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夫の恋路を応援したい契約妻は騎士団長の溺愛に気づかない  作者: 月雅


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第2話 推しを育てる食事改革


乾いた音が食堂の冷たい空気に響いた。


それは私が手にしたパンを、皿の上に落とした時の音だ。

コツン、という軽やかな音ではない。

ゴトッ、という鈍く重い音だ。

どう見ても、これはパンではない。

小麦粉と水を練って焼き固めた、茶色いレンガだ。


「……これが、朝食?」


私は目の前に並ぶ「食事」を凝視した。

カチカチの黒パン。

塩漬けにして水分を極限まで抜いた干し肉。

そして、具の入っていない薄い塩スープ。


広い食堂には私一人。

クラウス様とアイザック様は早朝に出勤されたので、使用人が私の分だけ用意してくれたものだ。

恐る恐るパンをちぎろうとするが、指が折れそうになる。

スープに浸してようやく、端っこが少しだけふやけた。


口に入れる。

塩辛さと、古い粉の風味が広がる。

決して食べられないわけではないけれど、これを毎日?

あの美しい肉体を持つ騎士様たちが?


「ありえませんわ……!」


私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

怒りがふつふつと湧いてくる。

これは単なる食事の問題ではない。

「推し」の尊い肉体を維持するためのメンテナンスがおろそかにされているという、重大な危機だ。


あのクラウス様の彫刻のような筋肉も、アイザック様のしなやかな肢体も、日々の食事から作られている。

それなのに、こんなレンガと塩水を摂取していては、肌は荒れ、筋肉は痩せ細ってしまう。

栄養不足で彼らのパフォーマンスが落ちたらどうするの。

最悪の場合、夜の営み(という名の語らい)にも支障が出るではないか。


「許せません。管理不行き届きです!」


私はドレスの袖をまくり上げた。

掃除の次は厨房だ。

推しの健康は、ファンが守らねばならない。


          ◇


厨房に乗り込むと、そこは戦場跡のように荒れていた。

料理人はおらず、雇われている下働きのおじいさんが一人、眠そうに芋の皮を剥いているだけ。

聞けば、専属の料理人は先月辞めてしまい、今は街の食堂から適当にデリバリーするか、保存食で凌いでいるらしい。

独身男の集まりらしいといえばそれまでだが、あまりに杜撰だ。


「今日から私が管理します。食材庫を見せてちょうだい」


おじいさんは目を丸くしていたが、私が伯爵令嬢(元)の覇気で命令すると、大人しく鍵を渡してくれた。

庫内を確認すると、幸いにも根菜類や燻製肉、そして乾燥ハーブなどは残っていた。

小麦粉もある。牛乳も今朝届いたばかりの新鮮なものがある。


「これだけあれば十分ですわ」


私はエプロンをきつく締めた。

実家が貧乏だったおかげで、限られた食材を美味しく調理するスキルだけは無駄に高い。

それに、脳内には「騎士団の野営飯」から「王宮の晩餐会」まで、あらゆるシチュエーションのレシピが詰まっている。


今日のメニューは決まりだ。

疲れた体を芯から温め、明日への活力を養うための濃厚クリームシチュー。

そして、ふわふわの白パン。


私は魔石コンロに火を入れた。

鍋にバターを落とすと、じゅわっといい音がして、芳醇な香りが立ち上る。

鶏肉をこんがりと焼き、玉ねぎ、人参、じゃがいもを投入。

小麦粉を慎重に炒め、牛乳を少しずつ加えていく。

ダマにならないように、愛を込めてかき混ぜるのだ。


「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ。クラウス様の筋肉になぁれ、アイザック様の美肌になぁれ」


呪文のように唱えながら、ローリエの葉を浮かべる。

コトコトと鍋が歌い出す。

厨房いっぱいに広がる優しい匂い。

これよ、これこそが「家庭の味」。

殺伐とした男所帯に必要なのは、この癒やしなのだ。


パン生地も発酵が進み、可愛らしく膨らんでいる。

これをオーブンに入れれば、あとは待つだけ。


夕刻が近づくにつれ、屋敷の中に幸せな香りが充満していく。

掃除をしていたメイドたちも、鼻をひくひくさせながら厨房を覗きに来た。


準備は整った。

あとは、主役の帰還を待つのみだ。


          ◇


日が沈み、屋敷の入り口が騒がしくなった。

重い足音と共に、クラウス様が帰ってきたのだ。


「……なんだ、この匂いは」


食堂に入ってきたクラウス様は、怪訝な顔で鼻を鳴らした。

眉間の皺は相変わらず深いけれど、その瞳には明らかな動揺が浮かんでいる。

いつもの冷え切った食卓ではない。

湯気が立ち上る温かいシチューと、焼きたてのパンが山盛りにされたバスケット。

テーブルクロスも、私が倉庫から引っ張り出した清潔なものに変えてある。


私は給仕として控えていた。

あくまで「契約妻」として、出しゃばりすぎない距離感を保つ。


「おかえりなさいませ、旦那様。今夜は少し冷えますので、温かいものをご用意しました」

「君が作ったのか」

「はい。お口に合うか分かりませんが」


クラウス様は一瞬、何か言いたげに口を開きかけたが、結局黙って席についた。

その視線は、シチューの皿に釘付けだ。

無理もない。

今までレンガと塩水を食べていたのだから、まともな料理は宝石に見えるはずだ。


彼はスプーンを手に取り、白いスープを一口運んだ。


ごくり。

喉が動く。


私は息を呑んで見守った。

推しが、私の作った料理を体内に入れた。

これぞ究極のファンサービス。

私の愛(栄養素)が、彼の血肉となる瞬間だ。


沈黙が続く。

クラウス様の手が止まる。

そして、二口、三口と、今度はペースを上げてスプーンを動かし始めた。

パンを手に取り、シチューに浸して頬張る。

その勢いは、まるで飢えた猛獣のようだ。

無骨な食べ方だけれど、不思議と品がある。


あっという間に皿が空になった。


「……おかわりは」

「はい! すぐにお持ちしますわ!」


私は鍋から熱々のシチューをたっぷりとよそった。

二杯目もペロリと平らげ、パンも三つ消えた。

ようやく満腹になったのか、クラウス様はふぅ、と小さく息を吐き、椅子に背を預けた。

その表情から、険しい険が消えている。

緩んだ口元が、なんとも色っぽい。


「……悪くない」


彼がボソリと呟いた。

私の方を見ずに、少し照れくさそうに。


「久しぶりに、人の住む家で食事をした気がする。……礼を言う」


ズキュン、と胸の奥で何かが跳ねた。

いけない。

その不器用なデレ方は反則だ。

「美味い」と素直に言えず、「悪くない」と言うあたりが、まさにツンデレ騎士団長の教科書通り。


しかし、私はそこでハッと気づいた。

彼の体力が回復したということは、つまり「余力」が生まれたということだ。

栄養満点の食事で精がついた成人男性。

しかも、今夜はアイザック様と残業の予定はないと聞いている。


(精がついた……元気になった……つまり?)


私の脳内回路が光速で繋がる。

明日の朝、アイザック様と顔を合わせた時、彼は有り余るエネルギーをどこに向けるのか。

熱い視線?

力強い抱擁?

それとも、訓練場での激しい組み手(という名のスキンシップ)?


「……もっと、精力をつけていただかなくては」


私の口から、無意識に言葉が漏れた。


「ん? 何か言ったか」

「いえ! 明日はもっとお肉を増やしますね、と申し上げたのです!」

「……そうか。肉か。嫌いではない」


クラウス様は、私の言葉を額面通りに受け取ったらしい。

むしろ、私が彼の好みを把握しようとしていることに、少し嬉しそうな顔をした。


「君も、座って食べればいい。一人で食べるよりは……マシだ」


彼はそっぽを向きながら、向かいの席を顎でしゃくった。

これは、彼なりの最大限の歩み寄りだろう。

「一緒に食べたい」と言えない不器用さが愛おしい。


けれど、私の解釈は違った。

彼は今、私に「共犯者」になれと言っているのだ。

彼の健康を守り、ひいては彼とアイザック様の美しい関係を支えるための同志として。


「ありがとうございます。では、失礼して」


私は向かいの席に座り、自分用のスープを口にした。

優しいミルクの味が広がる。

目の前には、満足げに食後のお茶を飲む推しがいる。


(最高ですわ……)


胃袋を掴む作戦は大成功だ。

これで彼は、毎晩この屋敷に帰ってくるのを楽しみにするようになるだろう。

帰宅率が上がれば、それだけアイザック様が訪ねてくる確率も上がる。

あるいは、アイザック様を夕食に招く口実もできるかもしれない。


「今度は、アイザック様のお好きな物もリサーチしておかなくては」


小声で呟いた私の言葉は、湯気の中に消えた。

クラウス様が「ん?」とこちらを見たが、私は聖女のような微笑みで誤魔化す。


冷え切っていた屋敷の食堂に、温かな灯りと、とんちんかんな思惑が満ちていた。

こうして、私の「推し活ライフ」の基盤である、衣食住の「食」は見事に確保されたのだった。


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