと、ふと、すべてのものが動きを止めたように思えた。
それは、最初かすかに感じ取れる程度のものだった。
だが、だんだんはっきりと人々の耳に聞き取れるまでになる頃には地は鳴動し、風が渦を巻き、雷雲が黒く迫ってきていた。
「―――っ」
ハナは異変に顔をあげ、再び紙面の竜をひたと見据える。
(――来い!)
ゴゴゴ……
振動は大きく激しくなり、風は強さを増してハナの黒髪を巻き上げ、髪留めをはじき飛ばす。
城の上空に湧き出た雷雲は激しい放電現象を起こし、凄まじい爆音を轟かせた。
「きゃーっ!」
「ひいい!」
女官の悲鳴が上がり、兵たちが何事かと駆け込んでくる。
人々は、一度も経験したことのない凄まじい風と雷鳴、轟く大地に動揺し、恐怖に青ざめながら騒然としはじめた。
「騒ぐのではありません」
ぴしりと叱りつけた女王は、欄干にしっかりと掴まり異邦人を凝視していた。
宰相は近くの樹のもとに、仙人は地より数十センチほどぷかりと浮いて、じっと成り行きを見つめている。
「…くっ……」
手の平にびりびりとした振動が伝わる。
大地の奥から、なにか巨大なものがうねりながら真っ直ぐこちらに向かってくるのが感じ取れた。
地から吹き出る熱風に髪は逆巻き、ハナの全身から汗が噴き出した。
(きた!)
ドーン!
爆音とともに紙面を押さえていた両手は、噴き出した巨大な何かに弾き飛ばされ、彼女は後ろへひっくり返った。
「ハナ!」
宰相が駆けよりハナを抱え起こす。
それは、逆巻いていた風も、激しく放電していた雷雲もすべて飲み込んで、凄まじい勢いでまっすぐ天へと駆け上がった。
呆然と上を見上げていたのも束の間、ふたたび女官達と兵たちの悲鳴が湧き上がり、騒然となる。
「陛下、どうか、どうか中へ…!」
「陛下!」
「静かになさい! 騒ぐのではありません!」
「ですが…!」
人々の騒ぎを聞きながらハナは大きく息をつき、背を支えてくれる男を見上げて苦笑いした。
「…すみません、参謀長官殿…。…うう、ちょっと持ってかれた、らしい…」
宰相は、何を、と問おうとして人々の悲鳴に目を上げた。
「―――っ!」
彼の、あまり変化することのない顔が驚愕に目を見開き、ゆっくりと静かに、そして重厚な存在感でもって舞い降りてきた巨大なモノを凝視していた。
それはまばゆく白銀色に輝き、びっしりと鱗で覆われた長大な体躯をうねらせ人々の前にとぐろを巻いて浮いていた。
背には銀の紗のような美しい背鰭が波のように揺らめき、頭部には二本の角が伸びている。
細長い鼻面の口元には鞭のような髭が揺れ、大きな煌めくホワイトオパールの瞳が真っ直ぐハナに向けられていた。
毎回読んでくださっている貴方に心から感謝を。
今年もお世話になりました。
来年もどうぞ宜しくお願いします。