2. 獣に追い詰められる
獣騎士とは、主である獣神に従い、俗世に執着しない存在だ。
だが、獣騎士たちにも執着が許されるものがひとつだけある。それが牙を捧げる存在だった。生涯にただ一度だけ、獣騎士は自分の選んだ相手に牙を捧げることができる。その相手にのみ、獣騎士は激しい執着を見せるのだ。
そしてマダラは、メリノに自分の牙を捧げたいと言い出した。
「あなたの魔力をずっと味わいたいのです」
獣騎士の牙の意味を知るメリノは、大いに慌てた。魔力の味が好みだったからといって、獣騎士の牙など簡単に受け取れるわけがない。
獣騎士が唯一許される牙を捧げた存在への執着は、他がないだけに凄まじく強いものだと聞く。そんなものになってしまったら、一生を縛られてしまう。
「いや、いや、いや!ちょっと待ってください!獣騎士の牙とは、とても大きな意味を持つと聞きます。そんな大事なものを簡単に捧げてはいけません」
「あなたに捧げるために、今まで大事に守ってきました」
「いやいやいや!」
「さあ、」
掴んでいる手とは逆の腕を伸ばしたマダラは、メリノの首裏に手を当てて、さらに引き寄せようとしてくる。まるで今にも牙を捧げようとしているかのようだ。
牙を捧げるには、具体的にどのようなことをするのかメリノは知らない。何をもって成立するのか分からないのだから、これ以上の接触は危険だった。
「あの、とにかく今は回復に専念しましょうね!大人しく寝ていてください!」
力を振り絞ってなんとかマダラの手から逃れると、この場は逃げるしかないと、メリノは現場を離脱したのだった。
翌早朝、メリノは上司である領主の館に駆け込んだ。
カラカル領主サーバルは、優しげな風貌の男性だ。
まだ老いを感じるほどの年ではないが、領主としての苦労が絶えないせいか、実年齢よりもやや老けて見える。若いころに妻に先立たれ、子供もなし。
真面目で善良な領主は、領民の生活を守るために、日々精力的に励んでいる。
本人にその気があるのかないのか分からないが、はやく素敵な奥さんが来てほしいと、領民たちは願っている。
メリノはそんな上司を慕っているので、問題が起こるとすぐに相談するようにしていた。
領主館は、領主サーバルの性格を表したかのような、居心地の良い建物だ。建物は古いが、入り口から奥の間まで丁寧に手入れされていて、住む者から愛されているのがよく分かる。
メリノも領主館はお気に入りだった。
しかしながら、今はその居心地の良さを堪能している場合ではない。真っ直ぐに執務室へ向かい、領主に泣きついた。
先日の魔獣討伐任務に関わっていた騎士が獣騎士であり、療養のためにメリノの家で休ませていることはすでに報告してあるので、獣騎士に関しては領主も承知している。
だが、メリノの魔力を気に入ったらしいその獣騎士が、牙を捧げたいと言っていると話すと、さすがに驚いたように目を見張った。
「牙を…………」
「どうしましょう、サーバル様。私の手に負えるとは思えません。なんとかしてください」
「いや、私を巻き込まないでくれ…………」
「ひどいっ、可愛い部下を見捨てるので!?」
「相手は獣騎士なのだろう?私は何もしてやれないぞ。世の中には、逆らってはいけない存在というものがあるのだ…………」
獣騎士が従うのは獣神のみで、どこの国にも組織にも属さない。つまり世の権力はまったく効果がないのだ。それが俗世に執着しない獣騎士たちの在り方だった。
サーバルはメリノの窮状を救ってはくれなかったが、獣騎士の世話に専念するようにと、しばらく休みをくれた。
「緊急時には招集をかけるが、何もなければ、世話をする間その獣騎士とよく話し合ってみるといい。お互いの理解が進めば、妥協点も見出せるだろう」
「…………はい」
領主の言うことは正論だった。
なんといっても、メリノとマダラは出会って間もない。
獣騎士の牙などと衝撃的なものを出されて思わず逃げ出してしまったが、もっと対話が必要なのは間違いない。
獣騎士本人に直接働きかけることはできなくとも、こうして何かしらの道を示してくれたサーバルは、やはりいい上司だ。
なにより、自分以外にこの事態を受け止めてくれる人ができて安心した。サーバルに相談したことで、メリノは少し落ち着くことができたのだった。
メリノが家に戻ると、マダラは大人しく寝台の上にいた。
「お帰りなさい、メリノ。どこへ行っていたのか聞いても?」
「えっと、領主様に報告を……」
「そうですか。知っているかとは思いますが、獣騎士は獣神以外の何からもその行動を制限されません。領主に泣きついても、無駄ですよ?」
「はい…………」
にこりと有無を言わせないような微笑みを向けられ、さっそくくじけそうになったメリノだが、気を取り直してサーバルの指示を伝えた。
「領主様からお休みをいただきました。しばらくは、あなたの世話に専念するようにと」
「おや、……カラカルの領主はなかなか良い判断をしますね」
そう言って再び微笑んだマダラは、王子様のような容姿であるのは変わらないのに、雰囲気は完全に獣のものになってしまっていて、あの紳士はどこへいってしまったのかとメリノは途方に暮れた。
少し遅くなったその日の朝食を、マダラは残さずきれいに食べた。やはり武人はよく食べる。
「もう、あなたの魔力はもらえないのでしょうか?」
「昨日のあれは、あなたが随分と消耗していたから特別です。今日はすっかり元気でしょう?」
残念そうにされても、これほど元気に回復している獣騎士を甘やかしたりはしない。話題を変えようと、メリノは先ほど思いついたことを提案した。
「あまり寝てばかりいても良くないでしょうから、今日は散歩がてら、手入れに出していたあなたの上着を受け取りに行きましょうか」
マダラの上着は、血の汚れと綻びが激しかったので、専門の職人に出していたのだ。手入れが終わったという連絡を受けていたので、ちょうど良い機会だからとマダラを連れて引き取りに向かった。
職人はマダラが獣騎士だと知って、嬉しそうにしていた。獣騎士が強いというのはよく知られていることであるし、マダラは見た目も極上だ。強くて格好いいものには、みんな好意的になるものだ。
マダラも愛想よく、にこにこと微笑んで応対していた。慣れているのだろう。
「すっかりきれいになりましたね。ありがとうございます」
マダラは、戻ってきた上着をさっそく羽織っている。
獣騎士の制服だというそれは、金の縁取りのある、濃紺色のかっちりとした軍服のような意匠で、マダラによく似合っていた。
腰に剣を帯びたその立ち姿は凛々しくて、惚れ惚れするほどに格好いい。
思わず見惚れていると、マダラはそれに鋭く気づいたようで、メリノを見て艶やかに微笑んでみせた。
「ふふ、この姿の俺がお好みですか?」
「っ、……とてもよくお似合いだと思います」
「あなたにそう言われると、嬉しいですね」
いつの間にか伸ばされていた手に首筋を撫でられ、メリノは急所を狙われた獲物のような気分になってしまった。
急に獣の気配を出すのはやめてほしい。
マダラに街を案内しながら散策していると、途中で同僚の魔術師に出会った。
「メリノ!」
「ミゼット」
ミゼットは、同じくカラカル領主に仕える魔術師だ。明るい性格で見た目も美人なので、男性から人気がある。メリノもこの同僚のことが好きだった。
「こんな時間にメリノが街を歩いているなんて、珍しい」
「うん。今はサーバル様から特別任務を与えられていてね」
「特別任務?」
ミゼットは、それは横に立っている王子様のような男に関係しているのかと、マダラに視線をやった。それから、紹介してほしそうにちらちら合図をするので、メリノは心得たとばかりに頷いた。
「マダラ、こちらは私の同僚で、魔術師のミゼットです。現在、恋人はいません」
「ミゼットです」
マダラは客人なので、先にミゼットの紹介をする。ついでに、ミゼットはマダラに興味があるようなので売り込んでおく。
それに合わせてミゼットがぺこりとお辞儀をした。
「ミゼット、こちらはマダラ。先日、魔獣の討伐に協力いただいたのですが、少し魔獣の毒を受けてしまったので、サーバル様の指示のもと、うちで療養中です」
マダラが獣騎士であると明かして良いのか分からなかったので、そこには触れないでおいた。加えて、メリノの家で療養しているのは、領主の指示であると強調するのも忘れない。
「メリノにお世話になっております、マダラと申します」
胸に手を当てて丁寧に礼をするマダラは、とても様になっている。
おかげでミゼットが目を輝かせた。
「あの、魔獣の討伐に協力してくださったということは、どこかの騎士様でしょうか?」
「ええ、獣騎士をしております」
「獣騎士!」
ミゼットが今度は歓声を上げた。獣騎士は一般に憧れの存在である。それにだいたいの女性は、若く美しい騎士というものが好きだ。
(………………ふうん)
ミゼットは、物腰の柔らかい美麗なマダラが気に入ったようだ。頬を上気させて嬉しそうに話しかけている。対するマダラも、ミゼットの話に優しく応じている。
ミゼットはなかなかの美人だ。こうしてマダラと並んでいるところを見ると、とてもお似合いではないだろうか。
数日ぶりの外出が楽しかったのか、家に戻っても機嫌が良さそうにしているマダラを見ながら、メリノは考えた。
メリノは、なぜマダラが牙を捧げようとするほどに自分の魔力にこだわるのかが今ひとつ理解できていなかった。
甘露だと言うが、つまり他の魔術師の魔力であっても美味しければそれでいいということではないのか。もしも味が魔力の質に関係するなら、メリノと同水準の魔術師であるミゼットでも問題はないはずだ。ミゼットはマダラを気に入っていたようだし、外見的に見劣りがしない。それにマダラも、ミゼットとにこやかに会話していたのだから、満更ではないに違いない。
そこでメリノは、ミゼットを呼び出してマダラと二人で過ごさせてみることにした。
後日。
ずいぶんと体調の戻ったマダラを連れて、メリノは再び街へ出た。
途中で、休憩をしようと言ってマダラをカフェへ誘う。ここで待っていれば、ミゼットが合流する手はずだった。事前にマダラへ言うと拒否されそうだったので、そのことは告げていない。
が、ミゼットがやって来たところで、マダラにあっさり計画がばれた。
さらにはミゼットに、今回の件をマダラに秘密で進めていたことを大いに呆れられてしまった。
マダラは不機嫌そうにメリノを見ている。
「メリノ?どういうことでしょうか?」
「いえ、あの、ミゼットは魔術師としても悪くないし、美人なので、マダラとお似合いではないかなと」
「………………つまり?」
「え、ええっと……」
マダラの目がどんどん冷えていく。確実に怒っている。
これはもう自分の手には負えないと判断し、他力本願ではあるが、友人に助けを求めて視線を送った。
だがその友人は、メリノの縋るような視線をばっさりと切って捨てた。
「あーあ、痴話げんかはよそでやってくれる?……メリノ、今度何かおごりなさいよね!」
やって来たばかりのミゼットは、ぷりぷり怒りながら去って行ってしまった。
巻き込んで申し訳なかったとは思うが、できれば友人としてもう少し留まって緩衝材になってほしかった。
そして後に残されたのは、静かに怒りをまとった獣と、哀れな獲物。
「…………」
メリノは恐ろしくて横に座るマダラの方を見ることができなかった。しかし右側から、凍てついた空気を感じる。
どうにもできなくてメリノがそのまま固まっていると、しばらくして、ふぅっとマダラが小さく息を吐く音が聞こえた。
「……ひどい人だ。俺はあなたがいいと言っているのに、他をすすめてくる」
マダラが立ち上がった気配に思わずそちらを向くと、手を差し出された。
「ひとまず、帰りましょう」
その手を取って、メリノも頷いて立ち上がる。
マダラはそのままメリノの手を引いて歩き出した。ぎゅっと握られた手がまだ怒っているようで、手を離してほしいとは言えないまま家までの道を歩いた。
家に入ったところでメリノを振り返ったマダラの顔に、表情は無かった。顔の造作が整っているために、そうすると迫力がある。
メリノが慄いていると、するりと距離を詰めてきた。
「……さて、メリノ。今日のあなたの行動は、あのミゼットという人に俺の牙を捧げさせようとした、ということでしょうか?」
「え、あの、そこまでは。でも、私よりはつり合いがとれていて、いいのではないかと……」
メリノの返答を聞いて、さらにマダラの表情が無くなる。
詰められた距離だけでなく、マダラの迫力に押されながら、メリノはじりじりと後退していく。
「…………どうも、まだよく理解してもらえていないようなので、念を押しておきましょうか」
「は、…………」
そのまま壁際まで追い詰められ、メリノの背中が壁についたところで、マダラの腕が腰に回る。甘く腰を抱くというよりも、獲物を逃がすまいと拘束する獣のような仕草に思えた。
「いいですか。あなたの魔力こそが俺に深い喜びをもたらすのです。俺が牙を捧げたいと思うのは、あなただけ。……そのあなたから、他の人間とお似合いだなどと言われるのは、愉快ではありません」
言いながら、マダラはメリノの額に自分のものを寄せてくる。金の瞳は、どろりとした暗いものが溶け出しているかのようだ。
触れそうなほどに近づいた口から発せられる言葉は、一音一音が重い意味を持っているように聞こえる。
「獣神が俺たちに唯一許す執着は、メリノ、あなたに捧げます」
「っ、………………」
首筋に添えられた手に、急所を押さえられているような気分になる。
マダラから発せられる威圧に、その金の瞳に、メリノの思考は完全に止まっていた。獲物を定めた獣に射すくめられたように、身動きできない。
その様子を見たマダラは、目を細めて、ゆっくりとメリノの首筋を撫ぜた。
「…………あまり怖がらせると、本当に逃げられてしまいそうなので、この辺にしておきましょう」
そこで首から手が離され、ふっと空気が緩んだ。
メリノは緊張が解けて足に力が入らずに倒れ込みそうになったが、マダラが腰に回した腕に力を込めて支えてくれた。
気が抜けて俯きそうになるメリノの顎に手が添えられて、マダラの方へ顔を向けるよう促される。
「…………ただ、あまりに俺を弄ぶようなら、いくらか強引な手を使うことになりますよ?」
じっとりと獣のような目で責めるように言われたのに、メリノはかちんときて、ここで恐怖よりも反発が勝った。
「そんなことを言われても。だいたい、味が好みだっただなんて、他の魔術師の魔力だって美味しいかもしれないじゃないですか。今まではたまたま好みに合わなかっただけで、ミゼットは良い魔術師なので美味しいかもしれませんよ?私に固執する必要性を感じません」
メリノは、どうだと持論を披露してマダラの意見を変えさせようと試みた。
するとマダラは怒りの感情を消し去り、きょとんと目を瞬いた。そうすると無垢な獣のようで少し可愛いなとメリノがうっかり絆されそうになったところで、マダラは思いもよらぬ切り返しをしてきた。
「おや、……そうか、俗世の人間はそう考えるのか。言葉が足りませんでしたね、すみません。俺があなたの魔力を甘露だと言うのは、あなたの心が俺の嗜好に合っているという意味です。だからあのミゼットという人の魔力を味わっても、俺は甘露とは感じないでしょう」
「は?」
「俺たち獣騎士にとって、魔力を与えられるとは、その魔術師の心を味わうようなものです。あなたの柔らかい声に惹かれ、それから数日を過ごしてみて、あなたの人柄も好ましいと思いました。そしてあなたの魔力は、俺には甘露のように感じられた。だから俺は、あなたの心が一等好みだと言っているのです」
「はい?」
「……どう言えばうまく伝わるのでしょうか。俗世の作法は、もう随分と前に忘れてしまったもので……、困りましたね」
眉をひそめて考え込むマダラに、メリノも自分の思考の整理に忙しかった。
(……つまり、私の魔力がいいというのは、それなりに私の人となりを見て言ってくれているということ?たまたま美味しいと思ったおやつではなくて?)
そう考えて、メリノは見逃していた自分の感情にひとつ気づいた。
どうやらメリノは、誰でもいいくせに、わざわざあなただけだと思わせぶりにマダラが言うのが気に入らなかったようだ。
そうではないらしいと分かって、少し嬉しかった。
メリノはマダラのことをそれなりに好ましいと思っていたのに、魔力が美味しいという、わけの分からない理由で迫られることが嫌だったのだ。
(ん?……じゃあ、私って、まさかマダラのことが好きなのかな?)
思わぬ事実にも気づいてしまったが、うかつに口に出すことはしなかった。
それと牙を受け取ることとは、別問題なのだ。