第32話 他種族
~アスナの屋敷・客間~
豪奢なシャンデリアが放つ柔らかな光の下、俺たちはアスナさんの告白に耳を傾けていた。
彼女は結界魔法貴族の伯爵であり、この王都を守る結界の管理人(守護者)であること。そして、その重責ゆえに屋敷から出ることもままならない籠の鳥であること。
アスナさんは、湯気の立つ紅茶のカップを見つめながら、静かに、けれど熱の籠もった声で語り始めた。
「……ワラワはこのモークザイン家に生まれた宿命として、この身を犠牲にして街を守っている。それは、頭では理解しておるし、受け止めてもおるつもりじゃ」
彼女の手が、ドレスの膝の上でギュッと握りしめられる。
「しかしな……ふとした瞬間に、どす黒い感情が湧き上がってくるのじゃ。なぜ、ワラワだけが? なぜ、一生をこの結界に捧げねばならんのか、とな」
アスナさんが顔を上げ、俺たちを見渡した。その瞳には、深い悲しみと、行き場のない怒りが宿っていた。
「元をただせば、魔族がいるからじゃ。奴らが存在し、人間を脅かすからこそ、結界を維持し続けなければならん。
もし魔族が攻めてこなければ。
もし、この世界に結界など必要なければ。
ワラワは、普通の少女として恋をし、旅をし、違う人生を歩めていたのではないかと……そう思わずにはいられんのじゃ」
彼女の声が震える。
「これが、ワラワが魔族を憎む理由じゃ。単なる種族的な嫌悪ではない。ワラワの『自由』と『可能性』を奪った元凶そのものだからじゃ」
アスナさんは悔しそうに唇を噛み、再びうつむいた。
重い沈黙が流れる。
誰も何も言えない。彼女の憎しみは、単なる偏見ではなく、失われた青春そのものに向けられた慟哭だったからだ。
だが――そんな重苦しい空気を切り裂くように、一人の少女が身を乗り出した。
アルミルだ。
彼女は真っ直ぐな瞳でアスナさんを見つめ、真剣な顔つきで声をかけた。
「じゃあ、魔族さんが襲ってこなければ……アスナさんは幸せになれるんですか?」
「……え?」
「結界が必要ない世界になれば、アスナさんはこのお屋敷から解放されて、自由の身となって幸せになれるんですか?」
アスナさんが呆気にとられたように瞬きをする。
アルミルは、ドンと自分の胸を叩いた。
「やりますよ。私。それ、やってみせますよ」
あまりに突飛で、あまりに純粋な宣言。
アスナさんは困惑し、力なく首を横に振った。
「……ありえん。前にもそれを聞いたが、本気で言っているのか? 魔族と心を通じ合わせる? そんな他種族と分かり合うだなんて非現実的なことは……できるわけがない。夢物語じゃ」
拒絶ではない。諦めだ。
長年、現実という鎖に縛られてきた彼女には、アルミルの言葉はあまりに眩しく、そして遠い理想論にしか聞こえないのだろう。
すると、それまで黙って紅茶を飲んでいたポームが、カップをソーサーに置き、静かに口を開いた。
「……アルは本気だよ。アスナさん」
その声は、驚くほど優しかった。
定食屋でアスナさんと激しく言い争っていた時の、あの刺々しさは微塵もない。
「この前、私とあなたが言い争った時のこと、覚えているわよね? 正直に言うと、私もあの時は、アルの言っている『共存』なんて夢物語を、鼻で笑っていたわ」
ポームが自嘲気味に笑う。
「でもね、あの後、考えが変わったの。
アルの持っている感性って、私たちの持っている常識や理屈が通用しないのよ。でも、そこがいいところなの」
ポームは隣に座るアルミルに視線を向け、愛おしそうに目を細めた。
「近くにずっといて分かったんだけど、アルの中にある『折れることのない信念』ってやつが、熱となって周りに伝播し、大きく影響してみんなを飲み込んでいくの。それも、いい方向にね」
――ッ!!
俺は心の中でガッツポーズをした。
ぬおぉぉぉー! ポームよ! 我が最愛の妹(役)よ!
ようやくアルミルの真の魅力、その「アイドル力」の神髄に気づいたか!
そうだ! その通りだ!
理屈じゃない。計算じゃない。ただひたすらに前を向くそのエネルギーこそが、周りを巻き込み、世界を変えていくんだ!
兄は、いや、大魔王はうれしく思うぞ! 今すぐ赤飯を炊きたい気分だ!
ポームは俺の内心の狂喜乱舞を知る由もなく、言葉を続けた。
「現に、この子を見てちょうだい」
ポームは、アルミルの足元でミルクを皿ごと舐めまわしていた子狼――コナッツオを指さした。
そして、コナッツオに向かって「出番だよ」とばかりに目で合図を送る。
突然振られたコナッツオだったが、そこは聖獣。瞬時に空気を読んだ。
ピチャピチャと舐めていた舌を止め、口元のミルクを前足で拭うと、身軽な動作でアルミルの膝の上へ飛び乗った。
ピンと尾を立て、胸を張る。
そして、あのかわいい侍口調で高らかに名乗りを上げた。
「やーやーやー!
我こそは『銀繊懐狼』の聖獣オリブが子孫、聖獣コナッツオ!
我が主、アルミル様の聖騎士でござる!」
「なっ……!?」
アスナさんが椅子から転げ落ちそうになった。
扇子を取り落とし、口をあんぐりと開けている。
無理もない。ただの可愛いペットだと思っていた子犬が、いきなり流暢な人語を、しかも時代劇口調で話し始めたのだから。
驚愕するアスナさんへ、ポームが勝ち誇ったような笑顔で言った。
「ほらね。この子、ただの獣じゃないわよ。他種族、それも……」
アスナさんが会話を奪い、興奮気味に身を乗り出した。
「そ、それも聖獣! あ、ありえない! いや、しかし、現にアルミルに懐いておるし、人語を解しておる!」
アスナさんの魔導師としての知識が、目の前の現実を分析し始める。
「聖獣と言えば、聖女オイリー様から特別に認められた獣が祝福を受け、ごくまれに超進化を果たしたと伝えられている伝説の存在……。
この辺りでは、隣村の守り神である聖獣オリブ様が有名だが……ま、まさか、その子孫だと?!」
「いかにも。親の名はオリブでござる」
コナッツオが鷹揚に頷く。
「信じられん……! あの聖獣様は、村のごく限られた人としか交流が無く、部外者に懐くことなど無きに等しいと聞いておる。気難しく、誇り高い種族だと!
その子孫を……出会って間もないアルミルが引き取り、従わせているというのか?!」
アスナさんの常識が音を立てて崩れていく。
ポームは、まるで自分の事のように誇らしげに言った。
「そうさ、アルは普通じゃないんだ。聖獣だろうが、きっと魔族だろうが彼女の前では関係ない。心を通わせてしまうんだ。だから言ったろ? アルは本気だって」
ポームの言葉に、アスナさんは大きく息を吐き、背もたれに体を預けた。
憑き物が落ちたような、そんな表情だった。
「……完敗じゃ。シュラ殿といい、ポームさんといい、アルミルへの信頼と想いが強すぎると思ったが……認めざるをえぬようだな」
アスナさんは、膝の上のコナッツオを優しく見つめるアルミルに視線を移した。
「魔族への憎しみは、そう簡単には消えぬ。だが……ワラワも、アルミルの言う『可能性』を、信じてみることにするぞ。もしかしたら、本当に世界を変えてしまうかもしれんからの」
「ありがとうございます、アスナ師匠!」
アルミルが花咲く笑顔を見せる。
場が和やかな空気に包まれた。
すると、アスナさんが少し頬を赤らめ、モジモジと言いにくそうに口を開いた。
「ただ……ひとつよいか? その……」
「はい? なんです?」
「聖獣の……触り心地と言うのは、どのようなものなのじゃ?
見た目は柔らかそうだが、やはり聖なる生き物ゆえ、ゴワゴワしているのか? それとも鱗のようにガサガサしているのか? それとも……」
アスナさんの視線が、コナッツオの毛並みに釘付けになっている。
隠しきれない「触りたい」オーラが出まくっている。貴族だろうが魔導師だろうが、モフモフの誘惑には勝てないのだ。
アルミルはクスクスと笑い、膝の上のコナッツオを抱え上げると、アスナさんの方へ差し出した。
「百聞は一見に如かず、です! 自分で確かめさせてもらってみてください。うふふっ」
コナッツオも空気を読み、「どうぞでござる」と言わんばかりにお腹を見せる。
アスナさんは、震える手でゆっくりと手を伸ばした。
恐る恐る、そのプラチナシルバーの毛並みに指先が触れる。
「……っ!」
アスナさんの目が輝いた。
「おぅ……なんというモフモフ。絹のように滑らかで、陽だまりのように温かい……。この感触、癖になりそうじゃ」
一度触れてしまえば、もう止まらない。アスナさんは両手でコナッツオを撫で回し始めた。
それを見ていたポームも、たまらず身を乗り出す。
「私も。……やっぱり、この毛並みは最高ね」
「でしょでしょ~! ここ、耳の後ろが気持ちいいみたいだよ!」
アルミル、ポーム、アスナさん。
三人の美少女が笑顔で身を寄せ合い、一匹の聖獣を撫で回す。
そこには、種族の壁も、身分の差も、過去の因縁もない。ただ「可愛い」という絶対正義があるだけの、平和で尊い空間が広がっていた。
――チャンスだ。
俺のオタクセンサー兼、大魔王の直感が告げている。
3人からクシャクシャにされているコナッツオ。あの顔は完全に気を抜いている。舌を出し、目を細め、だらしなく腹を見せている。
野生の警戒心などゼロだ。
こ、これは! どさくさに紛れて、俺もこの「モフモフ天国」に参加する千載一遇のチャンスだ!
今まで何度拒絶されようと、諦めきれない男のロマン。
俺は大魔王。不可能を可能にする男。
いざ!
俺は音もなく立ち上がり、ソファの後ろへと回り込んだ。
気配を消し(魔王スキル:隠密)、殺気を消し、ただの空気となる。
3人の楽しそうな笑い声に紛れ、ゆっくりと、しかし確実に手を伸ばす。
あと10センチ。
あと5センチ。
いける。あの極上の毛並みが、俺の指先に……!
「ガルルゥ~!!」
ビクッ!
振り向いたー!
目が合ったー!
そして怒ったー!
なぜだー!
コナッツオは3人に撫でられている時はデレデレなのに、俺の手が近づいた瞬間だけ、正確に「魔王センサー」を発動させて牙を剥いてくる。
俺が慌てて手を引っ込めると、コナッツオは何事もなかったかのように3人に撫で回され、再び顔を緩めた。
「ぐふふ、そこは効くでござる~」みたいな顔をしている。
くそっ、この差別待遇!
だが、俺はあきらめんぞ。
いつか必ず、そのモフモフを攻略してやる。
俺は「やれやれ、困ったペットだ」という風を装って一旦席に戻り、油断を誘う。
そして、会話が盛り上がった瞬間を見計らい、死角からもう一度トライを……
「ガルルゥ~」
手を伸ばす前に悟られてしまった。
チッ、ニュータイプかよ。
俺がコナッツオと無言の攻防(全敗)を繰り広げていた、その時だった。
宮殿のようなお屋敷の一室に、氷のような冷たい声が響いた。
「……お嬢様。意見具申、よろしいでしょうか」
ピタリ。
その場の空気が一瞬にして凍りついた。
モフモフに夢中になっていた3人の手が止まり、コナッツオもビクッとして身を起こす。
声の主は、執事さんだった。
急に現れたように感じたが、実際は違う。俺たちが入室してから今の今まで、ずっとドアの横に直立不動で立ち、気配を完全に消して、アスナさんと俺たちのやり取りを伺っていたのだ。
白髪の年配男性。背はそれほど高くないが、燕尾服を着こなしたその佇まいには、歴戦の強者のような「ベテラン感」が漂っている。
ただの執事ではない。この屋敷と、モークザイン家を影で支えてきた重鎮のオーラだ。
アスナさんが、椅子に座ったままゆっくりと振り返った。
その表情から、先ほどまでの浮ついた空気は消えている。
「大切な友人の前だ。慎め」
低い声で制する。
しかし執事は、前腕に掛けられたトーションと呼ばれる白い布を、手持無沙汰に折りたたみながら、一歩も引かずに発言した。
「恐れながら。さすがに今回ばかりは、言わせていただきます」
セバスの視線は、アスナさんを真っ直ぐに見据えている。
「さすがに今回ばかりは、言わせてください。お嬢様。このままでは諸国漫遊中のご両親に顔が立ちませぬ」
そのやり取りを聞いていたアルミルが言った。
「あの、言いたいことって、私にですか?何でも言ってください。気にしませんから」
すると執事はアルミルの方を見てから口角を少し上げ、作った笑顔で言った。
「《《お前》》、ではありませんよ。お嬢様にです」




