第3話 訓練場のぞき見と汗の輝き
キン、と甲高い音が青空に吸い込まれていった。
屋敷の裏庭で洗濯物を干していた私は、その鋭い響きに手を止めた。
風に乗って、微かに男たちの荒い息遣いと、土を踏みしめる音が聞こえてくる。
「……まさか」
私は濡れたシーツをバスケットに放り込んだ。
この音は、金属と金属が激しくぶつかり合う音だ。
そして、この屋敷の主は王国最強の騎士団長。
導き出される答えは一つ。
私は音のする方へ、忍び足で近づいた。
裏庭の奥、綺麗に刈り込まれた生垣の向こう側。
そこはプライベートな訓練場になっている。
生垣の隙間から、そっと中の様子を伺う。
「ッ……!」
声にならない悲鳴を上げ、私は口元を手で覆った。
そこには、神話の1ページのような光景が広がっていたからだ。
午後の強い日差しの中、二人の男が剣を交えていた。
一人はもちろん、夫のクラウス様。
そしてもう一人は、副団長のアイザック様だ。
二人は上着を脱ぎ捨て、薄いシャツ一枚になっていた。
激しい運動で汗に濡れたシャツが、鍛え抜かれた肉体に張り付いている。
クラウス様の背中の筋肉が、剣を振るうたびに躍動し、シャツ越しにその隆起を主張する。
対するアイザック様は、しなやかな鞭のように身体を反らし、軽やかに攻撃をかわしていく。
(素晴らしい……!)
眼福という言葉では足りない。
これは生きた芸術だ。
飛び散る汗が、陽光を浴びてダイヤモンドのように輝いている。
「そこだ、クラウス!」
「甘い!」
ガギィッ!
二人の剣が鍔迫り合いになり、火花が散る。
至近距離で睨み合う視線と視線。
荒い呼吸が混ざり合う距離感。
私の脳内フィルターがフル稼働する。
あれは単なる訓練ではない。
魂と魂の対話だ。
剣を通じて愛を語らっているのだ。
(ああ、尊い。尊すぎて目が潰れそうですわ)
私は生垣にしがみつき、瞬きするのも惜しんで見入っていた。
夫が他の男性と汗まみれで組み合っている姿を見て、これほど興奮する妻が他にいるだろうか。
いや、いない。
私だけが許された特権階級の娯楽だ。
ふと、アイザック様が動きを止めた。
剣を引き、肩で息をしながら笑う。
「はは、参ったな。やはり力では君に敵わない」
「お前が小細工に頼りすぎるからだ」
クラウス様も剣を下ろし、額の汗を腕で拭った。
その無造作な仕草がたまらなく男らしい。
休憩に入ったようだ。
今こそ、私の出番である。
私は一度屋敷に戻り、準備しておいたものをトレイに乗せた。
よく冷えたレモン水と、清潔なタオル。
あくまで「良き妻」の仮面を被り、しかし心は「敏腕マネージャー」として、彼らの聖域へと足を踏み入れる。
「お疲れ様です、旦那様。アイザック様」
訓練場の入り口で声をかけると、二人が同時に振り向いた。
クラウス様が少し驚いたように目を見開く。
「リリアナ? なぜここに」
「お庭の手入れをしていましたら、お声が聞こえましたので。喉が渇いていらっしゃるかと思いまして」
私はトレイを差し出した。
キラキラと輝くガラスのピッチャーには、輪切りのレモンとミントが浮かんでいる。
「これは気が利くね。ありがとう、奥様」
アイザック様が人懐っこい笑顔で近づいてきた。
近くで見ると、その肌の白さと、首筋を伝う汗の対比が破壊的だ。
私は震える手でグラスを渡す。
「ど、どうぞ」
「いただきます」
彼は美しい喉仏を上下させ、一気に水を飲み干した。
ぷは、と息を吐く姿さえ絵になる。
続いて、私はクラウス様にグラスを差し出した。
彼はまだ驚いているようで、私とグラスを交互に見ている。
「……俺にもか」
「もちろんですわ。旦那様こそ、一番汗をかいていらっしゃいますもの」
私がタオルも差し出すと、彼はそれを受け取り、乱暴に顔を拭いた。
そして、ボソリと呟く。
「……見られていたのか」
「え?」
「さっきの、打ち合いだ。君が見ていた気配がした」
ギクリとした。
騎士の感覚は鋭い。
生垣からのぞき見していたことがバレていたのか。
「す、すみません。お邪魔してはいけないと思いまして、遠くから少しだけ……」
「いや、いい」
クラウス様はタオルで口元を隠すようにして、視線を逸らした。
その耳が、ほんのりと赤くなっている。
「君が見ていると思うと……その、悪い気はしない」
え?
私は耳を疑った。
今の言葉はどういう意味だろう。
「観客がいた方が張り合いが出る」という武人の性だろうか。
しかし、クラウス様の様子は明らかにおかしい。
チラチラと私を見ては、すぐに目を逸らす。
その表情は、まるで褒められるのを待っている大型犬のようだ。
(まさか、私にかっこいいところを見せようと張り切っていた……?)
とんでもない誤解だ。
私はあなたたちの「二人セット」の尊さを見ていたのであって、クラウス様単体への熱視線ではない。
いや、単体でも十分にかっこいいけれど、そこには「受け」としてのアイザック様がいてこそ輝く文脈があるのだ。
「とても……素敵でしたわ。お二人の絆が見えました」
私は精一杯のオブラートに包んで感想を述べた。
すると、クラウス様はさらに勘違いを加速させたようだ。
灰色の瞳が、熱を帯びて私を捉える。
「そうか。……また、見に来るといい」
「えっ、よろしいのですか?」
「ああ。君のためなら、いつでも」
待ってほしい。
「君のため」とはどういうことか。
私専用のショータイムを開催してくれるということ?
それはつまり、アイザック様との絡みを合法的に供給してくれるという宣言?
「ありがとうございます! ぜひ、毎日通わせていただきます!」
私は食い気味に返事をした。
その勢いに、クラウス様は少し引きつつも、満足げに頷いた。
横で見ていたアイザック様が、含みのある笑みを浮かべている。
彼は気づいているのだ。
夫婦の会話が、致命的に噛み合っていないことに。
けれど、彼は訂正しない。
面白がっている。
「熱いねぇ。僕はお邪魔虫かな?」
「うるさい、アイザック。休憩は終わりだ。次は本気で行くぞ」
クラウス様は照れ隠しのように怒鳴り、再び剣を構えた。
その背中は、先ほどよりも一回り大きく、そして張り切って見える。
「はいはい。お手柔らかに頼むよ」
アイザック様も苦笑しながら構える。
私は木陰のベンチに座り、特等席を確保した。
レモンの香りが残るグラスを片手に、再開された模擬戦を見守る。
剣戟の音が再び響き渡る。
私の視線を感じてか、クラウス様の剣速が上がっている気がする。
それを受け止めるアイザック様は少し大変そうだが、二人の顔は生き生きとしていた。
(ああ、幸せ……)
夫が私に好意を寄せ始めていることなど、露ほども気づかず。
私はただ、目の前の極上の供給に酔いしれていた。
この屋敷に来てよかった。
契約結婚、万歳。
しかし、この時の私は知らなかった。
この小さな誤解の積み重ねが、やがて私の心臓を止めるほどの甘い爆撃となって返ってくることを。




