幾千年生きる猫という生き物。
私は猫である。幾千年生きる、猫である。
私の主は、何人目だろうか。わからない。
私がにゃあと鳴けば、人間は私に餌をくれる。
私が喉を鳴らせば、人間は私を撫でる。
私は人間が好きである。
人間というものは、何と不思議な生き物か。
私達は猫という皮を被ったまま、そのままの姿で息絶える。
しかし、人間というものは初めは玉のように艶やかな小さな身体が
干物のように干からびたり、脂の塊のように肥えて息絶えるものである。
ふくふくと柔らかな手のひらが、日に日に移ろいゆくのは新鮮である。
日に日に移ろいゆく人間。
人間はよく、私に煮え切らない感情を吐き出す。
可笑しなものである。人間は、姿形も変わるが、なんと中身も変わる部分あるようだ。
子どもと呼ばれる頃の人間は、度々私に言う。
大人という人間へ対しての、負の感情を吐き出してゆく。
私を撫でるその子どもという人間であった主は、頰を赤らめ、瞳に水を溜めながら、言う。
“大人というものは身勝手だ”
“大人は、自分らを縛る”
自分達の気持ちを知らないで、と。
それが、月日が立ち、主は大人という人間になり、さらに親という人間になった頃の話だ。
大人という人間はになった主は、新たに生まれた子どもという人間に、言う。
“勝手に行動しないで”
“言うことを聞きなさい”
自分達の気持ちを知らないで、と。
いやはや、ふああと大きな欠伸をしている間に、大人という人間と子どもという人間の溝は深まるばかり。
幾千年生きる私でも、出来ないものは出来ない。
大人という人間と子どもという人間を和解させることなど、幾千年生きるだけの私という猫にはどうにもならないことである。
あぁ、でもしかし、人間にも変わらない心はたくさんある。
だって、ほら。
人間は、いつでも私も撫でてくれる。
泣いていても、忙しくても。
抱く愛を、私に分けてくれる。
幾千年生きる猫に、優しい人間たち。
人間という生き物が、私は好きだぞ。
まぁ、でも、人間という生き物になりたい。
なんて、そんな感情は抱かない。
私は幾千年生きる猫である。
今日もまた、人間という生き物の
愛を、言葉を
受けとめる猫である。