いつか咲くかな恋の花
高台にある町には、小さなお社がありました。
このお社には、人と人の縁を取り持つ神様がまつられていました。
つまり、恋や愛に関する事柄を司る神様です。
しかし、このお社は訪れる人も少なく、とても寂しい様子でした。
手入れをする人もおらず、辺りのきれいな街並みと比べてそこだけみすぼらしく見えてしまいます。
暖かい季節になると、このお社の周りには神様の象徴であるきれいな花が咲いていたのですが、ここ数年はどういうわけかその花も咲かなくなっていました。
実は、この国では恋や愛を司る神様はあまり人気がありませんでした。
ここ十数年、この国では「恋愛は、個人の自由を失わせる悪いもの」という考えが正しいとされていたからです。
多くの人は、個人の自由を何よりも重んじ、一人一人の能力を最大限に発揮することこそが正しいと考えていました。
恋や愛とは、自身の自由を相手に差し出すことに他なりません。
そんな事をしているひまがあるならば、自分の能力を高めるのに力を注ぐ方がよいと考える人が多かったのです。
恋愛こそが人生において最も素晴らしいもの、と考える人がいない訳ではありません。
しかし、そういう人は「変わり者」であると周りから見られていました。
人生において恋愛が第一と考えるのは個人の自由であるが、自身に与えられた自由な時間の使い方としては決して賢いものではない。
恋愛に夢中になる人に対しては、そのような評価が下されていました。
「今日も、だれも来なかったな……」
夕暮れ時、お社の屋根の上に、ひとりの少女の姿がありました。
実は、この少女こそが、このお社にまつられている神様でした。
神様は、自分の所に訪れる人がいない事を、寂しく思っていました。
人々に敬われなくなり、力を失ってしまったせいで、神様の象徴である花も咲かなくなってしまっていたからです。
神様が寂しそうに過ごしていた時、お社に近付いてくる人影がありました。
それに気づいた神様がそちらを見てみると、幼さが残る顔立ちの、十二歳くらい女の子がいました。
彼女はお社の前に立つと、手を合わせて、目を閉じて、何かを真剣にお願いしています。
そのお願いの内容は、自分の恋がかなうように、というものでした。
お願いを済ませて足早に去っていく女の子の後姿を、神様はじっと見つめていました。
その次の日も、そのまた次の日も、女の子はお社を訪れました。
だんだん日が短くなり、秋の深まりを感じさせます。
この日、神様はその女の子と話をしてみようと考えました。
神様の姿は普通の人間には見えないものなのですが、その気になれば人間に見えるようにすることも出来るのです。
女の子はいつもと同じように、お社の前で手を合わせて、恋がかなうようにとお願いをしています。
お願いを終えて目を開けた時、こんにちは、と隣から話しかけられて、女の子はあわてふためきました。
「あ、あなたは一体だれなの?」
神様は、女の子の質問には答えずに、こうたずねました。
「あなた、いつもここに来ているみたいね? 何のお願いをしていたの?」
「そ、それは……」
女の子は答える事が出来ません。
初めて会った相手に、ましてや恋愛の悩みなんて、とても話せるような事ではないからです。
「ここに何度も来ているってことは、恋愛についての悩みなんじゃないの?」
「いや、私はただ、中学校の受験がひかえているから、合格のお願いのために……」
「学業の神様なら近くにもっと立派で人気のあるお社があるじゃない。ここにわざわざそんなお願いをしに来る人なんていないわよ?」
「……」
女の子は、観念した様子で話し始めました。
女の子の話を、神様はじっと聞いていました。
彼女はとても真剣な顔で、自分がどのような相手に恋をしているのかを説明します。
しかし、聞けば聞くほど、彼女の恋が実るのはそう簡単な事ではないと感じさせられました。
まず第一に、女の子が好きになった男性は、彼女の父親と同じくらいの年齢のようでした。
それだけ年のはなれた男女が恋愛関係になるというのは、普通の事ではありません。
第二に、その男性の仕事は町のゴミ清掃員でした。
自分の能力を最大限に発揮して、自由と自己実現を手に入れる事こそが素晴らしいと考えられているこの国では、そういった仕事は「何のとりえもない人間が仕方なくやる仕事」と考えられ、見下されていました。
何よりまずい事は、このお社がある町はいわゆる高級住宅街で、女の子もこの町の裕福な家で育っていた事でした。
女の子の両親は、子どもに出来うる限りの教育を受けさせて、自分と同じかそれよりも高い社会的地位についてくれることを願っていました。
恋愛なんていうものにうつつをぬかすなんてもってのほか。
ましてその相手がいい歳をしたうだつの上がらない男だなんて。
そんな風に言われることは、火を見るよりも明らかでした。
「……なるほど。話してくれて本当にありがとうね」
「ううん……自分でも分かっています。こんなのだれも認めてくれたりしないんだろうなって。でも……」
「でも、その人の事が好きなんだよね?」
女の子は静かにうなずきます。
そして、どうしてその男性を好きになったのかを、感情のこもった様子で話しました。
女の子の話の内容は、おおよそこのようなものでした。
ひと月ほど前に、彼女がゴミ捨て場の前を通りかかった時、ゴミの中から猫の鳴き声が聞こえたので足を止めました。
よく見てみると、フタをされた箱の中に、やせ細った子猫が入れられていました。
かわいそうに思ったものの、自分の両親は動物嫌いなので、家で飼う訳にもいきません。
家族以外の大人に相談しても、保健所などに送られてしまうかもしれません。
友達のだれかに世話をお願いする、というのも難しそうです。
どうしたらいいのか分からずに途方に暮れていると、ゴミ収集車がやってきて、中からその男性が現れました。
話を聞いたその男性は、自分がその猫の世話をするから心配しなくていいと言ってくれました。
さらに、お嬢さんはとても優しい心の持ち主だと言って、ほめてくれたのだそうです。
その時からなぜか、その男性の事が気になりだし、自分はその人の事が好きなのだと考えるようになったのだそうです。
「……そんな事があったんだね」
女の子は、顔を真っ赤にしながらうなずきました。
神様は考えます。
恋の始まり方は様々です。
普通だとあまり考えられないようなきっかけから、恋が芽生える事もあるでしょう。
いずれにしろ、彼女は真剣に恋をしている様子であり、自分が恋愛の神様である以上、何らかの手助けをしてあげる必要があります。
それは分かった上で、神様には一つ気になる事がありました。
「でもあなた、中学校の受験がひかえているって言ってなかった? 好きな人の事を考えたり、恋仲になろうとするよりも、今は自分の能力をのばすために時間を使う事の方が大切なんじゃないの?」
意地悪な質問なのかもしれませんが、神様としてはこれを聞かない訳にはいきません。
女の子は本当にその人の事が好きなのか。
それとも今やるべき事から目をそらすために、恋愛という言い訳を使っているのか。
そこを見極めておく必要があったからです。
「もちろん……勉強が大事なのは分かっています。好きな人の事ばかり考えて勉強が手につかない、なんてのは最悪だと思います。だけど、自分の能力をのばす事こそが大事だと言って、今の自分の気持ちにしっかりと向き合わないのも、逃げだと思います」
女の子の言葉を、神様はじっと聞いています。
「あの人のために自分の時間を使う事が、私にとっても、あの人にとっても大切な時間を共に過ごす事につながるのなら……恋愛は決して、自由を損なうものにはならないと思うんです」
「……分かったわ。あなたがそう考えているなら、私はあなたの恋がかなうように応援するわ」
神様は、小さくため息をつきながら言いました。
彼女の恋が実るかはともかくとして、彼女の想いが本物であることは分かったからです。
「ところで、あなたはその男性と何回くらいお話が出来ているの?」
「いえ……実は、まだ三回しか会えていないんです」
気恥ずかしそうな様子で、女の子が答えました。
「たったそれだけ? その男性が飼っている猫の事を話すとか、回数をかせぐ方法は色々あるでしょう?」
「でも……その、なんか恥ずかしくて……」
神様は、少しあきれたそぶりを見せました。
「よく聞いて。恋仲になるためには、まず相手にいい印象を持ってもらう事。あなただって、何とも思っていない相手からいきなり『あなたが好きだから付き合ってください』って言われても、いいですなんて言えないでしょう?」
「はぁ……」
「いい印象を持ってもらうためには、まずは回数を重ねる事よ。」
神様の言葉を、女の子は静かに聞いています。
まずはどんな事でもいいので、話をする回数を増やすことが大事だと神様は説きました。
「あの……」
恋をかなえるための作戦についての説明を受けた後、女の子は神様にたずねました。
辺りは日が落ちて、すっかり暗くなっています。
「あなたはどうして、私の恋を応援してくれるんですか?」
神様は、あたりをぐるりと見まわしてから言いました。
「あなたも知っての通り、ここは恋や愛を司る神様の場所なの。そしてここは、昔はとてもきれいな花が咲く場所だったのよ」
「……こんなさびしいお社に、きれいな花が……?」
「この町の……いいえ、この国の人達は、恋や愛が自由を損なうものだと考えるようになった。だからここの神様は力を失って、花も咲かなくなったの」
そう言ってから、女の子の方にふり向きました。
「あなたはさっき言ったでしょう? 恋愛は決して自由を損なうものにはならないと思う、って。あなたみたいな心の持ち主がこれからも来てくれれば、きっとここの神様も、力を取り戻せるかもしれない。そうすれば、またここにはきれいな花が咲くかもしれないわ」
「……あなたは、一体だれなんですか……?」
「さあ、もう帰りなさい。こんな町だけど、夜は気をつけないといけないわ」
質問には答えず、神様は女の子に家へと帰るようにうながしました。
それからしばらく経った日の事でした。
塾帰りの女の子が自分の家に帰る途中で、また神様が彼女の前に現れました。
「しばらくここで待っていて」
神様に言われるがままに待っていると、そこを通りかかる人物がいました。
それは、あのゴミ清掃員の男性でした。
片手には、近くで買ったと思われるキャットフードが入った袋を持っています。
「こ……こ……こんばんわ!」
以前神様に言われた言葉を思い出し、女の子は必死の思いで男性に話しかけました。
「君は……あの高台の町のお嬢さんだね? こんな遅くまで勉強していたなんて、立派だね」
男性の返事に、女の子はうなずきました。
「あのっ、あなたには本当に感謝しています。あの時、あの子猫を助けてもらって、私の代わりに世話をしてもらって……」
「気にしなくていいよ。あの子猫はずいぶんと自分になついてくれているし、前にも話した通りキッドって名前をつけているんだけど、名前を呼ぶとちゃんと返事もするんだよ。まあ、男の一人暮らしだから、色々と至らない点はあると思っているけどね」
「そんな事ないです……あなたのように優しい方に世話してもらって、キッドも幸せに思っていると思います」
顔を赤くしながら、女の子は男性の方を見ます。
「優しいのはお嬢さんの方だよ。キッドを助けたのもそうだけど、こんなおじさんにも壁を作らずに話しかけてくれるからね」
「そんな風に言わないでください……私はあなたの事が……」
口をついて出そうになった言葉を打ち消して、女の子が言います。
「あなたの事を、本当に素敵な人だと思っています」
そう言われた男性の顔は、なぜか少し寂しげでした。
「普通の人は、自分みたいな人間に対してそんな風には言ったりしないよ。ましてやお嬢さんは、将来は普通以上になる人間だ。自分みたいな人間は、お嬢さんにそんな言葉をかけられるような価値はないよ」
「価値なんて、関係ないです……!」
自分自身をあざけるような男性の言葉を、女の子が否定しました。
「私は、あなたの事を素敵な人だと思っているし、あなたとこうしてお話しできる時間は、とても大切な時間だと思っています。そう思うのは……迷惑ですか?」
男性は、少し困惑した様子を見せながらも、答えました。
「自分にはもったいない言葉だよ。だけど、お嬢さんみたいに、わけへだてなく接してくれる人がいる事は、とてもありがたい事だと思っているよ」
そう言って、男性はその場を立ち去りました。
「どうだった? 少しはあの人と話せたかしら?」
男性が去った後、神様が戻ってきて、女の子に話しかけました。
「うん……今までで一番、長くお話が出来たと思います」
「その調子よ! 相手の印象に残るようにしていけば、恋仲になる事は決して不可能ではないわ!」
そう言い残すと、神様はどこかへと去っていきました。
「それにしても……本当に不思議な子だなぁ……」
残された女の子は、小さくつぶやきました。
それからも、女の子は男性と話す事がありました。
話の内容は、キッドの事や、学校の事、男性の仕事の内容など、様々でした。
女の子は、想いを伝える前に相手にいい印象を持ってもらう事が大切だという神様の教えをしっかりと守っていました。
男性の方も、女の子の話にしっかりと耳をかたむけているようでした。
女の子は、毎日の勉強もしっかりと取り組んでいました。
少なくとも受験が無事に終わるまでは、自分の想いを伝えるのは待とうと考えていました。
今は男性と話す回数を増やす事と、日々の勉強に集中するつもりでした。
女の子は、毎日お社に来ては、そういった事も報告するのでした。
神様も、時おり姿を現わして、女の子の相談相手を務めました。
そんな風にして、年の暮れが近づいたある日の事でした。
夜遅くに、女の子はお社の前で泣いていました。
勉強が手につかなくなり、両親とけんかして、思わず家出をしてきたのです。
辺りにはだれもいません。
そこに、神様が姿を現わしました。
しかし、女の子はそれに気づく様子もなく泣いています。
神様には、なぜ女の子がこんな風になってしまったのか、全てお見通しでした。
三日前、この町で事件が発生しました。
ゴミの回収作業をしていた清掃員の男性が、この町に住む学生に包丁で刺されたのです。
男性はすぐに病院に運ばれましたが、助かりませんでした。
ニュース番組によると、逮捕された学生は「だれでもいいからとにかく殺したかった。社会的な価値がなさそうな人間なら殺しても問題ないと思った」と供述したそうです。
そして、そのニュースでは被害男性の名前が流されましたが、まさにそれは、女の子が恋していた男性の名前だったのです。
警察やマスコミが、一斉にこの町に押し寄せました。
普段は住人同士の関わりもそう多くない町ですが、この時は町じゅうをさまざまなうわさが駆け巡りました。
逮捕された学生は大人しい子だと評判だった、被害にあった男性は地方から出てきて近くの町で一人暮らしをしていた等々。
動物愛護団体が「被害男性の飼っていた猫を引き取る」と声明を出した、なんて話もありました。
一方で、被害にあった男性に対して心ない言葉をかける人もいました。
マスコミが『高級住宅街で起きた未成年による殺人事件』と称して騒ぎ立てたことを不快に思ったのか、あるいは加害者といえども同じ町の住人である学生をかばいたかったのか、この町の住人の中にはなぜか被害男性の方を悪者であるかのように言う人もいたのです。
好きだった男性を失った悲しみと、周囲の心ないうわさで、女の子の心はずたずたになっていました。
ましてや、「殺しても問題なさそうだから」などという理由で男性が殺されてしまった事実に、彼女は悲しみと憤りを抑える事が出来ませんでした。
自身の自由と自己の能力の向上こそが第一、という人間にはとても理解できない事でしょうが、愛していた人間を失う悲しみは、自らの身を裂かれるよりも辛いものなのです。
失意の底にあった彼女は両親と言い合いになり、家を飛び出してお社へとたどり着いたのです。
「……私、最後まで好きだって伝えられなかった。愛してもらう事も、愛してあげる事も出来なかった……!」
ようやく神様に気が付いた女の子は、涙をぬぐう事も無く、叫ぶように語ります。
「もしかしたら、うまくいくかもしれないって思ったのに……こんな終わり方って、あんまりだよ……!」
神様は、泣きじゃくる女の子をそっと抱きとめました。
女の子は、さらに激しく泣きました。
どれくらい泣き続けたでしょうか。
女の子は、少しだけ落ち着きを取り戻しました。
「ごめんなさい……あなたになぐさめてもらって。おまけに、こんな夜遅くに……」
「気にしないで。あなたの恋がかなうように応援する、って言ったのは私なんだから」
「でも、私の恋は……もう永遠にかなう事は無いんですよ……?」
神様は、また泣きだしそうになった女の子の顔をのぞきこんで言いました。
「あなたは、それぐらいあの人の事を大切に思っていたのよね? それはとても素敵な事だし、誇るべき事だと思うわ」
「誇るべき……事……?」
女の子は聞き返しました。
「あなた、あの人と話していて、どんな気持ちだった?」
「それは……恥ずかしいと思ったりもしましたけど、とても幸せな時間だったと思います」
女の子の答えを確認すると、神様は続けました。
「あの人の事を想ったり、あの人のために自由な時間を使ったりしたことは、無駄や損だと思っている?」
「そんな事……思うはずがありません!」
女の子は、はっきりとした口調で答えました。
「これは落ち着いて聞いてほしいんだけど、世の中はかなう恋よりも、かなわない恋の方がずっと多いの。だって人間同士だもの。考えが合わなかったり、相手の知らない一面を見てしまったり……他には、今回のように死に別れたり。だけど、かなわない恋にも必ず意味がある。私はあなたにそう考えてほしいの」
女の子の様子を確認しながら、神様は続けます。
「相手に自分の自由を差し出すから。相手の自由を奪ってしまうから。恋がかなわなければ今まで費やした時間が全て無駄になるから。だから恋愛は望ましいものではない。そう思うのは自由かもしれないし、否定も出来ないわ。でも、あなたがそう思う事を望まないのなら、このかなわなかった恋にも意味があったと考えてほしい」
「この恋の……意味……」
女の子は、神様の言葉を受けて、しばらく考えこみました。
「私は……」
やがて女の子は口を開きます。
「私は、あの人に優しい子だと言ってもらえた事や、わけへだてなく接してくれてありがたいと言われたことが、とてもうれしかったです。だから……」
女の子は、しっかりとした口調で言いました。
「こんな事は二度と起きてほしくない。私はまだ子どもだけれど、「価値のない人間は殺してもいい」なんて考えを持っている人よりはまともだと思っていますし、ただ自由だけを求めるのではなくて、人にわけへだてなく接したり、自分の自由を人のために使える事にこそ人としての価値があると信じます! 私にそう思わせてくれた事こそが、この恋の意味です!」
「よく言ったわ!」
神様は、決意を表明した女の子を力強く抱きしめました。
その時でした。
神様は、自分の身体に力がみなぎってくるのを感じました。
お社の周りが淡い光に包まれて、まるで春のような温かさを感じます。
するとどうでしょう。
何年も咲いていなかった花が、辺りに咲き乱れたのです。
冬だというのに、お社の周りは花であふれかえりました。
神様にははっきりと分かりました。
女の子の強い気持ちによって、このような事が起こったのだと。
かなわなかった恋にも意味があると信じた彼女のおかげで、自分は力を取り戻せたのだと。
「忘れないで。あなたには心から人を愛せる強さがある。自分の自由を人のために使う優しさがある。その気持ちを大切にね……」
女の子にそう告げると、神様は彼女の前から姿を消しました。
「これは……?」
女の子は、不思議そうな顔で辺りを見回します。
花に囲まれたお社の前で、自分だけがたたずんでいます。
さっきまでいたあの不思議な少女は、もうどこにもいません。
自分は夢でも見ていたのでしょうか。
「……お家に帰らないと」
女の子は、家に戻る事にしました。
愛していた人を失った悲しみが消えたわけではありません。
しかし、今の彼女の心には、強い決意が宿っていました。
こんな所でまごついている訳にはいきません。
その次の日から、小さなお社には多くの人が集まりました。
冬だというのに色とりどりの花々が狂い咲きになっている様子が、人々をとりこにしたのです。
みすぼらしかったお社には多くの人が訪れるようになりました。
もちろん、恋愛のお願いをする人はほとんどおりませんでしたが。
それから二十年以上の時が過ぎました。
小さなお社は、今もこの町にあります。
このお社にまつられている神様を象徴する花も、毎年ちゃんと咲いています。
そして、このお社の神様は、今日も屋根の上であの女の子――今では立派な女性へと成長していますが――が訪れるのを楽しみに待っています。
今日も、彼女はお参りに来ていました。
女の子は勉強を続けて、大学を出て、今では政治の世界で働いています。
この国のありようは、今もまだ大きく変わってはいません。
多くの人々が、自分に与えられた自由を自分のために使う事こそが正しいと考えています。
それでも彼女は、行動によって人々にうながします。
自らに与えられた自由を人々のために使う事を。
弱い人々やさげすまれる人々に手を差しのべ、心が通い合う社会を築く事を。
人々がわけへだてなく愛し合える社会が来る事を祈って、彼女はお社の前で手を合わせました。