第9話 全力の追跡と推し変宣言
革のベルトをきつく締めた。
私の荷物は、トランク一つだけ。
嫁いできた時と同じ、身軽な姿だ。
ただ一つ違うのは、このトランクの中に、こっそり書き溜めた「観察日記」と、三毛猫の絵が描かれたハンカチが入っていることくらいか。
「……お世話になりました」
私は誰もいない部屋に一礼した。
ここでの生活は、楽しかった。
推しを愛で、美味しいご飯を作り、猫をもふもふする日々。
けれど、契約が満了した以上、居座る理由はない。
私は深呼吸をして、扉を開けた。
◇
玄関ホールには、アイザック様と、新米騎士のレオン君が見送りに来てくれていた。
「本当に行ってしまうんですか、奥様……」
レオン君が今にも泣きそうな顔で、私の手を握る。
わんこのような茶髪がしょんぼりと垂れている。
「ええ。実家とは縁が切れましたし、新しい仕事を探そうと思いますわ。食堂の賄い婦なんて、いいかもしれませんね」
私が努めて明るく言うと、アイザック様が眉をひそめた。
「クラウスは見送りにも来ないのかい?」
「旦那様はお忙しい方ですから。……それに、もう他人ですし」
胸がチクリと痛む。
最後に一目会いたかったけれど、会えばきっと泣いてしまう。
「行かないで」と縋ってしまいそうだ。
そんな惨めな姿を、あの高潔な黒騎士様に見せるわけにはいかない。
「アイザック様。旦那様と、猫ちゃんたちをよろしくお願いしますね」
「リリアナ……」
アイザック様は何かを言いかけたが、私の決意が固いのを見て取り、静かに頷いた。
「……分かった。でも、忘れないでくれ。君はいつだって、この『黒鉄邸』の一員だ」
その言葉だけで十分だった。
私は二人に背を向け、待たせていた辻馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を振るう。
ゴトゴトと車輪が回り出し、屋敷が遠ざかっていく。
窓から見えた執務室の窓には、人影はなかった。
(さようなら、私の推し。さようなら、初めて好きになった人)
私は窓のカーテンを閉め、膝に顔を埋めた。
◇
馬車が街外れの街道に差し掛かった頃だ。
ドッドッドッ……。
後方から、地響きのような音が近づいてくるのが聞こえた。
蹄の音だ。
それも、尋常ではない速さだ。
「おい、止まれぇぇぇッ!!」
怒号のような、けれど必死さを帯びた叫び声。
聞き間違えるはずがない。
あのバリトンボイスだ。
「え……?」
馬車が急ブレーキをかけて停止した。
私は前のめりになりながら、慌てて窓を開ける。
土煙を上げて止まったのは、漆黒の毛並みを持つ巨大な軍馬。
その背に跨っていたのは、髪を振り乱し、肩で息をするクラウス様だった。
いつもの冷静沈着な姿はどこにもない。
まるで戦場からそのまま駆けつけてきたような、鬼気迫る形相だ。
彼は馬から飛び降りると、私の乗る馬車の扉を乱暴に開け放った。
「だ、旦那様!? どうして……」
「なぜ、黙って行く!」
クラウス様が叫んだ。
その瞳は、怒りよりも深い、切実な色を湛えていた。
「君を自由にするとは言った。だが、俺の前から消えていいとは言っていない!」
「え……?」
「俺は不器用だ。気の利いた言葉も言えないし、君を傷つけてばかりだ。だが……!」
彼は私の手首を掴み、馬車から引きずり出すようにして抱きしめた。
強い力。
痛いくらいの鼓動が、彼の胸から伝わってくる。
「君がいないと、駄目なんだ。飯も味気ない。猫たちも懐かない。……俺の隣が、寒くて仕方がないんだ」
それは、今まで聞いたどの言葉よりも、熱烈な愛の告白だった。
契約でも、義務でもない。
ただ一人の男として、私を求めてくれている。
「リリアナ。頼む、行かないでくれ。俺の妻でいてくれ。……愛している」
耳元で囁かれたその言葉に、私の涙腺が崩壊した。
我慢していた想いが溢れ出す。
「……いいんですか? 私、もう家柄もありませんし、お金もありませんわ」
「そんなもの、俺が一生稼いでやる」
「それに私、腐……いえ、少し特殊な趣味を持っていますし、旦那様とアイザック様の関係を見るのが生きがいですのよ?」
私は涙ながらに、爆弾発言を投下した。
包み隠さず、ありのままの私を受け入れてもらわなければ、本当の夫婦にはなれない。
クラウス様は一瞬きょとんとしたが、すぐに呆れたように、そして愛おしそうに笑った。
「知っている。アイザックから聞いた」
「えっ!? バレて……」
「俺をネタにして楽しんでいるんだろう? ……構わん。君が笑ってくれるなら、いくらでもネタになってやる」
なんと。
この堅物騎士団長様は、妻の推し活のために自らの尊厳を差し出すと仰ったのだ。
これ以上のスパダリ(スーパーダーリン)が、この世に存在するだろうか。
私は彼の胸に顔を埋め、大声で宣言した。
「決めましたわ! 今日から私の推しは、『クラウス様×アイザック様』ではありません!」
「……? なら、誰だ」
「『クラウス様』単推しです! 貴方だけを、全力で愛でさせていただきます!」
私が叫ぶと、クラウス様は耳まで真っ赤にして、さらに強く抱きしめ返してくれた。
「……それは、責任重大だな」
街道の真ん中で抱き合う二人。
御者のおじさんが「若いねえ」と呆れて見ていることなど、今の私にはどうでもよかった。
だって、私は最高の「推し」に愛され、そして彼を愛する権利を手に入れたのだから。
さあ、Uターンだ。
私たちの愛と萌えが詰まった、あの屋敷へ。




