三人の食卓
2009年の夏ホラーを制した小宮山蘭子先生に、この小説を捧げます。
お隣に住む合田さんの軽トラックがくたびれたエンジン音を立て始めるころ、ここ小宮家の食卓には、ぼちぼち朝食を盛るための食器や、コーヒーを入れるマグカップなどが並び始める。
市の中心部からやや離れたところにあるこの新興ベッドタウンには、小さいながらもお洒落な戸建て住宅が所狭しと建ち並んでいた。その華やかな景観は、まるでお伽話に現れる夢の国から抜け出てきたようだ。色とりどりの塗装やタイルで飾られた外壁、様々な意匠を凝らしたエクステリア。そして玄関先に並べられた四季折々の草花からは、ここで暮らす人たちのマイホームに対するこだわりというものが覗える。
朝日が、やや低い角度から差し込み、街路樹から扇状に広がった枝葉を、精巧な透かし彫りみたいに輝かせている。朝露に濡れ光る蜘蛛の巣は、まるでビーズをあしらったネックレスのようだ。
まだ通勤通学には早い時間帯らしく、通りを行き交う自動車や人影もまばらである。今年還暦を迎えた鳶職の合田さんが資材を詰め込んだ軽トラックで走り去ると、辺りはまた元通り、早朝の安穏とした静寂に包まれた。
お日様の香ばしい温もりを含んだ微風に合わせレースのカーテンがふわりと揺れると、いつものように新聞配達の自転車がブレーキを軋ませながら朝刊を運んでくる。耳を澄ますと、どこか遠くの方から、ラジオ体操の音楽が風に乗って運ばれてくる。
そして、その頃になるともう、小宮家の食卓には、トーストと、コーヒーと、スクランブルエッグと、そしてカシューナッツの添えられたサラダが並んでいるのだ。
「ごはんね、ごはんねー」
てててっと、軽快な小走りでリビングを横切って、真っ先にダイニングルームへ飛び込んできたのは、今年の春、小学一年生になったばかりの蘭子だ。従姉妹のお下がりだという一回りサイズの大きなワンピが、右肩の辺りでずるっとずり落ちている。見ようによってはセクシーでもあるが、大多数の大人たちからはきっと、だらしないと叱られることだろう。
食卓には、黄色いチェック柄のテーブルクロスが、まるでピクニックの敷物みたいに広げられていた。その真ん中には、半透明の青い花瓶に生けられた真っ赤なダリア。それを三人分の温かい朝食が、あたかもストーンヘンジのように整然と取り囲んでいる。
「いやあ、昨日の晩はくさ、寝苦しかったと……」
郵便受けから朝刊をぱちんと引き抜いて、蘭子のパパが大きなあくびをした。カバみたいに開けられた大口の奥には、去年入れたばかりの金歯が光っている。そのしまりのない顔を下駄箱の上の鏡に映し出し、そしてパパは「いかんと!」と言った。
「また一段と髪が薄くなってきたばい」
パパは、最近髪の毛が少なくなったことをとても気にしている。若い頃に比べボリューム感のなくなった頭部をしきりと指で撫でつけ、大きなため息をついた。
「毎晩、深酒ばするけんくさ逆に眠れんくなるとよ、ちいとは肝臓休ませときんしゃい」
蘭子が、ダイニングチェアの下で両足をぶらぶらさせながら軽口をたたく。パパは、それには答えず、自分の席にどっかりと腰を下ろした。そして、ちらとママの方を覗う……。
最近ママは、元気がない。顔色も悪いし、声にもなんだか力がない。何か悩みごとでもあるのかなと、おしゃまな蘭子などは気を回してしまうのだが、でもしょせん子供には分からぬ大人の事情、そんなことより今夜見るテレビアニメの特番が野球中継で流されてしまわないか、そちらの方がよっぽど気掛かりだった。
やがてエプロンを外したママが席に着き、そして3人揃って手を合わせ、「いただきます」と唱和する。小宮家で食事をするときのルールだ。
三人の食卓で、ささやかな朝食が始まった。
サラダにマヨネーズを豪快にかけるパパを横目で睨みながら、蘭子がトーストにマーガリンを塗りたくる。彼女は、この上にさらに苺ジャムを塗って食べるのが大のお気に入りだ。パパが、二個目のシュガーキューブをコーヒーに入れようとして思いとどまった。春のメタボ検診で医者に注意されて以来、糖分を控えているのだ。名残惜しそうにシュガーの詰まった小瓶を手で押しやると、かき混ぜたコーヒーを一口すすって苦い顔をした。そして、再びママの方へ目をやる。彼女は、コーヒーカップを両手に包みこむようにして持ったまま、ぼんやりしていた。
「なあ、ママ……。どげんね? 気分転換に温泉宿へでも行かんね。由布院にくさ、旅館やってる古い友だちがおるとよ。そいつが前々から、いっぺん家族連れて遊びに来んしゃい言うけん……」
それを聞いて、ママより先に蘭子が小躍りした。口の端にパンくずとストロベリージャムを付けたまま嬉々として目を輝かせる。
「行く行く! わたし露天風呂に入りたかあ。そしてくさ、浴衣着て由布見通りをねり歩きたかと」
大はしゃぎする蘭子とは裏腹に、ママはコーヒーカップをゆっくりと置き、そして気乗りのしない声を出した。
「そうやねえ……。いつまで塞ぎ込んどってもしょうなかたい……。ばってんが……」
「なあなあ、行こうよ、ママ。わたしくさ、夏休みの日記に、由布院へ行ったって書いてクラスのみんなに自慢したかと」
ママが、憂鬱な表情で蘭子の方を見る。が、その目は、焦点が微妙にズレていた。まるで空中にゆらゆらと浮かぶシャボン玉を見つめているような、そんな目だ。そして彼女は、そのままゆっくりと視線を落とし、今度は、蘭子の前に並べられた食事へと目をやった。
――と、突然その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……三人で行きたかねえ」
「三人で行こうよ。わたし、宿題だってもう半分終わらせとっとよ」
ママの目に浮かぶ涙を見て、パパがゆっくりと席を立った。そして彼女のそばへ歩み寄り、そっと両肩に手を乗せる。
「仕方なかろうもん。……二人で行くたい」
パパの沈鬱な呟きを聞いて、蘭子が身をよじった。
「あーん、パパの意地悪う。わたし、一人で留守番なんて絶対嫌やけんね」
その途端、ママがわっと泣き崩れた。真っ赤なダリアが生けられた花瓶が危うく倒れそうになり、パパが慌ててそれを押さえる。
「わたし……、わたし未だに三人分の食事作ってしまうと。もうあの子おらんて分かっとっとに」
蘭子がママを睨みつける。パパは、しばらくママの背中を優しくさすっていたが、やがて後からそっと肩を抱きしめた。
「しょうなかたい、あの子がおらんようになってくさ、まだ半月も経っとらんけん」
ママの嗚咽と、パパが鼻をすすりあげる音が部屋の空気をいたたまれないものにする。不意に、蘭子が手にしたフォークを乱暴に投げ出した。
「ぐらぐらこいた。腹かいた。なんね、二人ともしみったれてくさ」
そして、とんとダイニングチェアから飛び降りる。
「わたし、もう帰るけん……」
そう言い残すと、蘭子は、来たときと同じようにリビングを横切って、てててっと小走りで座敷の方へ駆けていった。
そこには、紫檀で造られた真新しい小さな仏壇があった。彼女は、その仏壇の前までゆくと、灯明のゆらめくその中へひょいと片足を突っ込んだのだ。
「あっ、そうだ……」
不意に、何を思ったのか、蘭子がぴたりとその動きを止めた。そして、いたずらっぽい視線をめぐらせながら意味ありげな含み笑いをする。と、彼女は入れかけた足を仏壇から引き抜き、そのまま軽快な走りで再びダイニングへ駆け戻ってきた。
テーブルでは、まだママが突っ伏したまま泣きじゃくっていた。その姿を見下ろしながら、パパは途方に暮れた様子でため息をついている。
蘭子は、一気にママの元へ駆け寄ると、その耳元に唇をあて、こう言ったのだった。
「なあママ、あのな、あのな……、ママのお腹の中にくさ」
そして、愛らしい横顔に笑窪を浮かべ、ふふっと笑った。
「…………わたしの弟がおるとよ」
最後の部分は、囁き声だった。女同士の秘密のつもりなのだろう。
えっという顔で、ママが顔を上げた。しかし蘭子は、それだけを言い残すと、また元来た座敷の方へ駆け戻っていった。そして今度こそ本当に仏壇の中へ片足を突っ込み、パパとママに「バイバイ」と手を振ってからすうっと消えてしまった。
「いま……いま、ここに蘭子がおったごたあ気がしたと」
ママが驚いたように目を見開いた。そして、泣きはらした顔をゆっくりパパの方へ向ける。パパも茫然とした顔つきで、座敷にある仏壇の方を見ていた。その目には、やはり涙が浮かんでいた。
「いま、あそこに蘭子がおったばい。元気に走っとったと」
「蘭子…………」
そのとき、急にママが我に返ったように呟いた。
「そうや――」
そしてゆっくりと立ち上がる。
「病院にいかんと」
パパは、驚いて訊ねた。
「どげんしたとね? どこか具合でも悪かと?」
ママは、ゆっくりとかぶりを振り、そして少し淋しそうに微笑んでからそっと自分のお腹に手をやった。やがてその瞳から再び涙があふれる。彼女は、一度、申し訳なさそうに蘭子の仏壇の方を振り返った。そしてパパに向き直り、泣き笑いの表情でこう言った。
「由布院に行くの、ちょっと待って。もしかしたら、また三人になるかもしれんけん……」
(※博多弁監修、イボヤギ先生)
お読み下さり、ありがとうございます。この小説は、ずっと構想をあたためていたものですが、今回事情があって大急ぎで仕上げました。博多弁の手直しをして下さったイボヤギ先生、本当にありがとうございました。
そして小宮山蘭子先生、お誕生日おめでとうございます。