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わたしは、青年の言葉に触れる内に、解ってきたことが一つだけあった。
——それは、人の感情の複雑さだ。
青年が語ってくれる自らのよく知らない母の幼少時代のお話は、……とても、大人びているように思えた。
——わたしの知らない母は、一体どれだけあるのだろう、
青年は、はっとしたように顔を上げる。自分を見つめる青年が、少年から、今の青年の姿に印象を変えたような幻影を見た気がして、わたしは、頬を緩めた。
「……随分、素敵な方だったのですね。藺連さんのお父様、清三さんは……」
わたしが、そう、声を漏らすと、青年は、嬉しそうにはにかむように笑う。鋭い目が、笑うと少年のようにチャーミングで、笑うと出来るえくぼも更に親しみやすさを増す要因のように思えた。
「……そうなんだよ、父は、……僕の姉さんの次に、味方になってくれた人だった。……僕は、父さんにあこがれているし、それは今でも変わっていないんだよ」