第九話 老雄
「お兄ちゃーん! まってよぉ」
薄暗い森の中で一人の幼女が走っていた。着ている服は毛皮で、毛皮の靴を履いている。髪の毛は黒くぼさぼさだが、蔓で作られた髪留めで両サイドを縛っていた。
もう一人少女より一回り身体の大きい男の子が木の上に登っていた。こちらも着ている服は毛皮で毛皮の靴を履いている。黒く短いボサボサ頭で垢まみれであった。背中には弓を背負っている。
木の上には黄色い木の実が成っていた。少年はそれが目当てなのだろう。猿のように器用に登って、木の実を地面に落としていた。
「ほーら、落ちた奴を拾ってくれよ。お母さんに食べさせるんだから」
「でもぉ、この森は危ないっておじいちゃんたちが言ってたよぉ」
「すぐ戻れば大丈夫だよ。お母さんはこの実が大好きなんだ、誕生日が近いのにこの実を採らないなんて選択肢はないよ」
どうやら二人は兄妹のようだ。兄の方は村の約束事を破り、独断で森の中に入ってきたらしい。そして母親の為に木の実を手にいれに来たようだ。
妹はビクビク怯えている。森の中に住む獣たちも恐ろしいが、森全体に発する瘴気を感じ取っているのかもしれない。
「もう帰ろうよぉ。怖いよぉ」
「まだだよ、まだだ。もっとたくさん採らなきゃ。周りには怖い獣がいないんだから平気に決まっているさ」
少年は根拠のない自信に満ち溢れていた。大人たちの忠告など馬耳東風で、自分の都合のいい未来しか見ていないし、信じる気がない。妹の忠告などどこ吹く風だ。弓を持つ自分がいるんだから安全だと思い込んでいる。
がさりと音がした。二人は音がした方を見ると、そこには巨大な獣が現れた。
それはアライグマであった。
アライグマは食肉目アライグマ科の哺乳類である。タヌキに似るが、尾に黒の輪模様がある。木登りがうまく、巣は木の洞につくる。名称は、水辺で食物を探すしぐさが、手を洗う姿に似ることからつけられた。南北アメリカの森林地帯に分布していたが、ペットブームで世界中に広がっていたという。
だが目の前のアライグマはヒグマ並みの大きい。子供の首など軽くかみちぎれるほどに牙を剥き出しにしていた。
アライグマは目の前の子供たちを獲物として見ていた。巨大なアライグマは雑食で、人間の子供を簡単に食べる。しかし食べるときに現れることがある。子供だと皮膚がバリバリにはがされ、肉を筋肉ごとぷちぷちと引きちぎられ、骨をぼりぼりと齧られる苦痛を味わうこととなるだろう。
妹はアライグマを見て腰を抜かした。兄は木の枝に上り、弓を構える。そして撃った。気分は英雄である。
プスリプスリと頭に刺さるが、致命傷になっていない。所詮は子供の腕だ。手にとげが刺さった痛みだが苦痛の声を上げながら、兄のいる木の幹に体当たりを始める。狙いは矢を放つ子供だ。
どしんどしんと木は揺れた。まるで地震のようだ。兄は必死に母親に抱きつくように木にしがみついたが、耐えきれずに落ちてしまった。
兄は尻をさするが、妹が抱き着く。そしてアライグマが涎を垂らしながら二人の前に立ちふさがった。
尻が痛いから逃げれない。4本足の獣から走って逃げられるわけがなかった。
二人は互いに抱き合い、脂汗をだらだらと滝のように流している。
「ふむ。見過ごせませんね」
アライグマの背後から声がした。するとアライグマは顔をガリガリとかきむしった。
すると額が割れて、腹部から内臓が飛び出した。そのまま火に包まれていく。
肉の焼ける臭いと飛び散った脂が鼻についた。アライグマの後ろには一人の男が立っている。
それは全身が赤い男であった。ソフト帽子と背広を着ている。さらにワイシャツと靴も赤であった。肌も赤く、髪の毛も赤かった。まるで鮮血を浴びたように見える。
目は刃物のように鋭く、鼻はかぎ爪のようで、口は歯を剥き出しにしていた。耳はとがっており、顎も斧のようであった。
「あっ、あんたは一体……?」
兄が声を絞り出した。男はこう答えた。
「……老雄」
男はぼそりとつぶやいた。
☆
森の中に村があった。竪穴式住宅が並んでいる。村人は毛皮を着ており、土器が並んでいた。大きめの山羊などを飼っている。
兄妹は老雄を連れてきた。助けてくれたお礼がしたいと無理やり引っ張ったのだ。
老雄はよそ者の自分が立ち寄るわけにはいかないと断ったが、どうしてもと言うので仕方なく来たのである。
村人の一人が兄妹たちに気づいた。そして老雄に気づくと慌てて村の奥へ走っていく。
幼い兄妹たちはきょとんとしており、まったく事態に気づいていない。
老雄はくるりと背を向けて去ろうとしたが、妹が裾を引っ張るので立ち去れない。
やがて大勢の村人が武器を持ってやってきた。全員男たちで殺気立っている。
その中心には頭が禿げ上がった老人がいた。杖を突いているが目つきは鋭く、ヤマネコのようにギラギラ光っている。
恐らくこの村の長老であろう。
「お前たち……。なぜ森の中へ行っておった? 森は危険だとあれほど口を酸っぱくして言っていただろうが」
「だっ、だってお母さんの誕生日が近いんだ!! だからお母さんの大好きな木の実を獲りに行ってたんだよ!!」
「だからと言って子供二人で出歩いていいわけがないだろう!! こいつらは村の掟を破った!! しばらく牢に入れておけ!!」
大の男たちが兄妹を無理やり抱きかかえる。
「やめろ! 離せよ!!」
「やだぁ!! 助けてぇ!!」
兄妹たちは泣き叫びながら連れていかれた。そして長老は老雄をにらみつける。
「……お前さんは何者かね? あの二人を利用して村に入るつもりだったのかね?」
「私は村に立ち寄るつもりはなかった。森の中でアライグマに襲われていたところを助けたのでね。そのお礼にと言われたのだ。私は断ったのだが、どうにも断り切れなくてね。男の子の方はどうも警戒心が薄い。よそ者の私を強引に誘っていたよ。思い込むと周りの言葉が耳に入らないのは欠点だね」
老雄が説明すると長老は納得したようであった。長老は右手を上げると、後ろから男が何か革袋を持ってきた。それを老雄の目の前に置く。中身は干し肉と水筒が入っていた。
「これをくれてやる。だから今すぐ立ち去れ。儂がこいつらの武器を押さえているうちにな」
「随分寛大ですね。普通はよそ者が来たら即殺すと思ったのですが」
「よそではそうらしいが、うちは違うよ。まああんたが山賊の仲間であっても後ろをついていけば、隠れ家を見つけられる。いつでもあんたを殺せるけど、あえて殺さないのは慈悲だと思ってくれ」
長老はそう言って老雄を睨む。この村は安易な殺しを禁じているようだ。
老雄はそれに納得したのか、革袋を手にするとそのまま背を向けて立ち去ろうとした。
「ところであんたたちはチャールズ・ヒュー・モンローという名前を聞いたことがあるかね?」
「聞いたことがあるな。確か50年前ほどのアメリカ人の名前だろう? 儂はキノコ戦争が起きる前の生まれだから知っている。それにここは白虎県だ。モンローの別荘が近くにあると聞いたこともあるよ。もっとも100キロ程離れているらしいがね」
「そうか。では今の世界はモンローのせいだと言ったら信じるかね?」
周りの男たちは何を言っているのか理解できなかった。だが長老だけはまっすぐに老雄を見つめている。
「……儂の家族や友人たちはみんな今の世はモンローのせいだと言っていた。自分たち胃の不幸はすべてモンローが悪いんだと恨み言をつぶやいてから死んでいったんだ」
長老は遠い目をしていた。本人はモンローに対して含みはないようだ。出会ったことのない、テレビや雑誌でしか知らないモンローに逆恨みを抱く家族や友人たちが理解できなかった。
「長老!! なんでこいつを生かして帰すんだ!! よそ者はすぐ殺せばいいじゃないか!!」
男の一人が突如叫んだ。熊のように身体が大きい男だ。目が血走っている。
「シオン。儂の命令が聞けないのか。こいつを殺す必要はない。黙っていろ」
「うるせぇぇぇぇ!! 俺に命令するなぁぁぁぁ!! よそ者はすべて殺すんだぁぁぁぁ!! 俺は偉いんだぁぁぁぁ!!」
シオンは口から唾を吐きながら叫ぶ。完全に気が狂っていた。
「そもそもチャールズ・モンローの事を尋ねたこいつは悪に決まっているんだ!! モンローは悪魔だ!! この世界を荒廃させた元凶だ!! 呪われた名前を口にしたやつはすべて息の根を止めるんだぁぁぁぁ!!」
シオンは棍棒を持って老雄に殴り掛かった。長老は止めようとしたが遅かった。
棍棒は老雄の顔に決まった。まるで野球選手のフランクリンをしのぐアッパースイングである。
しかし老雄はポケットに両手を突っ込んだまま、動かなかった。棍棒で殴られてもへこみもしない。
「彼に家族はいますか?」
老雄が訊ねた。
「いる。妻と三人の子供だ。だがいつも酒を飲んでは暴力を振るっている。儂が注意しても聞き入れない。一番偉い儂の言葉を耳に貸さないクズだ」
長老は吐き捨てた。恐らくシオンは村の鼻つまみ者だろう。
老雄は一歩踏み込むと、右手をシオンの顔に当てた。するとシオンは顔をかきむしる。
目と鼻から血が垂れる。しかも顔中の血管が浮かび、ぐつぐつと血が煮だって来た。
「あづい、あづいよぉ……。あじゅうぅぅぅぅぅぅぅい!!」
シオンの頭が爆発した。そして首から炎が吹きあがる。身体は仰向けになるも、首から火が延々と燃えていた。両手を上げぴくぴくと痙攣している。やがて身体がしぼみ、骨だけになった。
長老たちはそれを見て恐れおののいた。シオンは嫌いだがあまりにも陰惨な殺し方に目を覆いたくなった。
「……あんたはなぜその力を使わなかったのかね?」
あの力があれば村を支配できるはずだ。なのに老雄は何もせず立ち去ろうとした。
「殺すなら村全員だ。私は一人しか燃やせないんでね」
そう言って老雄は去っていく。
老雄ことモンロークラウトは森の中へと消えていったのだ。
シオンは中国語で熊を意味します。




