71.それは空のように
「そんな姉さんとの関係が、ほんの少し変化したのは、僕が、姉さんの音、を聴いたからだ」
「音、ですか?」
私は、ずっと黙って、静かに語り続ける青年の話を当時の彼らの様子を想像しながら聞いていたのだけれど、ふと、口をはさんでしまった。
青年は、はっとしたように顔をあげ、今の今まで、夢の奥に沈み込んでいた場所から無理やり引き上げられたような顔をする。--私は、ほんの少し、よくわからない罪悪感を感じて。
「あ、……ごめんね、そう、そうなんだよ。姉さんは、絶対音感を持っていて、……音に敏感な人だったんだ。……何でも楽器にして無意識に奏でようとしてしまう人だった。姉さんのお母さんは、体調を崩しながらも、娘にピアノを弾いて聴かせていたらしくて、彼女の貧しい自宅は、不釣り合いな手入れの行き届いたグランドピアノがあった……みたいで、ね。その処分で、その日も祖母と父が揉めていて……、けれど、姉さんが、父の横で、グラスを並べて作った即興の楽器で奏でたきらきら星を聴いた、祖母は、姉さんのお母さんの形見、グランドピアノを処分することを諦めた……その時の姉さんの奏でた音を僕は、聴いたんだ」
「……きらきら星、ですか?」
ピアノという言葉にぴくっと反応しながら、あれは祖母の形見だったのかもしれないと思いながら、私は、あまりにも意外な選曲に驚きを隠せない。青年は、笑いながら嬉しそうに言った。
「ああ。きらきら星。ちょうどそのころ、きらきら星をどこかで耳にしたのではないのかな。でも、姉さんのきらきら星は、少し……というか、かなりアレンジされていて、きらきら星もどきだった……まるで楽し気に妖精が踊りまくっているような本当に楽しいきらきら星だったよ。……僕は、その頃、子供ながらに本当に毎日が嫌になっていて……、……そんな時の僕にその姉さんのきらきら星は、すごく明るいものに聴こえた。嬉しかったし、何故かその曲を聴いて、それまで姉さんのことを人形のように人離れしたすごい才能の持ち主のどこか違う存在と少し遠く思えていたものが、すごく身近に感じられたんだ。……姉さんは、ただのかわいらしい女の子なのかもしれないって、その時はうまく自分の気持ちを表現できなかったけれど、そんな気づきがあったんじゃないかな。僕は、それから、時折、姉さんのピアノの音を聴かせてもらうようになった。……ふふ。おかしいかい?僕らは、人形について語り合ったりはしなかった。……それはお互いに触れてはいけない話題だと解っていたんだ。姉さんも僕もお互いの微妙な立場を理解していたから。だから、僕は、主に姉さんのピアノを弾く姿しか見てこなかったし、知らない」