第三十七話 シュザンヌ・ウェバー
「……」
目の前に立つ黒い幽鬼は不気味であった。目を包帯で覆っているので、自分たちを見ているのかわからない。おてんとうさまは真上にいるのに、まるで逢魔が時に迷い込んだ気分になる。どこか胃が重くなる感覚になった。
羅漢はウンディーネを抱きかかえたままだ。ルイは警棒を持ち、構えている。
目の前の敵、イクサの持つ刀は170センチほどある。ちょっとした成人男性の長さがあり、常人では重くて持ち上げられそうにない。子供が持てばすぐにぺしゃんこになるだろう。
だがイクサは軽々と手にしている。さらに刃は黒く染まっていた。恐らく何人もの人間の血を吸ってきたのだろう。怨念がこもっている気がする。
そしてイクサ自身はあまり血で汚れていない。返り血を浴びたことがないのだ。
常人とは異なる実力を持っているのは確かである。問題はこの男を殺していいかだ。
どうもこの男はオモタルの命令しか聞かないようである。普通の思考回路ではなく、幼い子供が母親の言うことを素直に聞く感じがした。
あまり精神構造は強いとは言えない。人を殺すことに躊躇しないが、罪悪感はない。善悪が理解できていなさそうだ。
ルイの持つ警棒は鉄製で30センチほどの長さだ。常人の利き手や肩を粉砕するにはちょうどいいかもしれないが、間合いの広い刀を潜り抜けるには一苦労しそうである。
それ以前にルイ自身がバッサリと切り殺されてもおかしくなかった。
周囲の兵士たちは動かない。恐怖で身動きが取れないようだ。こいつらが襲ってくる可能性は低いだろう。オモタルが命令すれば動くかもしれないが、動く様子が見られない。
「ウンディーネさん。あの人の事はわからないのですか?」
ルイが訊ねると、ウンディーネは首を横に振った。どうやら知らないようである。
「ガリバーさんはなんでも知っているわけではないのです。とはいえこちらの手落ちで申し訳ありません」
彼女は謝罪した。ルイはイクサを見る。刀をぶらぶらと遊ばせていた。どこか子供っぽさがある。よく見ると肌はやたらと白い。普通に生活をしていれば日焼けするものだ。
「……イクサという人は、長い間幽閉されていたのかもしれません。包帯で目を隠しているのは、視力がなくなったためかもしれませんね。日焼けもしていないのは、光が刺さないところに監禁された証拠です。さらに言えば剣の腕はなかなかのものです。恐らくは地下室で剣の修行だけを積まされていたのかもしれません」
ルイがそう言うと、オモタルの表情が曇った。後悔が入り混じった眼をしている。イクサはオモタルの関係者だ。恐らくは父親の仕業なのだろう。オモタルは意見を言うどころか、同情しただけで殴られたのかもしれない。
「この方に勝つ見込みが出来ました。行きます!!」
ルイが叫ぶ。すると彼女は歌を歌い始めた。透明感のある澄んだ声だ。
突然、歌い始めたルイに対して、羅漢は眉をしかめる。だがウンディーネはぽんと手を叩いた。
「なるほど! これなら勝てます!!」
「正気か? 俺にはあの女がどうかしたと思っているけどな」
呆れる羅漢に対して、ウンディーネは感心していた。
ルイは歌う。子供が聞きそうな優しい歌声であった。周囲の兵士たちは唖然としていた。
だがイクサはうきうきしているようだ。言葉の意味は理解していないようだが、ルイの歌声にうっとりとしているようである。
いったいどういう状況なのだろうか?
「イクサさんは子供なのですよ。恐らく彼は歌を初めて聞いたのでしょう。初めての娯楽に心を躍らせているのでしょうね」
「……そういうことか」
羅漢は顔を曇らせた。イクサは人間らしい生活を送っていなかったのだろう。人間性を徹底的に排除されてきたと思われる。
羅漢も生まれ故郷の龍京で見たことがあった。人殺しの訓練だけを受けた子供を利用した組織があった。それに子供だけを働かせて酒を浴びるように飲んで、ばくちに現を抜かす親もいた。そう言った連中はすべて逮捕され、強制労働所に送られたが。
ルイは歌を歌いつつ、ダンスを披露する。イクサは目が見えないがその分耳がいいみたいで、ルイの布ずれの音を聞いて、踊りだした。
「あはっ、あはは、あはあはあは」
イクサは拙い笑い声を上げる。初めての経験にイクサは楽しそうだ。そしてイクサは刀を捨てた。
ルイはイクサの手を握る。ぶんぶんと手を振り、楽しそうに踊り始めた。
イクサはもう殺意は収まった。
「なんということだ」
オモタルは驚いた。イクサを殺さないで無力化させたからだ。普通なら刀を持つ敵を殺しにかかるものだが、ルイたちは歌でイクサをおとなしくさせた。
「お前たち、目の前の三人には手を出さないように」
オモタルが命じると、兵士たちは直立し、横に整列した。
「皆さんはすごい人ですね。私の為に人々を傷つけずに済ますなんて」
「私たちフエゴ教団はサルティエラと手を結びたいのです。少しでも心証をよくしたいのは当然ですよ」
ルイが笑顔で言った。そして右手を差し出すと、オモタルと握手をする。
「あとはロキとエスタトゥアを倒せば終わりですね」
「……あの二人は手ごわいです。特にエスタトゥアは鬼のような強さを誇ります。腕力自体はともかく、相手の動きを読み、その隙を瞬時で突くのです」
オモタルは説明してくれた。あまり表情は良くない。二人の強さを直で見たから気が重いのだろう。
☆
ビリーとエスタトゥアは戦っていた。布を武器にして振り回す。触れるとぴりぴりと痺れてきた。ビリーは殴ろうとしてもエスタトゥアは紙一重で躱し、ビリーの隙を突いて攻撃してくる。
エスタトゥアはずっとビリーの眼を見ている。じっと見続けていた。本能で攻撃しているようだ。
「ははは、エスタトゥアは戦いの天才だよ。考えるより反応するのさ」
ロキは腕を組みながら遠巻きで笑いながら言った。
だが手を出すつもりはなさそうだ。あくまで一対一で勝負するつもりの様だ。別に手を出さなくても勝てると確信しているのだろう。
エスタトゥアはビリーより一回り身体が小さい。体重も軽いだろう。突きの威力は弱いが、ビリーの急所を的確についてくる。
さらにビリーが蹴りを入れると、エスタトゥアはしゃがみ、足払いをしてきた。
バランスを崩すビリーは地面に手をついた。そこにエスタトゥアの蹴りが顔面を襲う。
ビリーはすぐに顔を下に向ける。紙一重で躱した。
この女は武術の心得があるわけではない。ただ直感を頼り、相手の急所を狙うだけだ。だがそれが怖い。余計な考えを持たないから動きも読みにくい。
そもそもエスタトゥアの布はどうか。少し触れるだけでピリピリと痺れてくる。あれがまともに巻き付けば多大な電撃を喰らうだろう。ショックで死ぬかもしれない。
布だからといって馬鹿にはできない。巻き付けば首を絞められて死ぬこともある。エスタトゥアは踊るように布で遊んでいた。まるで複数の頭がある蛇の怪物の様だ。
この女を殺すにはどうしたらいいのか。ビリーの周りには味方はバオバブ、敵はロキとエスタトゥアだけだ。
だがバオバブがどんな力を持っているかわからない。人造人間だから特別な力を持っているだろうが、よく知らない力を頼るのはよくない。
それにロキの実力も未知数だ。エスタトゥアに戦わせているが、あいつ自身が弱いとは限らない。
何か隠し玉を持っている可能性はある。あの手の人種は弱いと見せかけて、暗器を使って急所を狙うのが多い。
「あの女はあまり自分の意志がなさそうだね。思い切って司令塔を潰したらどうかね?」
バオバブが助言をくれた。確かにエスタトゥアは手ごわい。だが彼女はロキの操り人形だ。男に命令されたから動いている。
ならば先にロキを倒せばいい。そうすれば操る人間がいなくなれば、人形はピクリとも動かなくなる。
ビリーは獲物をロキに定めた。バオバブはわしに任せろとつぶやく。
ビリーは一気にエスタトゥアを目掛けて駆けだした。普通なら敵をよけて逃げるものだが、ビリーは違う。逆に真正面から突っ込むことで相手を逃がさない。そのまま避けてロキに向かう。
エスタトゥアはビリーを殴ろうとしたが、彼女が避けてしまったので、こけてしまった。
すぐに布をビリーの背中に投げつける。布に電流が流され、鉄のような硬さを持ったのだ。槍のように鋭くなった布を突き刺そうとしたが、バオバブが止めた。
彼は口から蔦の様に長い舌が飛び出た。その舌はエスタトゥアの首を絞める。
びりびりと電流が流れたが、両腕がアースの役割を果たしているので、問題ない。
ビリーは一気にロキの間合いを詰めた。そしてビリーは右拳を握りしめ、ロキの顔面を撃ち込んだ。
ぐしゃりと潰れて、吹き飛ぶ。血と砕けた歯が飛び散った。
あっさりと勝負がついたことに驚いた。ロキはあまり強くなかったようだ。
ビリーは血で濡れた手を見て、呆気ない結末に驚いていた。
エスタトゥアの方は死んだロキを見て、腰が抜けている。もう勝負は決まったようなものだ。
「ふぅ、やけに呆気なかったな。さて女の方はどうするかな」
「難しい所だな。最初に殺したのならともかく、ロキを殺した後に殺すのはどうかと思うがね」
二人は悩んでいた。エスタトゥアの後始末をどうすればいいか考えていた。
するとロキの死体が動き始める。さらにエスタトゥアの身体も激しく痙攣すると、口から何か煙のようなものを吐き出した。
ロキの死体からも煙が出てくる。
煙は空へ舞い上がった。そして煙は大空に昇ると、一人の女の顔を作った。
西洋人の女性の様だが、ビリーはよくわからない。
だがバオバブは驚いた。
「あれはフランスの女優シュザンヌ・ウェバーだぞ」
その女の顔は禍々しい笑顔を浮かべていた。




