寿命の壁
冬の風が吹く頃、俺は森へ行くことを諦めていた。
膝は痛み、杖なしでは立ち上がれない。雪道など歩けるはずもない。医者には「無理をすれば命に関わる」とまで言われた。
けれど心は、あの森を求めていた。あの静けさ、彼女の声、雪に響く笑い声――
「……もう、会えないのか」
ベッドの上で、そう呟いたときだった。
ふいに、窓が開いた。
冷たい風が舞い込むとともに、見慣れた銀の髪が揺れた。
「……リュシア……?」
信じられなかった。夢か、幻かと思った。
「どうして……ここに?」
「あなたが来られないなら、私が行くしかないでしょう?」
彼女はいつものように、微笑んでいた。けれどその笑顔の奥に、何かを決意した強さがあった。
「人の世に出ることは、私にとって……掟破り。でも、もう我慢できなかったの」
俺の頬に手を当てる。指先は変わらず、あたたかかった。
「あなたはもう、永くはないわ。だから、私は決めたの」
リュシアは小さな瓶を取り出した。中には、淡い光を放つ液体が揺れていた。
「これを飲めば……あなたの命は延びるわ。エルフの力を、人に与える代償として」
「代償……?」
「私の寿命。森との契約を破る代わりに、精霊たちは私の命を差し出すよう求めた」
その意味を理解するのに、数秒かかった。
「……そんなの、飲めるわけない!」
俺は叫んだ。
「お前が死んで、俺だけ生き延びるなんて……そんなの、俺の望んだ愛じゃない!」
「でも、私は……あなたに生きていてほしいの」
リュシアは泣いていた。
「あなたと過ごした冬が、私にとってどれだけ大切だったか……どれだけ、愛していたか……それを、永遠に覚えていてほしいの」
「バカなことを言うな! そんな愛し方、間違ってる!」
「じゃあ……どうすればいいの? 私たちの時間は、もう残されていないのよ」
沈黙が落ちた。
その静けさの中で、俺はゆっくりと手を伸ばし、リュシアの手を握った。
「一緒にいよう。最後まで。命を延ばさなくていい。君と過ごした冬が、俺の人生だ。それで、十分だよ」
「……そんなの、ずるいわよ」
彼女は泣きながら笑った。
俺たちは、ただ手を繋いだまま、朝が来るまで語り合った。命の灯が消えかけた俺にとって、それは最後の奇跡のような時間だった。
*
そして、春が来る少し前――
俺は静かに、リュシアの腕の中で息を引き取った。
彼女の瞳から、ひとひらの涙がこぼれた。
それは、ひとひらの雪となって、空へと舞い上がっていった。