第10話 誓いの夜と尊い未来
割れんばかりの拍手が、石造りの玄関ホールを震わせていた。
「おかえりなさいませ、奥様! 団長!」
レオン君をはじめとする騎士たち、そして使用人たちが一列に並び、満面の笑みで迎えてくれる。
その温かさに、私はクラウス様の腕の中で小さくなった。
恥ずかしさと、それ以上の嬉しさで胸がいっぱいだ。
「……騒がしいぞ、お前たち」
クラウス様が苦笑しながらも、その表情はかつてないほど柔らかい。
彼は私の肩をしっかりと抱き寄せ、皆に向かって宣言した。
「紹介するまでもないが。……俺の最愛の妻、リリアナだ。これからは契約ではなく、オルステッド家の女主人として敬うように」
「ヒュー! 団長、熱い!」
「ご馳走様です!」
冷やかしの声が飛ぶ中、アイザック様が優雅に進み出てきた。
「やれやれ。やっと素直になれたみたいだね。おかげで僕も、これでお邪魔虫を卒業できるよ」
「うるさい。……だが、礼は言う」
クラウス様が短く告げると、アイザック様は満足げに微笑み、私にウインクをした。
「お幸せに、リリアナ。君がこの屋敷に来てくれて、本当に良かった」
その言葉に、私は深く頷いた。
ここが私の帰る場所。
もう、迷うことはない。
◇
その夜。
私はこれまで使っていた客室ではなく、主寝室の大きなベッドに座っていた。
心臓の音がうるさい。
お風呂上がりの体が火照っている。
これから行われるのは、契約上の「形式」ではない。
本当の意味での「初夜」だ。
(落ち着くのよ、リリアナ。貴女には膨大な知識があるじゃない)
私は自分に言い聞かせた。
長年読み漁ってきた小説の数々。
そこにはあらゆる愛の営みが描かれていたはずだ。
シミュレーションは完璧。
どんな展開が来ても、淑女として優雅に対応してみせる。
ガチャリ。
扉が開き、クラウス様が入ってきた。
湯上がりの髪が少し濡れ、緩いシャツの胸元から覗く鎖骨が色っぽい。
その姿を見た瞬間、私の理論武装は半分崩壊した。
「……待たせたな」
彼がベッドに腰を下ろす。
沈み込むマットの感触。
近い。
石鹸の香りと、彼特有の男らしい匂いが鼻をくすぐる。
「リリアナ」
名前を呼ばれ、顎をすくい上げられる。
灰色の瞳が、溶けるほど甘く私を見つめていた。
そこには、いつもの鋭い光はない。
ただひたすらに、愛おしさを訴える熱だけがある。
「俺は、君を愛している。……もう、離さない」
唇が重なる。
優しい、けれど逃げ場のない口づけ。
「ん……っ」
私の脳内データベースなど、何の役にも立たなかった。
本物の愛撫は、文字で読むより遥かに甘く、そして激しい。
無骨なはずの手が、壊れ物を扱うように私に触れるたび、思考が白く染まっていく。
「だ、旦那様……クラウス、様……」
「名前で呼んでくれ。……もっと」
彼は私の耳元で囁き、首筋にキスを落とした。
私はもう、彼の背中にしがみつくことしかできない。
推しを愛でる余裕なんてどこへやら。
完全に「愛される妻」として、彼に翻弄され、そして満たされていった。
「白い結婚」は、甘くとろけるような「極彩色の夜」へと塗り替えられたのだった。
◇
それから、数年の月日が流れた。
「パパ! たかいたかーい!」
庭に、元気な子供の声が響く。
クラウス様が、黒髪の男の子を軽々と抱き上げ、空高く持ち上げた。
右頬の古傷も気にせず、彼は目尻を下げて破顔している。
「よし、アレン。次は肩車だ」
「わーい! ぼく、パパよりおおきいぞ!」
その足元では、少し年老いた茶トラ猫が、日向ぼっこをしながら欠伸をしている。
私はサンルームで紅茶を飲みながら、その光景を眺めていた。
幸せな午後だ。
平和すぎて、涙が出そうになるくらい。
「相変わらず、彼は親バカだね」
向かいの席で、アイザック様がクスクスと笑った。
彼もまた、変わらず我が家の良き友人として、頻繁に遊びに来てくれている。
「ふふ。アイザック様がいらっしゃると、アレンも喜びますわ。……それに、クラウス様も」
「おや、まだその視点は健在かい?」
アイザック様が楽しげに私を見る。
私は口元を扇子で隠し、秘密めいた笑みを返した。
「もちろんです。私の『推し活』は生涯現役ですから」
もちろん、今は最愛の夫として彼を愛している。
けれど、ふとした瞬間に見せるクラウス様とアイザック様の信頼関係や、部下たちとの絆を見ると、やっぱり「尊い!」と心が踊ってしまうのは、不治の病のようなものだ。
庭では、クラウス様がアレンを下ろし、こちらに手を振った。
その笑顔は、かつての「氷の公爵」の面影など微塵もない。
愛を知り、守るものを得た、一人の幸せな男の顔だ。
「リリアナ! アイザック! 茶ばかり飲んでないで、こっちへ来ないか!」
夫が呼んでいる。
私の、世界で一番かっこよくて可愛い、最高の推しが。
「はい、今行きます!」
私はカップを置き、ドレスの裾を翻して庭へと駆け出した。
春の風が、私の赤い髪を揺らす。
愛されない妻?
契約結婚?
そんな言葉は、もう遠い過去の物語。
今の私は、愛する夫と家族、そして尊い萌えに囲まれた、世界一幸せな「推し活妻」なのだから。
(完)
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