【薫香〔弐〕】
「ハナ!?」
宰相は倒れこんだハナに駆けより、女官は何が起こったのか理解できぬようにポカンとしていた。
「ハナ!」
そっと抱え起こし、呼びかけながら軽く頬を叩く。ハナの身体はまるで高熱を出しているように熱く、眉根が苦しげに寄せられていた。
宰相は呆然としている女官に振り向いた。
「その瓶の蓋を閉めて窓を開けよ!」
「は、はいっ!」
女官はわけがわからぬまま慌てて香水瓶の蓋を閉じ、窓を開け放っていった。
新鮮な風が濃厚な香りを部屋から押し流していく。
「……う……」
ハナがうめき声を洩らし、身じろぎした。
「ハナ、大丈夫か…?」
「だい……」
大丈夫という言葉さえ紡げず、苦しげな呼吸が洩れる。身体は鉛のように重く、指一本動かすことさえ困難だった。
シュリーマデビイが心細げに鳴きながらハナの胸元に降り立ち、彼女の頬に頭をこすりつける。
うっすらと目をあけたハナは、小さなドラゴンに手を伸ばそうとしたがかなわず、指がぴくりと痙攣しただけだった。
「無理をするな。――すまぬが、冷水を」
「はい!」
若い女官は泣きそうな顔で返事すると、すぐさま身を翻して堂室を出て行った。
宰相はそっと腕に力をこめる。
「……すまぬ……。こんなことになるとは……」
「な……」
低い詫びるような声音に、ハナは問いかけようとしたが苦しげな息が吐き出されるばかりで、言葉にすることはできなかった。
開け放たれた窓から入ってくる風が部屋をめぐり香水の香りが完全に消え去った。
朦朧としていた意識がすこしずつ覚醒し、ぼんやりとしていた視界が明瞭になり五感が戻ってくる。
(――えっ?)
そしてやっと、ハナは宰相に抱きかかえられていることに気がついた。
驚いて男の腕から逃れようとしたが、身体のほうは依然として動かせず、額をかすめる彼の吐息と着物の香がさらに心臓を飛び上がらせた。
(ええっ? ちょっと……何故こんなことにっ?!)
早くなっていく鼓動に自分でもわけがわからず混乱しはじめる。そして混乱すればするほど鼓動は早鐘を打ち、ますます彼女を動転させた。
こんなに密着していたら心臓の音が伝わってしまう。ヘンに思われてしまうではないか!
「参……手、はな……」
いたたまれなくなって体中の力を振り絞り懇願するように声を発したが、相手には届かず解放してはもらえなかった。
(うう…っ!)
情けなくも半ベソ状態で身体を震わせたとき、
「…………すまない。寝台まで連れて行こう」
静かな声がした。
そっと身体を離すと、男は何事もなかったかのような顔でハナを見下ろした。だが、その青銀の瞳が心なしか面白がるような光を浮かべ輝いてみえる。
――否。みえる、のではない。
「〜〜〜っっ!」
(か、からかわれてるぅっ!)
ハナは羞恥と怒りで顔を真っ赤にした…………身体の自由がきかないのが悔しかった。
恨みがましく宰相を睨みつけるハナの視線を、痛くも痒くもなさそうな顔で受け止めながら、彼女を寝台に下ろしたとき数人の人々が部屋に駆け込んできた。
「ハナ様、お水をお持ちしました」
さきほどの女官が目に涙を浮かべ、水差しを抱えて駆け寄る。その後ろから女王と白髪の仙人が、さらに続いて里応と斎兼が心配そうに堂室に入ってきた。
「ありがと……」
女官に水を飲ませてもらい人心地ついたハナは、少し笑みを浮かべて礼を言った。
宰相は涼しい顔で女王と博士に一礼すると、一歩寝台から離れる。入れ替わりに女王がハナの傍に座った。
「ハナ、大事ありませんか」
白くたおやかな手が、心配そうに異邦の女に触れる。
「はい。ご迷惑を……」
「とりあえず、今はおやすみなさい。博士はしばらく城にいてくださいますから」
喋るのも不自由そうなハナを、そっと寝かしつけながら女王は微笑む。ふわりとした香がハナの鼻孔をくすぐった。
(…………)
花の香りだが、先刻のような衝撃はない。
一体、自分でも何故こうなったのかよくわからなかった。
あの香りを嗅いだ途端、花と果実に埋もれるような感覚に襲われ眩暈を起こした。ほんの少し意識を失っていたようにも思う。
(まるでむっちゃくちゃ濃いぃ、アルコールに頭から突っ込まれたような感じだった……)
そんなことを考えながら、何ともなく女王の美しい顔をじっと見つめていたらしい。
「ハナ?」
不思議そうに問い掛ける声にハッとして「ごめんなさい」と呟く。それがひどく子供っぽく見えたのか、
「まあ、可愛らしいこと」
女王は微笑みながら、その赤い花弁のような唇をハナの額に落とした。
それは女王の魔法だったのかもしれない。
ハナは急激に眠りの底へと引きずられていった。意識が閉じられる寸前、
「陛下」
宰相の低い声が聞こえた。
何故かひどく不機嫌そうに聞こえたのは、気のせいだったのだろうか……?
節くれだった長い指が小瓶の蓋を抜く。
溢れるような花と果実の香りが接見の間に広がった。傍にいた女王やお付きの女官達は、その芳しい薫りに感嘆の声をあげる。
「ふむ。なるほどのう……」
白い髭をしごきながら、老人はくすくす笑った。
――あの日、知己であるサイカの調香師が一世一代の大仕事として、
「大恩ある宰相閣下に」
と手渡された木箱。
中は極上の布に包まれた小さな陶器瓶。
調香師は厳かに告げる。
「この地と彼の地の恵みを合わせました。――どうか、宰相閣下にお役立て下さいますよう」
いかに朴念仁と言われている彼とて、この国における香水の役割を知らぬほど頑迷ではない。だが、果たして自分の手にあってこの香水が本領を発揮できるのか? 甚だ疑問を持った宰相は、そう言って調香師に返そうとした。
「それはそれで良いのです。……作っておいて言うのも何ですが、宰相閣下。それは普通の人間が扱える代物ではございません。これは、けして自惚れではございません。ひとえに彼の地がもたらす「恵み」ゆえでございます。……ですから、わたくしは、女王陛下にもお見せすることは控えましたのです」
調香師の言う「彼の地の恵み」が何を差すのか、宰相にはわからなかった。
そして、その「恵み」が何故、ハナにだけ異常をもたらしたのかも……
「――仙界の、花が混じっておりますな」
宰相のもの思いは、老人の言葉に吹き飛ばされた。
「はっ?」
「しかも、稀少な種かとおもわれますが……いやはや、驚きましたな」
楽しげに笑い、老人は小瓶を箱に詰めると静かに宰相に返す。
女官達はそれが宰相の懐に仕舞われるのを、名残惜しげに眺めた。
「それが、何故ハナに……?」
「さ、それは調べてみぬことにはなんとも……。おやおや、香りに惹かれて鳥が入ってきましたな」
老人の声に玻璃の扉を見ると、大きな白い鶴が佇んでいた。
「こちらへおいで。……そろそろ元に戻らんかね、お前」
老人は鶴に呼びかけ、苦笑する。
鶴はゆったりと歩いてきたものの、いっこうに木彫りになる様子はなく、宰相の懐に仕舞われた木箱を気にしているようだった。
「博士、これは……?」
「書き物をしておったら谷を飛んでおったのじゃよ。以前、贈った木彫りの鳥じゃと思うが……あれはいま、どこにあるかね?」
「客間でございます、博士。今はハナ様がお使いです」
老人の問いに、控えていた女官が応える。
女王と宰相は瞠目し、すぐさま一人をハナの部屋へ確認に行かせた。
ほどなく、戻って来た女官は見るからに動揺していた。
「あの……博士より賜った彫刻ですが……」
「どうしました?」
女王に促され、女官は両手をもみ絞り半ベソで口を開いた。
「あの……台座の上の鳥が消えております……」
「……………」
「……………」
しらじらと流れる沈黙の中、堪えきれずに吹き出した老人は楽しげな笑い声をあげた。
「かの御仁の目覚めが楽しみですじゃ……」
鶴は、ひとびとの複雑な視線も軽やかな老人の笑い声も、我関せずとばかりに部屋をのし歩いていた。
★独りごつ★
……桃色……