【伝説のかけら】
―――暗い……
―――暗くて冷たくて、凍えてしまいそうだ……
―――でも、見える
―――かすかな灯火が、遠くで瞬いている
―――遠くて……あまりにも遠くて手は届かないけれど……
―――あいつが眠っている間に呼んでみようか……
闇の中で、彼は身じろぎした。
圧し掛かる冷たい闇は、彼をそう簡単には自由にしてくれなかったけれども、目に映る灯火に心を鼓舞され、やっと上体を起こす。
―――ここです……!
―――僕はここにいます!
―――どうか、助けてください……ここから出して下さい!
彼は必死で叫んだ。
あいつが目覚める前にここから出なければ……
―――助けて
―――ハナ!
懐かしい、陽だまりのような思い出の女の子。
途端、彼は凄まじい力にねじ伏せられた。
悲鳴さえあげることができないほどの圧力。
彼の耳に、あの男の嬌声が鋭く響いた。
「はっ!」
悲鳴を飲み込み、彼女は起き上がった。
蒼い影が玻璃の窓から差し込んでいる。天空には銀色の月が浮かび、静かな光を降り注いでいた。
キュルル……
手元からドラゴンの鳴き声が聞こえ、目を落とす。
金色の目が気遣わしげに瞬いた。
「シュリー……」
触れようとして気がついた。
手が凍えている。
こんな暖かい国の、暖かい部屋にいて……
彼女はゆっくりと手を握りしめた。
「……たっくんが、いたよ……。私を、待ってる……」
ハナはドラゴンに囁き、窓の外へ目を向ける。
「真冬みたいに冷たくて、墨の中みたいだった……。でも、大丈夫。たっくんは、まだ大丈夫だ。今なら……」
キュルル
シュリーマデビイは小さな頭をハナの手にこすりつけ、その翼で抱えるように包み込んだ。
「……優しい子だね……」
手を包むほんのりとした温みに微笑んで、彼女はふたたび月を見上げた。
――急げ!
朝餉のあと、頃合を見計らって博士の客間に押しかけたハナは、まず昨日の非礼を詫びた。
宰相や女王は朝議の最中でもあり、部屋には女官さえいない。博士は皺深い顔をほころばせ、彼女に椅子をすすめた。
「なんの。したが、今日は何やら吹っ切れた様子じゃな」
「吹っ切れたと言うか、どうしても、行かねばならなくなりました」
そう言って苦笑したハナに首を傾げる。
彼女は今朝みた夢を博士に伝えた。
博士は、だが、深い溜息をつき、しばし言葉を選ぶように口をつぐみ――やがて、顔をあげると真っ直ぐに異邦の女へ目を向けた。
「――ハナ。はっきり申そう。かの国へ赴くことはできぬよ」
「な、何故ですか?」
思いがけない言葉にハナは椅子から身を乗り出す。
博士は片手をあげ、ゆっくりと口を開いた。
「この国が、交易で成り立っておることは知っておるかな?」
「あ、ええ。聞きました。造船技術は随一とも」
「左様。昨日、話した伝説は?」
「覚えてます」
仙人は頷き、続けた。
「この国の関所は三箇所あるのじゃが、そのいずれにも特殊な一族が国境を固めておる。彼らは水華蓮国の民にして民にあらず――伝説では、竜王の眷属といわれておるのじゃが、定かではない。いずれにせよ、ヒトではない一族じゃと伝えられておる。造船・操船技術は彼らの伝えるところのもの。さて、竜王と、水華蓮の建国王はどうやってホウライヌへ渡ったか――」
「……その、一族の力を借りて、ですか?」
「左様じゃ。その一族が竜王の眷属と言われる所以は、かの魔物を封印した入口の守りとして、その一族を定めたもうたため――その後、竜王は水華蓮の三箇所にも一族を置き、去ったと言われておる。お前様がホウライヌへ行けぬのは他でもない。権限がないからじゃよ」
しばし、ハナは呆気にとられて目の前の仙人を見つめた。
彼女の世界では、通常パスポートさえあれば、どこの国へでも行ける。
博士の今までの話からすると、ハナにはこちらのパスポートがない。パスポートとは、つまり、封印の守人であるか否かということになる。
「博士、その……お言葉ですが、この国の商人たちはどうやって国外へ……?」
「それは無論、商人と守人の一族との取引、ということになるじゃろ」
「ええっ? あの、それじゃ守人の一族ってのは、いわゆる治外法権なのですか?」
「チガイホウケン……? それは、この国の法に触れぬということかの?」
「はい」
「まあ、そうじゃな。彼らは国境を警護し国王からの謝礼と、出入国する商人からの手数料で存在しておると考えてもらってよかろう。ただし、封印が解けた後はどうなるか……」
「――? 封印が解けるとは……?」
博士が最後にぽつりと洩らした呟きをさとく聞きつけ、問い掛けたハナだったが、仙人が口を開く前に扉が叩かれた。
「失礼致します。女王陛下、宰相閣下のおなりでございます」
仙人の諒解に、扉が恭しく開かれる。
先導してきた近衛兵は扉の脇に立ち貴人を招きいれた。
「おはようございます、博士。お待たせいたしまして申し訳ありません」
宰相が優雅に一礼した。続いて女王がゆったりと進んでくる。
「おはようございます。博士、ハナ。お二人とも、ゆっくり眠れましたか?」
「おはようございます。昨日はご迷惑をおかけしました」
「今、二人で昨日の続きを話しておったところじゃよ」
ハナが挨拶し、仙人は二人の貴人に椅子をすすめた。
昼ごろ、女王と宰相はそれぞれの執務室へと戻って行った。彼らには処理すべき仕事がやまほどあるのだ。
ハナも博士のもとを辞し、部屋へと向かっていたが、ふと思い立って庭園へと足を向けた。
縦横にのびる廊の一つを選び、ずんずん進んでいく。
せり出した崖の突端にぽつんと立っている東屋が見えた。以前、宰相に連れてきてもらったあの東屋だ。
広がる町並みと、その先に見えるのは海。
海を渡った北の国・ホウライヌ――その国のどこかに存在する暗黒世界。そこに竜樹がいる。
だが、守人と取引できないハナには、かの国に行く権限がないという。
一体、守人の一族とはどういう人々なのだろう? 伝説では竜王の眷属だといわれているらしいが……
突然、肩に乗っていたシュリーマデビイが飛び立った。
「シュリー!」
緑のドラゴンは風に乗り、大きく旋回した。それを目で追っていると、大きな白い鳥が見えた。
「あれ、鶴だ」
元木彫りの鶴は、飛んできた小さなドラゴンに気付いたらしい。
ハナの見守る中、鶴とドラゴンは何やら楽しげに戯れはじめた。
「いいなあ、飛べるひとたちは――人じゃないけど」
手摺に頬杖ついて苦笑する。
そして、なにか釈然としないものに気がついた。
博士は先刻、ハナは国外へは行けぬと言った。だが、先日、宰相と話したときにはそんなことは一言も出なかったのだ。
ただ、シュリーマデビイを連れては行けないから、言葉に不自由するということと、この国の高官たちの中に自分を害そうとする者がいるだろうということ――問題としてはこれだけだったはずだ。
女王も宰相もかの一族のことは知っているようだった。詳しいことは知らなかったようだが。
「それにしたって……」
行ける望みがないのなら、初めから教えてくれればよかったのに――
そう思わぬでもない。
――いや。宰相も守人の一族と交渉ができぬとは思わなかったのかもしれない。
「竜王の眷属かあ……」
はるか昔々に竜王より封印と境界の守護を定められた一族――
溜息とともに呟いて、見るともなしに空中で遊ぶ鶴と竜をながめていた。
鶴の白い翼が陽光に煌めく。
突如、ハナの脳裏に閃光が走った。
「――そうかっ! そうすればいいんだ!」
叫びざま、ハナは東屋を飛び出した。