第8話 断絶の対価と自由の宣告
「もっと金を出せと言っているんだ! 団長様のお気に入りなんだろう!?」
玄関ホールに、下品な怒号が響き渡っていた。
私が駆けつけると、そこには見慣れた、そして二度と見たくなかった二つの顔があった。
赤ら顔で太った父と、痩せぎすで神経質そうな兄。
二人は執事たちに掴みかからんばかりの勢いで喚き散らしている。
「お父様、お兄様。……何のご用ですか」
私が声をかけると、二人はギロリと私を睨んだ。
「やっと来たか、役立たず! お前が嫁いでから、こっちの資金繰りがまた苦しくなったんだよ!」
「そうだぞリリアナ。辺境伯様をたらし込んだのなら、もう少し援助させろ。それが家族への孝行というものだろう」
呆れた。
借金を肩代わりしてもらった上に、さらに金を無心するなんて。
彼らには恥という概念がないのだろうか。
「……お引き取りください。これ以上、旦那様にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
私が冷たく告げると、父の顔が怒りで紫色になった。
「なんだ、その口の利き方は! 誰のおかげで飯が食えてきたと思っているんだ!」
父がドシドシと歩み寄り、私の腕を乱暴に掴んだ。
痛い。
骨が軋むほどの強さだ。
「この可愛げのない娘が! 金以外に何の価値もないお前を、高い値で売ってやった恩を忘れたか!」
振り上げられた父の右手が、スローモーションのように見えた。
私は反射的に目を閉じ、身を縮こまらせた。
(殴られる……)
かつての実家での日々がフラッシュバックする。
出来損ない。
金食い虫。
そう罵られ、否定され続けた記憶。
しかし、いつまで経っても痛みは訪れなかった。
代わりに、ゴキリ、という硬い音が聞こえた。
「――俺の庭で、何をしている」
地を這うような低い声。
恐る恐る目を開けると、そこには仁王立ちするクラウス様の姿があった。
彼は父の振り上げた腕を片手で掴み上げ、万力のような力で締め上げている。
「い、痛い! 離せ、無礼者!」
「無礼はどちらだ。人の敷地で、あまつさえ俺の妻に暴力を振るうとは」
クラウス様が腕を振り払うと、父は無様に床へ転がった。
兄が悲鳴を上げて後ずさる。
「だ、旦那様……」
私が震える声で呼ぶと、クラウス様は私を一瞥し、そして父たちを見下ろした。
その瞳は、私が今まで見た中で最も冷たく、そして激しい怒りに燃えていた。
「リリアナは、物ではない。金で換算できるような安い存在ではない」
彼は懐から一枚の書類を取り出し、父の前に投げ捨てた。
それは、私の実家の借用書だった。
そこには「完済」の朱印が押されている。
「お前たちの借金は、全額俺が清算した。利子も含めてな」
「な、なんと……!?」
「その代わり、条件がある」
クラウス様は私を背に庇い、父たちに宣告した。
「今後一切、リリアナに関わるな。彼女は今日この瞬間から、お前たちの娘ではない。オルステッド家の人間だ」
父と兄は、完済された書類を拾い上げると、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
金さえ手に入れば、娘などどうでもいいのだ。
その事実に胸が痛むと同時に、重い鎖が断ち切られたような開放感があった。
静まり返った玄関ホール。
使用人たちも息を潜めている。
「……大丈夫か」
クラウス様が振り返り、私の頬にそっと触れた。
その手は、父とは対照的に、驚くほど優しかった。
「ありがとうございます……。また、助けていただいて……」
涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
借金を全額返してくれた。
実家との縁を切ってくれた。
彼は、本当に私を救ってくれたのだ。
けれど、次の瞬間。
クラウス様の口から出た言葉は、私の心を奈落へと突き落とした。
「これで、借金はなくなった。……君を縛る契約は、もう何もない」
え?
私は顔を上げた。
クラウス様は、どこか痛みを堪えるような表情で、私から視線を逸らした。
「君は自由だ、リリアナ。……こんな殺風景な屋敷も、愛想のない夫も、もう我慢しなくていい」
その言葉の意味を、私はゆっくりと咀嚼した。
借金が完済された。
つまり、「借金の形」としての私の役割は終わったのだ。
彼にとって私は、実家への義理と契約で繋がっていただけの存在。
それがなくなった今、ここにいる理由は消滅した。
「……そう、ですか」
喉が張り付いて、うまく声が出ない。
アイザック様の言っていた「惚れている」というのは、やはり私の都合の良い解釈だったのだ。
彼は責任感の強い人だ。
不遇な私を哀れんで、自由にしてくれようとしているだけなのだ。
「承知いたしました。……今まで、お世話になりました」
私は深々と頭を下げた。
感謝の言葉なのに、まるでさよならのようだった。
いや、さよならなのだ。
クラウス様は何も言わず、ただ拳を握りしめて立ち尽くしていた。
引き止めては、くれない。
私は逃げるように自室へと戻った。
推し活グッズ(隠し撮りスケッチや観察日記)で溢れた部屋が、急によそよそしく見えた。
ここを出て行かなければならない。
推しを、そして初めて愛してしまった人を置いて。
荷物をまとめる手が、涙で滲んで止まらなかった。




