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明けない夜の涙雨【短編】  作者: 高場柊
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 ぱたぱたと雨粒が体を叩く感触で目が覚めた。


 雨に濡れたところから徐々に肌が浮かびあがっていく。青白く、血管の浮いた、いやに細い私の腕。それが七分丈のワンピースから伸びている。


 あの人は今日もいるのだろうか。今日も、泣いているのだろうか。


 両腕に力を入れ、ずるり、と思い体の腰から下を川より引きずり出す。

 さんざん水に弄ばれた服の、端という端から溢れ出る透明な液体が肌を伝って落ちていく。その布が体中にはりついて鬱陶しい。


「冷たい」という感覚は「痛い」を通り越してとうになくなり、ただ何かが「足りない」のだと一種の焦燥を植え付ける。大切なことは忘れることなく心の中で鳴り続けていた。

 あの人が待っている。急がなければ。


 は、と零れるように唇から落ちた息は頬を掠めて後ろへと流れた。急がなければ。急がなければ……。


 だけど、〝あの人〟とは一体誰だろう?


 疑問を持って踏み締める一歩はあまりに重くて体がぐらついた。


 フラフラと歩いているうちに濡れた横髪が頬にへばりついた。払うのも面倒で顔を少し上げて髪を雨に流した。


 長い前髪が雨でかたまり、視界が悪い。転びそうになって髪をかき上げた。雨天とはいえ、視界が少しでもよくなれば多少明るく見える。遥か前方の大きな広告塔が放つ眩しさに目が眩んだ。


 明かりに吸い寄せられるように町に向かって歩いていると、高架下に開かれたままの青い傘があった。濃紺から白のグラデーションが美しく、息をのむ。夏の青い空に白い雲がぼわりと浮かんでいるようにも、夜空になりかけている冬空にも見える。荒天の中、傘の落ちているその一か所だけが晴れ渡っていた。


 ああ、これは私のものだ。

 雨が嫌いな〝あの人〟が、雨の中でも笑ってくれればいいと思った。


 どうしてそんなことが分かるのだろう。自分の名前さえ、もやがかかったように思い出せないのに。


 柄を拾い上げ、肩に掛ける。くるりと一回だけ回してみた。その様を内側から見ていた。外側から見ると確かに空なのに、内側から見上げると海の中にいるような画が気に入っていた。


 いつか彼と相合傘をして同じことをした。彼はふわりと微笑んで「綺麗だね」と言ってくれた。今になって思う。あの笑顔は雨空の中の小さな晴天にあてたものではなかった。きっと、彼を笑わせたくて意気込んでいた私に向けたものだったのだろう。


 どうしようもなく可愛くていとしい、大事なひと。


 そう気付いたと同時に思い出すようにわかってしまった。自分はもうこの世のものではないのだということが。


 立ち止まると何かに引き摺りこまれそうで足に力を込め高架下を抜ける。雨粒が傘を叩く。その音を耳が全て拾った。先ほどよりもほんの少しだけあたたかく感じた。小さな海の中にいるからだろうか。視覚的要因による錯覚ならばずっと騙されていたいと思った。

 そう考える自分がどうにも悲しくてため息交じりの呼気が出る。


 だんだんと傘に弾かれる雨音が激しくなっていく。ふと前を見据えると遠くの地面が白く霞んでいた。せっかく傘を見つけたのにこれじゃあ歩いても仕方ないじゃないか。

 そう思うのに足は街へと歩を進める。


 たどり着けそうもないと感じた広告塔が見上げるくらいに近くなったころ、河川敷と歩道を繋ぐ階段を見つけた。引っ張られるようにそれに向かい、一段一段を踏みしめる。そのたびに水を吸い切れなかった靴が不気味な音を立てる。


 いくつもの傘をすり抜けて、街の大通りを繋ぐ大きな橋まで歩いたときに予感がした。


 ああ、ここに彼がいる。


 意識せずに足の進む方へ体を向けた。そうすることが正しいと思えた。橋の左側をひたすら向こう側へと歩いた。川面を叩く雨粒の音が途切れることなく耳に届く。土砂降りの中、橋向こうの電光掲示板に映し出された赤い文字がぼやけて見えた。


 橋の3分の2ほど行った位置だろうか。傘もささずに欄干に手をつく人がひとり。雨に打たれながら橋の下の川の流れをぼうっと眺めていた。私の脚はまだ道の先を促す。

 傘を持ち替え、橋の向こうを、彼を目指す。感覚もろくにない脚で進む。

 だんだんと、その横顔がハッキリとしていく。服装が、髪の色が、表情が分かっていく。


 すぐそばで立ち止まり、その横顔を見つめる。青白い顔には無精ひげが浮いている。


 彼の前髪から落ちる雫が粒を大きくして頬を伝っていった。その瞬間、ぞわりと背筋に悪寒が走った。


 彼が欄干に置いた右手を降ろした。間を開けずに持ち上げたその手には何かが握られていた。それは青と白に染められた傘だった。閉じた状態でもすぐに分かった。

 あれは、私が使っていたものだ。今、肩にかけているまさにその傘だ。


 どうして彼が持っているのだろう? だってそれは、あの時、確かに私と……。


 あの時……?


 頬を伝う水が気になって指で拭った。一秒前までは感じなかったはずの水滴の感触に気を取られたのは、肌と雫の温度が少しだけ近づいたからだ。


 末端まで冷え切っているはずの体が内側からどうしようもなく熱を帯び始めていた。足元が急に頼りなく歪んだ。より事実に基づいて言うのなら、バランスを崩した体を支えようと足が咄嗟に動いたというべきか。


 ああ、この感情は一人で持つには重すぎる。処理の仕方が分からない。


 彼に触れようと手を伸ばす。その涙を拭いたくて。その体を抱き締めたくて。けれど、伸ばした指先は確かに触れているはずなのに彼の感触を何も感じ取れない。

 なんだ、これは。こんなの、触れていないのと同じじゃないか。唇が歪み、喉がひくつき、乾いた嗤いが一つ飛び出した。


 愛されていた。あんなにも愛されていたのに、私は彼を置いてきてしまった。取り戻せない。もう、どうすることもできないのだ。


 脳がそう認識すると、誰にも届かない声が喉を突き破って散らばり、響く前に雨と川に吸い込まれて消えていった。


 一体どれほどそうしていたのだろう。

 気が付くと、また雨の降る中で体を半分川に浸けた状態で目が覚める。何度も、何度も。


 ***

 この〝雨の日〟が何度繰り返されたのか分からない。その一回ずつは確かにそれぞれ違う一回で、自分自身でも「違う」という認識は出来ている。けれど、記憶がほとんどないのだ。


 正しくは、「分からない」というよりも、類似している記憶が多すぎて脳が勝手に記憶を上書き保存してしまったような感覚に近い。


 何度も川から這い上がり、何度も傘を拾い、何度も涙を流すあなたに触れようとした。その度に蘇る記憶に狂いそうになりながら、意識は捨てまいと喉を震わせた。


 雨に打たれ続ける日々は延々と続く。終わりの見えない苦痛の中で、彼と私の時間だけが取り残されていつまでも進まずにいた。


 私は自分がさしていた傘をあなたの頭の上に傾けることしかできない。だけど私の傘は雨粒を何の抵抗もなく通してしまう。抱きしめようとも、感触も体温も分けられないこんな体ではあなたの指先さえもあたためられない。不確かな自分は、一体どんな意味があって今でもここに存在しているのだろう。


 私は雨の日しかあなたに会えない。なのに、雨の日じゃあなたは救われない。


 あなたの髪が、服が、無防備に雨に晒されている様をただ隣に立って眺めていることしかできない。


 彼の変化する服装が季節の移ろいを示していた。何度も一年を重ねたように思う。一方で、もしかするとまだ一年すらも経っていないのかもしれないとも思うのだ。


「またね。ちゃんと、あたたかくして寝るんだよ」


 いつかの雨の日に、彼の頭を撫でて静かに呟いた。すると、僅かにその表情が緩んだ気がした。


 記憶の断片は積もりに積もって、〝あの日〟のそれだけを他と切り離し、一つ掬いだすのは難しい。それでも思い出せるのは……。

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