婚約者に「地味な帳簿係」と捨てられたので、彼の領地の赤字を王妃様に提出しました
数字で殴るタイプの令嬢です。
「リディア・エルフェン。君との婚約を破棄する」
王宮主催の春宵会で、わたしの婚約者だったカイル・バルグ伯爵令息は、よく通る声でそう宣言した。
楽団の音が止まったわけではない。けれど、周囲の視線が一斉にこちらへ向いたせいで、広間の空気だけがすっと冷える。
カイルの隣には、淡い桃色のドレスを着た男爵令嬢ミーナがいた。彼女は申し訳なさそうに眉を下げているが、その指はしっかりカイルの袖を握っている。
「君は地味すぎる。舞踏会でも会話でも、いつも帳簿、帳簿、帳簿。妻にしたいのは、数字ではなく花のような女性だ」
笑い声が小さく起きた。
わたしは手袋の中で指を握る。泣きそうだったからではない。持ってきた革鞄の留め金が、ちゃんと閉じているか確かめるためだ。
「承知いたしました」
頭を下げると、カイルが拍子抜けしたように目を細めた。
「随分あっさりしているな。文句はないのか」
「ございません。婚約を破棄されるのであれば、バルグ伯爵家の会計補助も本日限りで終了いたします」
「ああ、好きにしろ。君の小言がなくなれば、我が領地も明るくなる」
その言葉に、わたしはほんの少しだけ笑った。
明るくなる。
借入金の利息だけで小麦倉の修繕費が消えている領地が。
冬の救貧費を削ってミーナ嬢への宝石代を捻出している家が。
取引先に二重請求を見逃され、来月には王都銀行から監査通知が届く家が。
明るくなる、らしい。
「では最後に、引き継ぎだけさせていただきます」
わたしは革鞄から、一冊の帳簿を取り出した。
表紙は飾り気のない黒革。三年間、毎晩のように開いたせいで角が丸くなっている。カイルは露骨に顔をしかめた。
「またそれか。こんな場で見せるものではない」
「ええ。ですから、必要な方にだけお渡しいたします」
わたしは広間の奥へ視線を向けた。
そこには王妃クラリス様がいらっしゃった。王太子殿下の婚約披露を兼ねた夜会であるため、王族席の周囲には近衛と侍女が控えている。
わたしが近づくと、近衛が一歩前へ出た。けれど王妃様は扇を静かに下げる。
「エルフェン伯爵令嬢。何かしら」
「お目汚しをお許しください。バルグ伯爵領に関する収支報告、未払債務、租税納付状況、改善案をまとめたものです。婚約解消に伴い、当事者でなくなる前に公的な保管先へ提出いたします」
広間の空気が、先ほどよりもはっきり凍った。
カイルが後ろから怒鳴る。
「リディア! 何を勝手なことを!」
「勝手ではありません。帳簿の写しを王家に提出する権限は、領地救済臨時令第三条により、租税管理補佐人にも認められています。あなたが三年前に、面倒だからとわたしへ署名権を渡してくださいました」
カイルの顔から血の気が引く。
王妃様は帳簿を受け取ると、そばの老文官へ渡した。老文官は数頁をめくっただけで眉を上げる。
「王妃陛下。これは……数字の癖まで揃っております。かなり丁寧です」
「読み上げなさい」
「まず、バルグ伯爵家の今年度予算ですが、救貧院への支出が七割減。代わりに王都装身具店への支払が十二倍。名義はカイル・バルグ様。続いて、南水路修繕費が支出済みに見えますが、実際の工事契約は未締結。金額の移動先は狩猟会の会費です」
ざわめきが広がった。
ミーナ嬢がカイルの袖から手を離す。
「ち、違う! リディアが勝手に数字を作ったんだ!」
「では、こちらもご確認ください」
わたしは二冊目を取り出した。
「領民代表への聞き取り記録、倉庫在庫表、銀行照合表です。領主印のある領収書も挟んであります」
老文官の目が輝いた。
「証憑まで整理されている。素晴らしい」
褒められている場合ではないのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
わたしはずっと、地味だと言われてきた。
ドレスより帳簿。香水よりインク。詩集より契約書。
けれど、春に種を買えなければ、秋にパンは焼けない。橋が落ちれば、恋文より先に薬が届かない。数字は冷たいものではない。人が明日を迎えるための、いちばん静かな祈りだ。
「王妃様」
わたしは深く頭を下げた。
「バルグ領は、まだ立て直せます。三年あれば負債は半分にできます。水路と倉庫を優先し、装身具費と狩猟会費を止め、冬までに救貧院へ穀物を戻してください。領民に罪はありません」
王妃様は長く黙っていた。
やがて、静かな声で言う。
「あなたは婚約者を失ったばかりなのに、領地の心配をするのね」
「婚約者ではなくなっても、帳簿に名前のある人たちが消えるわけではありませんから」
王妃様の口元が、ほんの少し緩んだ。
「カイル・バルグ」
呼ばれたカイルは肩を跳ねさせる。
「はい」
「明朝、王室監査院へ出頭なさい。バルグ伯爵にも同じ命を出します。領地運営権は一時凍結。救済官を派遣します」
「そんな、王妃陛下! これは家の問題で」
「民の税と命を食いつぶした時点で、王国の問題です」
カイルは膝をついた。ミーナ嬢は泣き出し、周囲の貴族たちは彼女からもカイルからも半歩ずつ距離を取る。
王妃様はわたしへ向き直った。
「リディア・エルフェン。あなたを王室監査院の臨時補佐官に任じます」
「わ、わたしを、ですか」
「ええ。これほど見やすい帳簿を作る者を、地味だと言って捨てる家に置いておくのは王国の損失です」
広間に、今度は違う種類のざわめきが起きた。
老文官が嬉しそうに頷いている。王妃様の隣にいた若い公爵令息が、わたしの帳簿へ興味深そうに視線を落とした。
「リディア嬢」
彼は一歩進み出た。
「王室監査院所属、ノア・ルクレールです。明日から同僚になります。よろしければ、その改善案を一緒に読ませていただけますか」
わたしは慌てて礼を取る。
「もちろんです。ただ、数字ばかりで退屈かもしれません」
ノア様は、カイルとはまったく違う笑みを浮かべた。
「退屈な数字が、人を救うところを見るのが好きなんです」
その一言で、胸の奥に残っていた痛みがほどけた。
婚約は破棄された。
笑われた。
地味だと言われた。
けれど、わたしの三年間は、無駄ではなかった。
「リディア! 待ってくれ! 君がいないと領地が」
背後からカイルが叫ぶ。
わたしは振り返り、丁寧に微笑んだ。
「先ほどおっしゃったではありませんか。わたしの小言がなくなれば、領地も明るくなると」
カイルは言葉を失った。
わたしは黒革の帳簿を胸に抱き、王妃様へもう一度頭を下げる。
地味な帳簿係の夜は、そこで終わった。
翌朝から、わたしは王室監査院の机で、王国中の赤字と向き合うことになる。
そして一週間後、バルグ領へ救済の馬車が出た。
荷台には小麦と薬草と、わたしが作った新しい予算表。
数字は嘘をつかない。
だからこそ、数字は未来を変えられる。
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