第15話 放屁魔法
龍羅漢たちはモスコーに来ていた。
モスコーとはモスクワの英語読みである。かつてはロシア連邦の首都であった。東ヨーロッパ中央部にあり、交通の要だったそうだ。
基本的に建物はすべてビッグヘッドに喰われており、更地である。ただし元市街にはクレムリン宮殿と隣接の赤の広場を中心に放射状に建設されていた。ビッグヘッドの変形、カーペンターヘッドの仕事である。
他にもモスクワ大学・ボリショイ劇場や各種博物館など多くの教育・文化施設が復旧されていた。
一九九〇年では、「モスクワのクレムリンと赤の広場」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録されたという。
木造建ての駅には大勢の人間が働いていた。クロテンというイタチ科テンの亜人や、シベリアンハスキーの亜人たちがちょこまかと、せかせか働いている。
力仕事はユーラシアヒグマに任されていた。ひと昔は同じ亜人同士で集落を作り、他の亜人とは接触を持たないばかりか、憎しみを抱いていたそうだ。
今はエビルヘッドが集落のリーダーを食い殺し、リーダーの子供を新たなトップに据え付け、他の集落から娘を嫁がせたのだ。
最初は反発していたが、第二世代になるとそういうものだと落ち着き始めている。
「あと数週間でワルシャワか。もう何か月も過ぎている。七海は大丈夫か?」
黒いノヤギの亜人である羅漢が、マレーグマの亜人である龍七海に尋ねた。
「ぜんぜんへいき。だって私は世界の荒波どころか、竜巻だって経験しているのよ。大の大人でさえ、全身の毛が白くなり、精神が子供へと退化するわ。それに比べたら陸路の旅なんて暇すぎるわね」
「厄介なのはモンローの手先である、スプーキーキッズですね。奴らはこちらに近づくごとに手ごわくなっております。私としては黒夫を龍京に帰すべきではないかと……」
金華豚の亜人である亥吃豆が、ナミチスイコウモリの亜人である子黒夫を見て言った。彼は過去の失敗を引き合いにしているのだ。
だが黒夫は動じていない。
「いらない世話だ。過去の失敗は、成功で取り戻す。我々の進退を決めるのは金剛様だけだ。違うか?」
黒夫は白いノヤギの亜人を見た。彼は元龍京の大臣を務めた老人だが、高齢とは思えないほど矍鑠していた。
「そうだな。一度の失敗で切り捨てるほど、わしは短気ではないぞ。失敗とは死だ、生きている限り失敗にはならん」
「出過ぎた言葉でした。申し訳ございません」
吃豆は頭を下げた。彼は一族の代表としてこの旅に同行している。黒夫も同じだ。他の一族は龍京の防衛として残っていた。五十年前に人造人間であるチャールズ・モンローの襲撃を受けた。卑劣な性格で平気で嘘をつく悪の化身であった。
そいつが、いつ自分たちが離れている間に龍京を襲撃しないとも限らない。手紙のやり取りをしているが、いまだにその兆候はないとのことだ。
「黒夫は自分の意志でここにいる。死んじまっても自己責任だ。お前が気に掛けることじゃない」
「わかっていますよ。でも一族を背負うことはとても重いのです。あなたのように身軽な身分は羨ましいですね」
吃豆が嫌味を言った。好き勝手に生きている羅漢に対して皮肉が効いている。
羅漢は反論せず「耳が痛い……」とつぶやいただけだ。
黒夫の見た目は平然を装っている。ただどこかそわそわしていた。それは暗いものより、どこか心をうきうき躍らせているように見える。
☆
何やら音が聴こえた。それは遠くから聞こえていたが、何の音かわからない。
やがて嫌な臭いがした。おならの様な鼻につく臭いだ。
そしてそいつは現れた。黒豚の亜人で円盤の様な乗り物に乗っていた。下から炎が噴き出ている。
「ウホホーイ!! 俺はサーラ!! 放屁魔法の使い手さ!! スプーキーキッズの一人だよ!!」
サーラが叫びながら飛んできた。どうやら放屁で空を飛んでいるらしい。
おならはすこぶる燃える。窒素、酸素、メタンが含まれているからだ。そもそもおならは食べるときに空気を取り込むため、大腸に残るのだ。
サーラの身体は炎の噴射で浮かんでいた。その影響で周囲に熱風が巻き起こる。さらに悪臭もひどい。なかなか近づけない。
「まるで豚が空を飛んでいるようだ。現実ではありえないが、実際に見ると常識が狂うぜ」
羅漢はサーラを見ながら言った。サーラが飛ぶだけで肌が焼け、血が煮だつ。下手に近づくことができない。
吃豆が前に立つ。彼は手首から脂肪の糸を張り巡らせた。しかし熱風で脂肪の糸は溶けてしまう。
「厄介ですね。脂肪の糸では溶けてしまうな」
吃豆は忌々しくつぶやいた。次に羅漢が出た。羅漢はフロント・ダブルバイセップスのポーズを取る。大胸筋をぴくぴく動かすことで、風を生み出した。
だがサーラの周りは熱風で守られており、羅漢の筋肉の風は通用しなかった。
「手ごわいな。奴は存在するだけで相手を弱らせる。攻撃手段が少ないぜ」
羅漢がつぶやくと、黒夫が前に出た。
黒夫は両腕を広げる。熱風によって黒夫の身体が宙に浮いた。黒夫は蝙蝠と同じく皮膜がある。ガルーダ神国でヨガを学び、体重を軽くすることで空は飛べなくとも、滑空動物のように空気抵抗で飛距離を伸ばすことができた。
黒夫は空を飛ぶと、サーラの頭目掛けて飛んでいく。ぶつかる直前に手を握り、上に向けた。手首から鋭い針が出る。
「ウホッ!! いい針!!」
針はサーラの耳を貫いた。
黒夫はサーラが白目を剥く前に飛び降りる。まるで新体操の選手のように華麗に着地した。
サーラは地面に墜落する。すると異臭が漂い始めた。
次にどがぁんと腹部が爆発する。おそらくおならが引火したのだろう。
サーラの身体は木っ端みじんに砕け散ったのである。
☆
「黒夫。さっきのお前の力は何だ?」
金剛が黒夫に詰問した。黒夫が先ほど見せた技は自分たちが見たことのないものだ。いきなり力を得るなどありえないと思った。
「はい。これは今まで隠してきたものです。使う機会を待っていましたが、先日は出し惜しみしてしまいました。今回はきちんと力を使うことしたのです」
黒夫が言い訳をする。例え黒夫の言葉通りだとしても、隠す必要があるだろうか。羅漢は黒夫が能ある鷹は爪を隠すとは思えなかった。
黒夫の力は血液の中にある鉄分を凝縮して、針を生み出すものだ。鉄分は血液に酸素を運ぶ大事な役目がある。針一本精製すると途端に呼吸困難に陥ってしまうのだ。それ故に使う機会は慎重に見極めていたという。
「……力を見せつけると騒動の元となります。ぎりぎりまで隠すのは珍しくないですね」
七海が補佐する。彼女はそういった人間を多く見てきたから、黒夫の主張は真実だと思ったのだろう。
「……黒夫よ。お前はわしらの敵にはならんよな?」
金剛が睨みつける。黒夫は動じない。いや、そう見えて心の中では子供のように怯えているかもしれなかった。
やがてにらみ終えると金剛は背を向けた。これでこの話は終わりのようである。
黒夫はへたへたと崩れ落ちた。金剛は老齢だがその覇気は衰えを知らない。何も知らない市井の人間ならにらまれただけで心臓が止まるだろう。
心にやましいところがなければ死ぬことはない。金剛はそう考えているようだ。
「ふぅ、息が止まるかと思った……」
黒夫の元に羅漢がやってきた。彼は右手を伸ばし、黒夫の身体を引っ張る。
「お前さんが面倒を嫌う性質なのはわかる。だがこれからは積極的に前に出てもらうからな」
羅漢は黒夫をにらみつけた。黒夫は目を反らす。日頃は反骨心が強いが、それは心が弱いためだ。自身も一族のために身を粉にして働きたいが、実力が伴わない。せめて口だけでも強気でいないと心が崩れるからだ。
「……黒夫にとっては幸か不幸がわかりませんね」
吃豆は黒夫に対して憐みの目を向けた。力があればなんでもできるという思い込みがある。自身の一族でも力に溺れ、自滅した者を吃豆は見てきたのだ。
だからこそ吃豆は黒夫を哀れむ。
「ふむ。以前の小便魔法といい、スプーキーキッズたちは面白い力を持つな。ビッグヘッドにもこういった能力を持たせられないだろうか……」
エビルヘッドはサーラの残骸を見て、考えていた。
だがビッグヘッドの構造では小便や放屁も無理だ。ならば空飛ぶ豚を再現できないか、考えを巡らせている。
サーラはウクライナの料理です。豚の脂身の塩漬けです。
サーラはロシア読みで、ウクライナではサーロです。




