謎の風土病
沼田 絹がこの北山家に嫁いで、もう七年になる。地主の一人息子であった春光と恋に落ち、やって来たのは十六の時。初恋だった。
春光は見目も良く、話し方や佇まいも洗練されていて、何より優しかった。この人の為なら、と厳しい義母の躾にも耐え、慎み深い良妻になれるよう努力してきた。派手な着物は仕舞い、お化粧は控えめに、言動も淑やかになった。やがて正春という子を授かる。
春光が他の女性と浮気をしていると知ったのは、正春が生まれてすぐのことだった。「急ぐから」と慌てた様子で出て行った時についていた寝癖が、戻った時には綺麗に整えられていた。彼は見目の良い女性を見ると、誰にでも愛を囁くような人だった。他の女性に向ける眼差しに、あの優しさは自分にだけではなかったのだと思い知る。
義母は正春を自分の子のように育てた。
「絹さんでは難しいでしょう。私が教育してあげます。あなたの仕事は、春光と正春ちゃんが暮らしやすいように家の環境を整えることよ」
正春が義母の元で学び、寝食までともにしている間、私は近所づきあいや屋敷の管理、北村家の味を覚える為の料理の特訓などで日々を追われた。
もう何年も、どろりとした感情が胸にこびりついている。
絹は縁側でゆっくりと団扇を仰ぎながら、庭の景色に見入る。外へと投げ出した両足をぴったりとくっつけ横へと流すと、着物の裾から白い足が少しだけ覗いた。赤く染まった空の下、池では鯉が悠々と泳ぎ、手入れされた松がそれを見下ろしている。心地よい風が吹き抜け、髪を揺らした。肌を焼く暑さがやっと和らぎ、人恋しくさせる季節だ。
春光は懇意にしている取引先と会うのだと、朝からどこかへ出かけて行った。手土産をと勧めるも「気安い間柄だから」と、立派な身なりで立ち去る後ろ姿を見送り、一日がかりの家事を済ませたのだった。
「奥様、お茶をどうぞ」
「あら、気が利くわね」
住み込みの使用人である澄子がお盆を縁側に置き、自分も腰かける。彼女は絹の良い話し相手であった。年が近く、話し上手で、誰とでもすぐ打ち解ける澄子がいたから、ここでの生活に耐えられ部分もあるだろう。
「大奥様がいないと、やっぱり気楽ですね。いいなぁ、旅を兼ねて夫婦で有名な神社へ参りに行くなんて、私もそんな時間とお金が欲しい」
「でも、突然どうしたのかしら?戻って来るのに五日は掛かるのに」
当然、正春も一緒だ。私の制止もきかず勝手に連れて行った。
「何でも、大旦那様のご友人が風土病に罹ったとかで」
「風土病?」
風土病とは、ある特定地域の気候や土壌、習慣などにより引き起こされる病の総称のことをいう。
「はい。この辺りでは昔から、手足の先や鼻がぱんぱんに腫れるっていう病気があるんです。治りが遅い上に激痛で、痛みに耐えられず衰弱死した人もいるとか。しかも——」
澄子は口元に右手を当て、絹の耳に顔を近づけた。
「男性器まで腫れるそうなんです」
「え?」
澄子は大きな瞳を弓なりにして、にやにやとした顔をしている。どんな表情をしても、ぱーんと弾けた若さが可愛らしく見せた。
「のたうち回るほど痛いらしいですよー。男じゃなくて良かった」
「…原因は分かっているの?」
「原因も治療法も分かっていません。一カ月以上、ずーっと苦しむんです。奥様もくれぐれもお気をつけて」
「え、ええ。澄子さんもね」
「正春様も泣いてないといいですねぇ。大奥様、厳しいから。この間もできが悪かった罰として蔵に閉じ込められてて可哀そうでしした。暗いところ駄目だから、私だったら発狂しちゃう」
澄子は震えた振りで、両手で自分の腕をさすっている。
義母に抗議したが、耳を貸さないどころか「あなたが甘やかすから、できが悪いのよ!」と恐ろしい剣幕で睨まれ、仕事を増やされる始末。春光に相談したところで「僕もやられたよー。懐かしいね」とへらりとかわされる。
絹は熱いお茶を口から流し込んだ。庭を取り囲む石垣の向こうで、竹林がさわっと揺れるのが見えた。
「帰りましたよ!絹さん、家のことはしっかりやってくれたんでしょうね?」
「お帰りなさいませ、お義父様、お義母様。夕餉の支度が整っています」
「お母様、ただいま戻りました」
「お帰り、正春」
玄関で三つ指をついて迎えると、「正春ちゃん、行きますよ」と、正春の手を引っ張り、絹の横をすっと通り過ぎていく。慌てて立ち上がり、後を追った。
米、焼き魚、豆腐、きのこの汁物、漬物が各人のお盆の上に並んでいる。全て絹が用意したものだ。いつもなら味が濃い、薄い、焼きが甘いと文句が入るところだが、非日常の高揚感のせいだろう。終始旅の話題で盛り上がっていた。
「これだけ神様にお願いしたのだから、きっと風土病に罹ったりしないわ。もう安心ね、源蔵さん」
「ああ。そうならいいが。皆、油断はするなよ」
無口な義父はそれだけ言うと、また黙々と食べ進める。
「僕も予定がなければ行きたかったな」
連続で家を留守にしていた春光は、ついに朝帰りをした。「男同士で飲んでいたんだ。これ、お土産」と甘味を渡してくる着物の袖から白粉の香りがした。
「絹さん、何をぼおっとしているの!早く片付けてちょうだい!」
「はい、お義母様!すぐに」
いつの間にか完食していた彼らは、お盆を下げる絹など目にも留めず、旅の話に花を咲かせた。
その二日後の早朝のこと。
「いっ、い、いた、ああ!」
隣で寝ていた春光の奇声に起こされ、布団から這い出す。
「春光さん?どうしたの?」
「ああ、ううぅ。いっ!」
春光は布団をはぎ取り、右に左に身を捩っている。普段は色男と評される顔が、鼻が赤く膨らみ見る影もない。着物はだらしなく開け、絶え間なく苦しそうな声を上げる。その手首から先が赤く腫れあがっていた。
「春光さん…もしかして」
手だけでなく、足首から足先にかけても元の形が分からない程に大きくなっている。間違いなく風土病の症状だった。
「男性器まで腫れるそうなんです」澄子の言葉が蘇る。辛うじて着物で隠れているが、尋常ではない痛がり方から、きっとその部分も腫れあがっているのだろう。
絹は着物の袖で顔を覆った。
その数時間後、今度は義母が同じように痛がり始めた。
「いやぁ、いたぁ、い。うぅ、助けて!」
春光よりはしっかりと話せているが、普段は気取った義母がここまで取り乱すほどの痛みであることは間違いない。
なぜか春光と義母だけに風土病の症状が出た。他の者たちは使用人も含め、健康そのものだ。
変ね、どうして二人だけなのかしら?
絹は首を傾げた。
「ほら、春光さん。冷たい布を持って来たわ。冷やしましょうね」
移るといけないと使用人が止めるのも聞かず、絹は献身的に看病した。もう五日になる。口元と鼻を隠すように布を頭に巻き付け、患部には布越しに触れる。
たった五日で衰弱した春光を抱き起し、かゆを食べさせた。痛みのせいで眠れないらしく、隈がくっきりと現れている。腫れはひくどころか、はち切れそうに膨らむばかりだ。
「うっ、絹、ありが、うっ。す、きだ。君だけ、だ」
「大丈夫よ。春光さん、分かっているわ。もう喋らないで」
風土病に罹った春光を積極的に看病しようとする者は他におらず、見舞いもない。病気の恐怖と孤独から弱気になった春光は、最近よく愛を囁くようになった。
心配しないで、春光さん。一つ嫌なところがあったくらいで、もういらないなんて子どもじみたこと、私は言わないわ。
絹は優しく、春光の髪を撫でた。
春光の看病が終わると、義母の部屋へと向かう。こちらもかなり参っている様子で、吊り上がっていた目元が今では力なく垂れている。うう、ううという呻き声が絶えず義母の口から漏れた。
「お義母様。おかゆをお持ちしました」
布が触れるのも痛いのか、ぶよぶよになった手足だけ布団から出している。上半身をゆっくりと抱え上げ、かゆを口に運ぶ。
「少し塩気が多すぎたかもしれません」
ふるふると弱弱しく首を左右に振った義母に、絹は微笑む。
義母は気づいているのだ。私に見捨てられたらお終いだと。誰もこの部屋に近づきたがらない、とそれとなく繰り返した甲斐があった。
「うっ、絹さ、ん。あ、なたが、嫁で、よかっ、うぅ」
「何を言うのです、お義母様。当たり前です。私は北山家の嫁なのですから」
絹は優しく目を細めた。
「奥様!大変です!澄子さんが」
「澄子さんが、どうしたの?」
「風土病に罹ったんです」
「え?」
使用人部屋に行くと、澄子は布団の上で着物が開けるのも気にせず大の字で寝ころび、「いたい、いたい」と声を漏らしている。赤く膨れた鼻のせいで、いつもなら真っ先に目を引く大きな瞳も存在感をなくしている。
「大変!すぐに場所を移さないと!でも、離れは春光さんとお義母様がいるし…。二人を悪化させてはいけないわ。蔵に運んでちょうだい」
男性の使用人にそう声を掛けると、澄子は目を見開いた。
「い、うぅ、いやで、す。蔵だけは…。うっ。暗いのは…」
「ごめんなさいね、澄子さん。他に場所がないの。我慢してね」
「い、や!蔵はいやです!うっ。おねが…」
両目から涙を流している。
澄子は使用人たちに助けを求め目を彷徨わせたが、全員が目を逸らした。叫びながら暴れる彼女を無理やり蔵の中へと入れた。
「ごめんなさいね、澄子さん。皆に伝染さない為なの。許してね」
「うぅ、いやぁ、だして!怖い、ねえ」
泣き叫ぶ彼女としっかり目を合わせ、ガッと音を立てて扉が閉まった。
「逃げ出すと大変だから、ちゃんと鍵を閉めて」
そう言い残し、蔵から立ち去った。後ろで澄子の絶叫が木霊する。
ねえ、澄子さん。私、知っていたのよ。あなたが春光さんと通じていたことも、私の事を二人で馬鹿にしていたことも。あなたは若くて可愛いものね。
でも強い精神的負担で人間は一気に老け込むのですって。一か月後、あなたの張りのある肌は、一体どうなっているのかしらね?
「お母様。遊んでぇ」
「あらあら、正春。そうね、久しぶりに二人でお出かけしましょうか?でも明日からはちゃんとお勉強するのよ?あなたは北山家の唯一の跡取りなのだから。約束できる?」
「うん!僕、頑張る」
義父はあっさりと外出許可をくれた。
「絹さん。あなたのおかげで助かっている。ありがとう」
「とんでもないです。お義父様。当然のことです。ただ正春のことも構ってあげたいので、これからもちょくちょく出かけるかもしれません。屋敷より外の方が安全ですし」
「そうだな。今後は私の許可はいらないから、好きに出なさい」
「ありがとうございます」
義父の部屋から出ると使用人が待ち構えていた。
「奥様、いつも看病ありがとうございます。本来は私たちの仕事なのに…」
「いいのよ。家族のことだもの。あなた達に移っては大変だわ。風土病は、よそ者の私の方が伝染りにくいと思うし」
「奥様…。では、家のことは私たちがしっかりと管理させていただきます。食事もお任せください」
「ありがとう。助かるわ」
「お母様。早く行こう」
「そうね。正春、お部屋でお着替えして待っていてちょうだい。誰か付き添ってもらえる?支度が終わったら迎えに行くから」
嬉しそうに手を振る正春と別れ、自室に戻った。
「あなたの仕事は、家の環境を整えることよ」義母の言葉に深く頷く。
本当ね、お義母様。
笑い出しそうになるのを、着物の袖で隠した。
手足の先、鼻、男性器の腫れが一カ月以上続く謎の風土病。その正体を絹は知っていた。
——毒笹子。
朝顔のように真ん中が窪んだ茸で、肌色の見た目はいかにも美味しそうだ。しかし、食べたが最後、ぶよぶよと赤く腫れるだけではなく、焼け火箸を当てられたような痛みが一カ月以上続く。治療法はない。
絹が子どもの頃、近所に住む親族五人がこの茸を食べ、同じ症状が出た事があった。症状の発現に時間差があった為、医者は原因を特定できなかった。しかし茸嫌いの一人だけが無症状だったことで、私たちは茸が原因に違いないという結論に至った。
風土病になるくらいだ。探すのは難しくなかった。
まさか澄子さんだけ一週間も遅れて症状が出るなんて。量のせいかしら?それとも体質?まぁいいわ。
大丈夫よ。衰弱死なんてさせないわ。死んだ方がましという程の激痛だと聞くけれど、たった一カ月じゃない。私は七年も苦しんだんだもの。
鏡の自分と向き合う。心なしか若返っている気がした。
「風土病…。うふふふふふふふふふふふ」
その日、絹は何年かぶりに白粉を塗り、唇に紅をさした。
犯罪ですので、真似しないでください。