第6話 毬林満村
「お父さん、いってらっしゃい」
一九九九年の七月、中華帝国の首都、帝京にある三十階建ての高級ホテルに毬林満村は妻と十歳になる娘の茉莉花と共に止まっていた。
毬林は日本共和国から来た商業者であり、娘が夏休みに入ったので家族でやってきたわけだ。
妻と娘は帝京の観光を楽しんでいた。皇帝の住む皇居など見どころは多く、料理も様々で目移りしているという。ほんの二十年前は日本に対して敵対心をむき出しにしていたが、今は外貨獲得の為に観光客を呼び込んでいるのだ。
もちろん皇帝にとって不本意だが、時代の流れなので仕方がない。
「ああ、行ってくるよ。今日はみんなで夕食を取れるから楽しみにしてくれ」
「嬉しいなぁ。あたしはカニが食べたい!」
「うん、パパも食べたいから楽しみにしててね」
毬林は娘の頭を撫でると、娘はふくれっ面になる。
「もうあたしは子供じゃないよ! 小学五年生なんだからね!!」
「ははは、ごめんね。じゃあ、いってくるよ。魅羅も待っててくれ」
毬林は妻の魅羅に声をかけた。温和そうで髪の毛もふんわりと柔らかそうだ。胸も豊満で良妻賢母を具現化した形である。
「ええ、いってらっしゃい」
こうして毬林はこの国の環境大臣に自社の商品の説明をするためにこの場を後にした。
これが彼にとって最後に見た妻子の姿であった。
☆
「せんぱ~い。ご機嫌いかがですか~」
ここは帝京にある施設だ。学校の体育館がいくつも並べられたような広さで、軍服を着た衛兵が立っている。環境大臣が務める部署だ。小奇麗な建物でピカピカの床に、細工が施された照明などが並んでいる。
声をかけてきたのはぼさぼさの髪をした白衣を着た男であった。
牛乳瓶の様な眼鏡をかけており、いかにも研究者というステレオタイプを地にいっていた。
彼の名前は杖技網厚。毬林の大学時代の後輩である。
本来学科は別々なのだが、サークル仲間として接点があり、毬林が大企業に勤めてからも、杖技はその研究所に就職したのだ。腐れ縁である。
性格は真面目で几帳面な毬林と違い、杖技は自己中心的で科学オタクであった。
まるっきり性質が違うからこそ気が合うのかもしれない。
「杖技か。研究はうまくいっているのか?」
「うまくいってるに決まっているでしょ? 僕は天才なんですから。それよりも先輩は環境大臣にビッグヘッドを売り込むんでしょ? がんばってくださいよ~」
「わかっているさ。こいつは社運を賭けた一大計画なんだ。それにお前の作ったビッグヘッドは放射能汚染を浄化する人類最大の希望だ。絶対に成功させるさ」
「そいつは嬉しいですねぇ。でも原発反対を訴える団体は躍起になって計画白紙を求めていますよ。まったくあいつらは気狂いとしかいいようがないね」
「原発を反対する自分に酔っているんだろう。ビッグヘッドがいれば核兵器が無力化されることを恐れているんだ。核保有国から金をもらっているんだろうな。実際は放射能汚染された鉱物を食べて浄化するだけなんだがな」
「あっはっは~。そうなんですよね~。あと使用済み核燃料をどこでも廃棄できるのもメリットだけど、一度でも廃棄された場所は二度と人が住めないとインチキ研究者が訴えているそうですよ。まったくあいつらは人類の安全より、目先の小銭だけがほしいようですね」
杖技はげらげら笑っている。毬林も同じ気持ちだ。ビッグヘッドは植物の遺伝子を組み込んだ生物だ。自然の浄化作用を強化し、放射能汚染を浄化する力を持っている。
そして鉱石は複数ある胃の中で分別され、涙膜と呼ばれる膜に包まれて排出されるのだ。
廃棄された原発を処分することも可能である。しかし他国は認めようとしない。
そもそも神に断りもなく新しい命を生み出すことは禁忌の場合がある。
放射能の脅威より、信仰が重要なのだ。
紛争地で劣化ウラン弾をばらまき、住民が病気になってもその国はビッグヘッドを認めないだろう。人間が苦しむのは神の試練であり、自力で乗り越えるべきだと考えている。
具体的な解決策は示さず、感情論ばかり高ぶっているのだ。
「この国は無神論者がほとんどだ。ビッグヘッドの様な異形の生物を受け入れられる土台がある。ここを中心に売りさばいて世界の放射能汚染を浄化しまくってやるんだ。これが疲労島で亡くなった祖母に対する最大の供養だよ」
毬林はそう決意するのだった。
☆
「いてて……、いったい何が起きたんだ?」
毬林は身体を起こした。周りはめちゃくちゃだった。窓ガラスは割れており、部屋の中もぐちゃぐちゃだ。
外の景色は地獄であった。帝京が炎に包まれているのである。
近くには環境大臣の死体が転がっていた。衝撃で死んでしまったようだ。
「そうだ……。核ミサイルが発射されたんだ……」
だがなぜだ。なぜこの帝京に撃ち込まれた? 理由などわかるわけがない。
しかし自分にはやるべきことがある。それは妻子の無事を確かめることだ。
毬林は軋む身体に鞭を打ちながらホテルへ向かう。
なぜか身体の調子がよくなっていた。大学時代はバスケットボールを楽しんでおり、就職し家庭を持った今でも続けている。
ぐちゃぐちゃになった帝京は道路が陥没し、ビルが倒れている。ガス管は漏れ、水道管はちぎれて水が噴き出していた。
自動車は裏返しに倒れており、衝撃で死亡した人々の死体がごろごろ転がっていた。
さらに死にきれなかった一団も見かけた。だが全身焼けただれており、映画に出てくるゾンビの様であった。
毬林は吐き気を催しながらも、ホテルの道を歩いていく。
自分の身体が自分ではない感覚だ。まるで猿のように瓦礫を難なく上れてしまうのだ。
さらに犬のように鼻が利くのか、食べ物のありかもあっさり見つけられた。
いったい自分の身体はどうなってしまったのか。それはどうでもいい。妻子の無事を確認するのが大切なのだ。
結果から言って二人は死んでいた。ホテルは熱風に晒され、飴細工のように溶けている。
だが妻子のいる部屋は反対側なので、焼けていなかった。
しかし衝撃のために魅羅と茉莉花は息絶えていたのだ。
毬林は目の前が真っ暗になった。なぜこんなことになったのか。どうして家族は死んだのか。
頭がぐつぐつと煮だっていき、怒りが沸き上がる。
なんで自分はこんな目に遭わねばならないのか。おそらくは全世界で起きていることだろうが、毬林にとっては自分だけを狙い撃ちにした嫌がらせと思い込んだのだ。
毬林は咆哮した。獣のように猛り狂ったのだ。
彼は町に赴き、銃を売る店にやってきた。店員はいない。猟銃が揃えられていた。
毬林は猟銃と弾薬をごっそりと盗むと、町に出た。
そして火傷で蠢く人間たちを片っ端から撃ち殺していったのだ。
これは殺人衝動に目覚めたのではない。毬林は世の理不尽さに嘆いた後、自分が生き延びた理由を考えた。
なぜ自分は生きているのか。そもそも身体の調子がますますよくなる一方である。
頭の回転も速くなった。まるで自分が別の何かに変化していく感覚であった。
「もう世界は終った。人間の、いや地球の歴史は終ったのだ。なら俺が人類の幕を下ろしてやる。死にぞこないの人間の息の根を止めてやるんだ!!」
毬林は鼻を利かせながら生き残りを探して撃ち殺すのだ。その過程で生き残りの人間を仲間に加える。
毬林の考えに共感したのだ。苦しむ者たちを殺して楽にする。殺しても快感などない。罪悪感はある。自分たちの行為は紛れもない悪だ。正義と名乗る気などない。
黒い雲が空を覆っている。いわゆる核の冬が到来しているのだ。冬が来れば生き残る確率は低くなる。
自分たちの命運も冬が来れば終るだろう。その間に人を殺しまくった。火傷の跡に蛆虫が湧いても生きている人間がいた。
そういう相手は頭を吹き飛ばしてやる。
「俺たちもすぐに行く」
毬林は自動車や銃を集めていく。仲間も二十人ほど増えた。食料をたっぷり集めたが、毬林はあまり食べない。仲間たちに分け与えていく。
人を殺しまくる自分が幸福になってはならない。酒も集まったが自分は一滴も飲まなかった。自分の役目は人類を苦しみから解放するのが目的だ。そのため自分の楽しみは一切絶ったのだ。
仲間たちもそんな毬林に高貴な魂を感じ取った。彼らは殺戮を楽しむ蛮族であり、高尚な思想の集団なのだ。
毬林たちは郊外に向かった。農村でも死体がごろごろ転がっている。
雪が降り、気温が下がっていく。人や家畜の遺体の上に雪が積もっていった。
毬林たちは防寒着を着て、生き残りを探す。苦しむ人間は止めを刺し、五体満足の者は仲間にしていた。
「実は奇妙な集団を見かけたのです」
農村に住んでいた青年が答えた。犬のような人間が村を回った後、逃げ出したそうである。
実際にそこへ行ってみると足跡が残っていた。雪が降っているのでわかりやすい。
犬に似ているが、足跡は靴だ。つまり人間である。
「村を見回ってみると、子供の死体が少ないのです。この村はほとんどが親戚で家族みたいな付き合いをしています。それなのに子供の死体が少なすぎるのです」
毬林は青年の話を聞いて、あることを思い出す。
それは後輩の杖技から聞いた話だ。彼が生み出したビッグヘッドにはある物質が組み込まれている。
それは神応石といい、人間の脳に砂粒ほどの大きさの物質だという。
古来ではヒヒイロカネという名前で呼ばれていたそうだ。毬林も名前だけは知っている。
神応石は人の精神に影響を及ぼし、その人の性質を変えるという。戦前は捕虜を使った人体実験で神応石を集め、実験を繰り返したそうだ。
捕虜実験では相手を追い詰めると、その人は死を恐れて獣に変化したそうだ。
「これは絶対に内緒ですよ」と杖技が答えたのが忘れられなかった。