第1話 冷遇と推しの楽園
「君を愛することはないし、寝室も別だ」
初夜の寝室で、私の夫となったクラウス・フォン・オルステッド辺境伯はそう言い放った。
重々しいバリトンボイスが部屋の空気を震わせる。
月明かりに照らされたその顔は、氷のように冷徹で、そして彫刻のように美しかった。
漆黒の短髪に、鋭い灰色の瞳。
右頬には古傷が走り、それが彼の「黒騎士」としての威厳をさらに引き立てている。
普通の新妻なら、ここで泣き崩れる場面だろう。
あるいは、愛のない結婚に絶望し、実家の仕打ちを恨むかもしれない。
けれど、私は違った。
俯いたまま、私は口元が緩みそうになるのを必死で堪えていた。
ドレスの裾をギュッと握りしめる。
それは悲しみからではない。
湧き上がる歓喜を抑え込むためだ。
(ありがとうございます!)
心の中で、私はガッツポーズを決めた。
私の名前はリリアナ・バーネット。
実家の借金返済と引き換えに、この「女嫌い」と噂される騎士団長のもとへ嫁いできた。
世間では「身売り同然の不幸な花嫁」と囁かれているけれど、とんでもない。
愛されない?
結構ですわ。
寝室が別?
最高じゃありませんか。
なぜなら、私は夫に愛されるよりも、夫とその周囲の美しい男性たちが織りなす「禁断の絆」を、壁の染みになって見守っていたい女なのだから。
「……聞いていないのか」
沈黙を悲嘆と勘違いしたのか、クラウス様が不機嫌そうに眉を寄せた。
その眉間の皺すら、私にとっては芸術品のような造形美だ。
私は慌てて表情を引き締め、しおらしい令嬢の仮面を被る。
「いいえ、旦那様。重々承知しておりますわ。この結婚は契約上のもの。借金を肩代わりしていただいた身として、旦那様の生活を乱すつもりはございません」
私は完璧なカーテシーを披露した。
没落寸前とはいえ、腐っても伯爵家の娘だ。礼儀作法は叩き込まれている。
クラウス様は鼻を鳴らし、少しだけ拍子抜けしたような顔をした。
泣きつかれるとでも思っていたのだろうか。
「……ならばいい。俺は執務に戻る。明日の朝、改めて屋敷の者を紹介する」
「はい、おやすみなさいませ」
彼は長いマントを翻し、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
扉が閉まる重たい音が響く。
私は一人残された広い部屋で、ようやく息を吐き出した。
ふふ、と笑いが漏れる。
「素晴らしいわ。あの背中、あの冷たさ。まさに孤高の『攻め』様だわ……!」
そうなのだ。
私の夫は、私が長年愛読してきた騎士団ものの小説に出てくる「不器用で強引な騎士団長」そのものだった。
実物は想像を遥かに超えている。
あの筋肉質な体躯、無骨な手、そして他者を拒絶する鋭い眼光。
彼が愛するのは女性ではない。
戦場を駆ける馬か、あるいは背中を預ける戦友か。
私の脳内にある膨大なデータベースが、彼にふさわしい「お相手」の存在を求めて唸りを上げる。
この屋敷は騎士団長の私邸だ。
つまり、ここには彼の部下である騎士たちが頻繁に出入りする。
「ここは楽園……いえ、聖域ね」
私はベッドにダイブした。
ふかふかの羽毛布団に顔を埋める。
明日からの生活が楽しみで仕方がない。
借金のために売られたのではない。
私は、高額なチケット代を払って、特等席を手に入れたのだ。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりではなく、剣戟の音と男たちの野太い掛け声で目が覚めた。
「さすが騎士団長の屋敷ね」
私は急いで身支度を整えた。
鏡に映る自分を見る。
燃えるような赤い髪を丁寧に梳かし、地味な紺色のドレスを身に纏う。
あくまで私は「契約妻」。
目立ってはいけない。
背景美術のように、静かに、そして美しく屋敷に溶け込むのだ。
部屋を出ると、廊下は殺風景だった。
飾り気のない石造りの壁。
床には実用性一点張りの絨毯。
花瓶の一つもない。
男所帯特有の、埃と鉄と革の匂いが混じった空気が漂っている。
(素材はいいのに、演出が足りていませんわ)
掃除のしがいがありそうだ。
そんなことを考えながら階段を降りようとした時だった。
玄関ホールの方から、話し声が聞こえてきた。
「クラウス、また朝からそんな顔をして。眉間の皺が深くなっているよ」
「うるさい、アイザック。昨夜の書類整理が終わらなかっただけだ」
私の足がピタリと止まる。
クラウス様の低い声。
そして、それに応える鈴を転がしたような甘い声。
私は階段の手すりに隠れるようにして、そっと下を覗き込んだ。
そこにいたのは、軍服に身を包んだ私の夫と、もう一人の男性だった。
クラウス様と並んでも引けを取らない長身。
腰まで届くサラサラの銀髪を緩く束ね、紫水晶のような瞳を細めて微笑んでいる。
優雅で、どこか艶っぽい美青年だ。
(あ、あれは……!)
副団長のアイザック様だ。
結婚式の時に遠目で見たことはあったけれど、近くで見ると破壊力が違う。
無骨な黒騎士と、優美な銀騎士。
光と影。
剛と柔。
(尊い……!)
脳内で鐘が鳴り響く。
この組み合わせ、古典的だけど王道にして至高。
アイザック様はクラウス様の前に立つと、自然な動作で手を伸ばした。
その白く長い指先が、クラウス様の漆黒の髪に触れる。
「……ん?」
「糸くずがついているよ。相変わらず身なりに無頓着だね、君は」
アイザック様が微笑みながら、そっと糸くずを取り払う。
その距離、わずか数センチ。
吐息がかかりそうなほどの近さだ。
クラウス様は嫌がる様子もなく、されるがままになっている。
むしろ、少しだけ表情が緩んだように見えた。
「……お前が細かすぎるんだ」
「君が雑なだけさ。ほら、襟も曲がっている」
アイザック様は甲斐甲斐しく、クラウス様の襟元を直した。
まるで長年連れ添った夫婦のような阿吽の呼吸。
そこには、他人が入り込む隙間など1ミリも存在しない。
私は手すりを握りしめたまま、酸欠になりそうだった。
(ありがとうございます! 神様、仏様、借金取り様!)
これだ。
これが見たかったのだ。
二人の間にある信頼、友情、そしてそれ以上の何かを感じさせる湿度のある空気。
公式が最大手とはこのことか。
私の鼻孔が熱くなる。
いけない、興奮しすぎて鼻血が出そうだ。
深呼吸をして落ち着かなければ。
私がハァハァと荒い息を整えていると、不意にアイザック様が視線を上げた。
紫の瞳が、階段上の私を射抜く。
「おや? おはようございます、奥様」
見つかった。
私はビクッと体を震わせ、慌てて階段を降りた。
「お、おはようございます……!」
クラウス様が振り返る。
私を見た瞬間、その表情がスッと冷たい「鉄仮面」に戻った。
さっきまでアイザック様に見せていた、あの無防備な空気はどこへやら。
「起きたか。……紹介する。副団長のアイザックだ」
「初めまして、リリアナ・バーネットです。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
私は淑女の礼をとった。
アイザック様は興味深そうに私を見つめ、優雅に礼を返す。
「アイザックです。噂には聞いていましたが、可愛らしい奥様ですね。クラウスにはもったいない」
「おい、余計なことを言うな」
クラウス様が低い声で威嚇する。
アイザック様はそれを楽しむようにクスクスと笑った。
ああ、なんて美しい構図なのだろう。
間に挟まりたいわけではない。
私はカメラになりたい。
あるいは、彼らの部屋の観葉植物になりたい。
「リリアナ」
不意に名前を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「俺たちはこれから王城へ向かう。屋敷のことは執事に任せてあるが、基本的には何もしなくていい。俺の視界に入らないよう、静かに過ごせ」
再びの冷遇宣言。
「何もしなくていい」というのは、「俺たちの世界に関わるな」という警告だろう。
しかし、今の私にはその言葉すらポジティブに変換される。
「何もしなくていい」=「自由にしていい」。
つまり、この屋敷を私の好きなように探索し、彼らの関係性を観察するベストポジションを確保しても良いということだ。
「承知いたしました、旦那様。お仕事、頑張ってくださいませ」
私は満面の笑みで送り出した。
邪気のない(と自分では思っている)私の笑顔に、クラウス様は一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。
けれどすぐに「……行ってくる」と短く告げ、アイザック様と共に扉の向こうへと消えていった。
残された私は、玄関ホールで一人、拳を握りしめる。
「決めたわ」
この屋敷は汚すぎる。
埃まみれの廊下、くすんだ窓ガラス。
これでは、あの美しいお二人が輝かない。
推しの住環境を整えるのは、ファンの務めだ。
それに、掃除をしているフリをすれば、屋敷のあらゆる場所へ堂々と出入りできる。
彼らの執務室や、訓練場の近くにだって行けるかもしれない。
「まずは掃除よ。この屋敷を、お二人が愛を育むのにふさわしい、ピカピカの聖地にしてみせますわ!」
私は近くを通りかかったメイドを捕まえるために、ドレスの裾を翻して走り出した。
冷遇された妻の、忙しくも充実した一日が始まろうとしていた。




