第6話 夜会の宝石と一瞬のときめき
無数のシャンデリアが放つ光の奔流が、王宮の大広間を真昼のように照らし出していた。
「……大丈夫か、顔色が悪いぞ」
心配そうに覗き込んでくる夫、クラウス様の顔が近い。
今日の彼は、いつもの実戦用装備ではない。
漆黒の生地に銀の刺繍が施された、騎士団長の正装だ。
肩には勲章が輝き、撫でつけられた髪が精悍さを際立たせている。
(かっこよすぎます……!)
私はめまいを堪えるのに必死だった。
顔色が悪いのではない。
供給過多で血流が良すぎるのだ。
「平気ですわ。少し、煌びやかさに目が眩んだだけです」
私は震える手で、扇子を握りしめた。
今日私が身に纏っているのは、クラウス様が用意してくださったドレスだ。
鮮やかなエメラルドグリーン。
ふわりと広がるシルクのスカートには、繊細なレースがあしらわれている。
「君の瞳の色だ。……よく似合っている」
出かける前、彼は少し照れくさそうにそう言った。
私は感動した。
てっきり、ファッションセンス抜群のアイザック様が選んだのだと思っていたけれど、まさかクラウス様ご自身が?
「契約妻」の体裁を整えるためとはいえ、私の瞳の色を覚えているなんて。
几帳面な彼らしい、完璧な仕事ぶりだ。
「参りましょう、旦那様」
「ああ」
彼が差し出した腕に、そっと手を添える。
その腕の筋肉の硬さが、ドレス越しにも伝わってくる。
扉が開かれると、会場の視線が一斉に私たちに注がれた。
「氷の公爵」とその妻。
噂の的である私たちの登場に、ざわめきが広がる。
「見て、あの黒騎士様よ」
「隣が、あの噂の……」
好奇の視線が突き刺さる。
けれど、クラウス様は堂々としていた。
私の手を引き、波を割るようにフロアを進んでいく。
その凛とした横顔を見上げていると、不思議と恐怖心は消えていった。
推しの隣は、世界で一番安全な場所なのだ。
◇
最初のダンスを無難にこなし(クラウス様のリードは鉄のように固かったけれど、正確無比だった)、彼は挨拶回りのために一時的に離脱した。
私は壁際に下がり、グラスを片手に「観測者」のポジションに戻ることにした。
遠くで、クラウス様が数人の高官と話している。
その隣には、当然のように副団長のアイザック様が控えていた。
白の礼服に身を包んだアイザック様は、まさに王子様。
黒のクラウス様と並ぶと、オセロのように美しい対比が生まれる。
(ああ、眼福。この光景だけで、ごはん三杯はいけますわ)
私が脳内でスクショを連写していると、不意に視界が遮られた。
「あら、ごきげんよう。オルステッド辺境伯夫人」
派手な扇子を持った、数人の貴婦人たちが立っていた。
その目は笑っていない。
「噂は聞いておりますのよ。ご実家の借金のために、身売り同然で嫁がれたとか」
「まあ、可哀想に。愛のない結婚生活、さぞお辛いでしょう?」
「辺境伯様は女性に興味がないという噂ですし……ふふ、ただの飾り物ですのね」
クスクスという嘲笑。
典型的な「いびり」だ。
物語ならここでヒロインが涙ぐむところだが、私は内心で首を傾げていた。
(ええ、事実ですけれど?)
借金のために嫁いだのも、愛がない(と思っている)のも、彼が女性に興味がない(と思っている)のも、全て想定内だ。
むしろ、飾り物のおかげで推し活ができているのだから、感謝こそすれ、傷つく要素が見当たらない。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、私は今の生活にとても満足しておりますの」
私がにっこりと微笑むと、貴婦人たちは予想外の反応に眉をひそめた。
「強がりを。惨めなものね」
「没落貴族の娘が、図々しいこと」
一人が、わざとらしく私のドレスにワインをこぼそうとグラスを傾けた、その時だった。
「――何をしている」
地獄の底から響くような、低い声。
貴婦人たちがビクリと震え、道が開ける。
そこには、鬼の形相をしたクラウス様が立っていた。
灰色の瞳が、殺気でギラギラと輝いている。
戦場なら、視線だけで人が死んでいるレベルだ。
「へ、辺境伯様……ご、誤解ですわ。私たちはただ、奥様とご挨拶を……」
「挨拶? 俺の妻を囲んで嘲笑うことが、貴殿らの流儀か」
クラウス様は私の肩を抱き寄せ、彼女たちを睨みつけた。
その腕に力がこもる。
「リリアナは、俺が望んで娶った妻だ。家柄も借金も関係ない」
会場が静まり返る。
彼の声が、朗々と響き渡る。
「彼女は、冷え切った俺の屋敷に温かい食事と笑顔をもたらしてくれた。……俺の誇りだ」
ドクン。
心臓が、痛いくらいに大きく跳ねた。
「俺の妻を侮辱することは、このオルステッドへの侮辱とみなす。覚悟はいいか?」
貴婦人たちは顔面蒼白になり、「し、失礼いたしました!」と逃げるように去っていった。
残された私は、呆然と彼を見上げていた。
今の言葉。
「俺の誇り」。
それは、契約上の擁護にしては、あまりにも熱がこもっていた。
クラウス様が私を見下ろす。
怒りの形相が消え、急にバツが悪そうな顔になる。
「……すまない。怖がらせたか」
「い、いいえ……助けていただいて、ありがとうございます」
胸の鼓動が収まらない。
推しとして「かっこいい」と思う気持ちとは、明らかに違う。
守られた喜び。
独占欲を露わにされた時の、甘い痺れ。
(まずいわ……)
これは「萌え」ではない。
もっと生々しくて、厄介な感情だ。
私は、彼を一人の男性として意識し始めてしまっている。
◇
「少し、風に当たろう」
喧騒を避けるように、私たちはバルコニーへ出た。
夜風が火照った頬に心地よい。
王都の夜景が眼下に広がっているが、今の私には隣の彼しか見えていなかった。
手すりにもたれ、クラウス様が月を見上げる。
「……さっき言ったことは、本心だ」
彼がぽつりと呟いた。
「君が来てから、屋敷が明るくなった。部下たちも、君の料理を楽しみにしている。……俺もだ」
彼はゆっくりと私の方を向き、一歩近づいてきた。
月光に照らされた瞳が、優しく揺れている。
「リリアナ。俺は、君と……」
彼の手が伸びてくる。
私の頬に触れようとする指先。
その雰囲気に、私は身動きが取れなかった。
期待と、戸惑い。
契約結婚なのに。
彼には、もっとふさわしい「運命の相手(アイザック様)」がいるはずなのに。
「見ぃつけた」
その時、軽やかな声が夜気を切り裂いた。
私は弾かれたように飛び退いた。
反射神経が、思考より先に身体を動かしたのだ。
バルコニーの入り口に、アイザック様が立っていた。
手にはワイングラスを二つ持っている。
「やあ、二人とも。随分と探したよ。クラウス、国王陛下がお呼びだ」
いつもの柔らかな笑顔。
けれど、その瞳は鋭く観察するように私たちを見ている。
私は心臓を抑えながら、クラウス様から距離を取った。
(いけない。私としたことが、邪魔をするところでした!)
いい雰囲気になっていたからといって、私がヒロイン気取りでどうする。
彼の真のパートナーは、長年苦楽を共にしてきたこの美しい副団長なのだ。
私が入り込めば、この尊い関係性に亀裂が入ってしまう。
「し、失礼いたしました! 私、中座させていただきます!」
私は早口でまくし立て、逃げるようにバルコニーの出口へ向かった。
クラウス様が、伸ばしかけた手を宙に彷徨わせ、驚いた顔で私を見る。
「リリアナ?」
「お二人の邪魔はいたしませんので! どうぞ、ごゆっくり!」
私はアイザック様の横をすり抜け、会場の雑踏へと姿を消した。
背後で、クラウス様の深いため息が聞こえたような気がした。
けれど、私は振り返らなかった。
振り返れば、自分が「蚊帳の外」であることを突きつけられてしまうのが、怖かったからだ。
バルコニーに残された二人が何を話しているのか。
それは私の知るところではない。
私は胸の痛みを「これは尊さによる動悸だ」と言い聞かせ、冷たいフルーツポンチを喉に流し込んだ。
けれど、どんなに甘いシロップも、先ほどの「俺の誇り」という言葉の熱さを消すことはできなかった。




