第4話 秘密の愛人と猫だまり
「ねえ、聞いた? あの黒騎士様の噂」
街の市場で買い物をしていた私の耳に、不穏な囁きが飛び込んできた。
私は野菜を選ぶ手を止め、耳をそばだてる。
声の主は、井戸端会議に花を咲かせるご婦人たちだ。
「なんでも、森の奥にある小屋に『大切な相手』を囲っているらしいわよ」
「まあ。奥様をもらったばかりでしょう?」
「それが、政略結婚で愛はないんですって。夜な夜なその小屋に通って、甘い時間を過ごしているとか……」
カゴに入れたトマトが、私の手の中でぐしゃりと潰れそうになった。
(愛人、ですって……?)
背筋に冷たいものが走る。
聞き捨てならない。
実に由々しき事態だ。
私がショックを受けたのは、夫に裏切られたからではない。
私の推しカップリングである「クラウス様×アイザック様」の間に、泥棒猫(物理的な女性)が割り込む可能性が浮上したからだ。
これは「NTR」だ。
しかも、もっとも忌むべき「異性乱入」のパターン。
あの尊い二人の世界に、見知らぬ女の影が落ちるなど、断じて許されない。
聖域は守られねばならない。
「確認しなければ」
私はトマトを買い占め、決意を胸に屋敷へ急いだ。
もし噂が本当なら、手切れ金を払ってでも排除させていただく。
私の全財産を叩いてでも。
◇
その夜。
月が雲に隠れた暗闇の中、私は屋敷の裏口に潜んでいた。
黒いローブを目深に被り、気配を消す。
気分は凄腕の密偵だ。
深夜一時。
重い扉が軋む音と共に開き、人影が現れた。
クラウス様だ。
普段の軍服ではなく、動きやすい軽装に身を包んでいる。
手には大きなバスケット。
(やはり、噂は本当でしたのね……)
彼は周囲を警戒するように見回した後、森へと続く小道へ足を踏み入れた。
足取りが軽い。
いつもの重厚な歩調とは違い、どこかウキウキしているようにさえ見える。
私は一定の距離を保ち、音もなくその後を追った。
森の空気は冷たいが、私の怒りの炎は燃え盛っている。
「待っていらっしゃい、泥棒猫。このリリアナが、推しの平和のために引導を渡してあげますわ」
十分ほど歩いた先に、古びた木造の小屋が見えてきた。
窓から漏れる微かな明かり。
クラウス様は迷わずその中へ入っていく。
私は小屋の壁に張り付き、隙間風が入る板の割れ目から中を覗き込んだ。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「……よしよし、いい子だ。腹が減っていたのか?」
甘い。
砂糖菓子を蜂蜜で煮込んだような、とろける甘さの声。
あの「氷の公爵」ともあろう男が、だらしなく目尻を下げている。
彼が床に座り込み、愛おしそうに撫でている相手。
それは。
「みゃあ」
「なぁ」
毛玉だった。
いや、猫だ。
それも一匹ではない。
三毛、茶トラ、黒、ぶち。
大小さまざまな猫たちが、クラウス様の膝の上や肩に群がっている。
「今日は市場でいい魚が手に入ったんだ。ほら、食え」
彼がバスケットから取り出したのは、高級な白身魚の切り身。
私が「旦那様の夜食かしら」と思って見逃していた食材だ。
猫たちは嬉しそうに喉を鳴らし、彼の大きな手に頭を擦り付けている。
最強の騎士団長が、猫まみれになって床に転がっている。
(…………は?)
私は瞬きをした。
女は?
妖艶な美女はどこ?
そこにあるのは、ひたすらに平和で、モフモフとした空間だけ。
「なんだ……猫ちゃん、でしたか」
私はへなへなと座り込みそうになった。
隠語としての「ネコ(受け)」ではなく、生物学上の「猫」。
つまり、異性の介入はなかった。
ただ夫が、隠れ猫好きだったというだけの話だ。
(よかった……! カップリングは死守されましたわ!)
安堵のあまり、大きなため息が漏れてしまった。
「……誰だ!」
鋭い声。
クラウス様が弾かれたように顔を上げ、私の潜む壁の方を睨みつけた。
しまった。
気配を消すのを忘れていた。
バンッ!
小屋の扉が勢いよく開かれる。
私は逃げる間もなく、仁王立ちする夫と対面することになった。
「リ、リリアナ……!?」
クラウス様が目を見開く。
その肩には茶トラが乗り、足元には黒猫が絡みついている。
威厳も何もあったものではないが、本人は顔を真っ赤にして狼狽えていた。
「な、なぜここに。いや、これは違うんだ。その、捨てられていたのを放っておけず……」
彼はしどろもどろに言い訳を始めた。
「冷酷な黒騎士」のイメージが崩れるのを恐れているのだろうか。
可愛い。
ギャップ萌えというやつだ。
私はフードを脱ぎ、安堵の微笑みを向けた。
「ごめんなさい、旦那様。悪い噂を耳にして、心配でついてきてしまいましたの」
「……噂?」
「はい。旦那様が女性を囲っているという噂です。でも、安心しました。お相手がこんなに可愛い猫ちゃんたちでしたら、何も問題ありませんわ」
私は心からの本音を言った。
女でなければ、猫でも犬でも、あるいは魔獣でも構わない。
私の推し活における障害にはならないからだ。
しかし、クラウス様の受け取り方は違ったようだ。
彼は口を半開きにし、呆然と私を見つめた後、じわじわと耳まで赤く染まった。
「……心配、してくれたのか?」
「ええ、もちろんです(推しの貞操を)」
「女性の影があると思って……嫉妬して、追いかけてきたと?」
ん?
解釈が少しズレている気がするが、訂正するのも面倒だ。
結果的に「安心した」という事実は変わらない。
「まあ、そのようなものですわ」
私が曖昧に頷くと、クラウス様は片手で顔を覆った。
指の隙間から見える口元が、ニヤリと緩んでいる。
「そうか……。すまない、心配をかけた。俺には、そんな相手はいない」
彼は一歩近づき、熱っぽい瞳で私を見下ろした。
「俺が癒やしを求めていたのは事実だ。だが、これからは……隠す必要もないな」
彼は足元の猫を抱き上げ、私に差し出した。
「君も、猫は好きか?」
「大好きです!」
私は猫を受け取った。温かくて柔らかい。
クラウス様は、そんな私を見て、今までで一番優しい顔をした。
「よかった。……これからは二人で、こいつらの世話をしよう」
「二人で」。
その言葉の響きに、妙な重みを感じて首を傾げる。
けれど、猫の可愛さと、推しカプの安全が確認された喜びで、私は深く考えなかった。
「はい! 喜んでお供しますわ!」
月明かりの下、猫を挟んで見つめ合う夫婦。
側から見れば、愛を確かめ合った感動的なシーンに見えたことだろう。
夫は「妻の愛」を確信し。
妻は「推しの聖域」の安全を確信し。
二人の心が完全にすれ違ったまま、私たちは秘密の共有者となった。
これでまた一つ、私はこの屋敷での居場所(と猫カフェ)を手に入れたのだ。




