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明けない夜の涙雨【短編】  作者: 高場柊
2/3

 夏の日の夜。雨が降っていて、とても寒かった。


 その夜、家を出たときには雨は降っていなかった。しかし夕方にニュース番組で見た天気予報を思い出し、トートバックを肩にかけた方の腕で傘の柄を握りマンションのエントランスを抜けた。


 生ぬるい風がワンピースの裾を揺らし、肌を這うようにして通り過ぎて行った。家路を急ぐ人々の口数の少なさが街灯に集まる羽虫を際立たせていた。


 歩道の端で立ち止まり、意識してゆっくりと瞬きをした。徹夜後は街の光が目に染みる。


 冬にはイルミネーションが飾る、大きな街路樹に挟まれた通りから一本裏道に入ったところに深夜二時まで営業している喫茶店がある。


時間を潰すだけなら、わざわざ喫茶店なんか来ずに自分の部屋で時間近くまでのんびりしていればいい。

だけど、その店で飲む酸味の効いたブレンドが好きだった。


どうにも重たい瞼をしばたたかせて店の扉を開けた。

白髪を後ろで固めたマスターの「いらっしゃい」のイントネーションも、笑顔が妙に硬いバイトの女の子のできた仕事ぶりもいつも通りで、薄暗い店内はいつもより少しだけあたたかい気がした。


ブレンドを一杯頼み、鞄に入れていた短編集のうち二つを読み終わった頃に二杯目を頼んだ。


それも飲み終わった時に顔を上げると窓の外には静かな雨が降り出していて、傘の花がいくつか見えた。本を閉じてぼんやりとそれを見ていると、コーヒー二杯では抑えられなかった眠気にあっという間にのまれてしまった。


誰かの声が近くに聞こえて目を開くと、バイトの女の子に揺り起こされているところだった。二杯目を飲み終わった後、窓の外を眺めていたことは覚えている。睡魔にも大して抗わなかったのだからあたりまえだ。見まわした店内に既に他の客の姿はなく、レジ前の壁掛け時計を見やると短い針はもうすぐ十にさしかかりそうだった。

目が合うと彼女は窓の外を指さして眉を下げた。


――雨、すごいですけど、どうします? 

――ああ、すみません、帰ります。

――でも……。

――大丈夫ですよ。近いですから。

――でも……でも、もうこんな時間だし、ここでよければ泊って行っても……。


優しい人だ、と胸の奥があたたかくなった。でも、本当に大丈夫なのだ。その気遣いが嬉しかった。

お礼を言い、代金を支払って店の扉を開けると、扉に遮られていたのが嘘みたいな轟音が暗闇に響いていた。


 大通りに出ると道のところどころが明るく照らされていた。それを見て肩の力が抜けたとき、直前まで緊張していた自分に気付いて失笑した。暗くて寒いのは、どうにも苦手なのだ。


 橋の上を歩いていた。その向こう側にあるあなたのマンションは見えていた。


 足が軽くなった気がして下を見ると片方の靴ひもが解けていた。雨の中、わざわざ立ち止まって結び直すのは面倒で、気にはしながらもそのまま足を動かした。


すると、解けた靴ひもを踏んで転びそうになった。ほんの一瞬の心臓が握られるような焦りに、本当に転んでは危ないからとしゃがみこみ、縛り直そうと傘を肩で持ち上げた。


その瞬間、風に煽られて傘が浮かんだ。咄嗟に立ち上がって、無意識にその柄を強く握ってしまった。気付いたときには遅く、欄干から川を覗き込むようにして身を乗り出す形になってしまっていた。


そのあとの記憶はどんなに探しても見つからない。きっと、見つからない方が良いのだろう。


***

 これ以上は進めない私の前で、進めるはずの彼はたったの一歩も踏み出さずただ涙を流し続けていた。

 その様はときに、果てしない距離を歩き疲れて途方に暮れているようにも、ただ思考を放棄しているだけのようにも思えた。


 たまに彼の口から零れるように発される私の名前の響きが哀しかった。


 ある日は、自分の存在に意義が持てなくて彼に会いに行くことが出来なかった。

 またある日は、確かに触っているはずなのに触覚が機能しないもどかしさに苦しくなって、彼を叩いてしまった。

 そのまたある日は、自分だけが一方的に彼を認識できてしまう理不尽に耐え切れなくなって自ら川に身を投げた。


 大切な人との忘れたい記憶がまさかこんなにも積もるとは、一体誰が予想できただろう。


「……たすけて」


 自分の耳にも聞こえないほど小さな声は、唇から零れると冷たい空気に混じり、溶けたかもわからないうちに流されていった。


誰か。誰でもいい、誰でもいいから。

彼を、たすけて……。


 摘まめない彼の服の裾を摘まんで、在るかもわからない何かに縋った。頭に落ち、その熱を吸った雨粒に涙が取り込まれて顎先からアスファルトに落ちた。


 街灯の光を反射して、水を溜めた橋の両端がギラギラと主張している。その光は、次から次へと直線を描いて落ちて来る水滴によって細かく散らされ、項垂れた私の目を射る。


 ヒ、と喉がひくついた。

私は、あなたにこんなことをして欲しいわけじゃない。

 こんな形で偲んでもらってもちっとも嬉しくない。ただただ、悲しいだけだ。苦しいだけだ。


 私はあなたに、あたたかいところにいて欲しい。暗くてもいいからあたたかいところに。


一つ一つは小さな雨がアスファルトを叩く音が、すれ違う人の傘を叩く音が、私の体を叩く音が、深夜につけたテレビのように不快なほどけたたましく聞こえた。


「あの……、大丈夫ですか?」


 突然、すぐ近くで声が聞こえた。強弱が不安定で、緊張した声色だった。


 顔を上げると制服を着た少女が一人彼の側に立ち、顔を覗き込んでいるのがわかった。

 驚いた彼が一瞬身を強張らせ、鼻をすすり、だけど震える声でしっかりと返した。


「だい、じょうぶ、です。ありが、とう。すみません」


 私からはよく見えないが彼はきっと笑っているのだろう。眉を下げて、口を歪ませて、目を細めて。やたらと言い慣れた「すみません」が痛かった。


 すると、少しの間も空けずに低い声で少女は呟いた。


「うそつき」


 苦しそうな目で彼を睨んだあと、彼女はブレザーのポケットから取り出した何かを彼の手に押し付け、深く頭を下げて足早に去って行った。いつも私が来る方の向こう側へ。


 少女の傘を橋と大通りの境界線まで見送ったあと、彼の手元を覗き込む。


先に目線を下げていた彼は苦い笑みを口の端に浮かべて、彼女から渡されたものを両手で包んだ。その後でもう一度、少女が去った橋の向こうを見やった。

 その姿がもう完全に見えなくなったことを確認するかのように微笑むと、口を引き結んで瞬きをゆっくり一つした。


 雫が二つ、橋の上の水面に落ちた。


 少女とは反対方向に歩いて行くその背中を追うことが、私には出来ない。

 また、彼女を追うことも出来ない。それでも彼女に届くようにと、ありがとうと強く思った。


「またね。ごはん、ちゃんと食べるんだよ」


 彼が橋の向こうの傘に混じるように消えると、私の意識も溶けるように曖昧に消えた。


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