蝶ノ芽惰烙?:フー・アー・ユー
大学生の少女は暗い道を彷徨う。ぱっと見ただけではただの不良学生であるが、その様子は普段の彼女を知っていれば、異様であることに気づいただろう。
解消されている充血しているはずの瞳に、外されているヘッドホン。何よりもゆがんでいる口元。
彼女の存在そのものが異様であると言ってもいい。放たれているのは殺気だった。
いくら異能を用いた戦いが行われる学園島〈方舟〉であるからといって、誰彼問わずに殺気を放てるというのは異様だ。そこに残虐さもあるが、子どもの持ちうる狂気の範疇である。
彼女がいま持っているものは、〈方舟〉内における狂気として最高純度を誇っている。
その彼女と言えば、いまは誰かを探しているようであった。
雑踏の中であっても、まっすぐ前を見ているように見せかけて、辺りの気配を探っている。ときおり動く瞳は、見るだけで相手を止めてしまいそうであった。
親の仇を探しているかのようだ、と見る者が見たなら言うであろう。
それはあながち、間違いではなかった。
「……君、待ちなさい」
そんな彼女を見かねたのか、一人の男が声をかけた。
彼はこの〈方舟〉にいる数少ない大人の一人だ。周りには何人かの生徒……風紀委員を連れている。
治安維持活動をするのは、何も学生だけではない。
むろん、異能者たる〈先駆者〉の相手をするべきは同じ〈先駆者〉である学生なのだ。何の力も持たない大人ではとてもではないが対処できない。
一方で、大人でなければ対応できないことだって、ある。
それは倫理観であったり、あるいは経験であったり。
陸から離れたこの島ではそうしたものは、貴重でもあった。
だからいまだって、子どもが持つ狂気に立ち向かうのは大人であった。
「何かあったのかな。私でよければ、相談に乗ろう」
それはとても、戦力を複数引き連れている人物の台詞ではないだろう。
信用できるかと早々に突っ返してもいいのだ。
彼にとって重要であったのは、自分にさえ声をかけてくれる人がいると知ってもらうこと。
道を外れてしまった子どもをすぐに止める方法などありはしない。ただ少しずつ、現実と、社会と、大人のことを知ってもらうことが大切なのだと、男は知っている。
だから、この男の行動は何一つ間違ってなんかいない。
むしろこれだけの殺気を放っている彼女に、力もないのに声をかけた勇気をこそ褒めるべきであろう。
声を大にして言う。正しい選択だ。
しかし、それは結果的に愚かな選択であった。
「はあ? 気安く声をかけないでくれますぅ?」
少女が発した言葉は口汚い。印象と違わない口調であるが、男と風紀委員は驚いた。
差し出された手を振りほどいて、少女は睨みつける。
「オレってばいま、サイコーに苛立ってるんだよね。あのクソアマを燃やし尽くすまでは、収まりそうにねえの。だから、放っておけよ」
口調に反して口をにんまりと、歪ませる。
まるで反応を楽しんでいるかのようであった。
「まあ、よかったじゃないの。まだオレが相手でよぉ。ん? 最悪だったのか? アンタ的には、美色の方が嬉しいのか? まあ浪漫とか矩食よりかはマシだろうな、まだオレは話が通じる方だ。なあ、そうは思わないか?」
……果たして、そうだろうか。
この場にいるだれもが、この少女の話についていけてない。何人かの名前らしきものがでてきてはいたが、それがだれを示しているかはわからない。
そして、最後の問いかけまでもがこちらへ投げかけられたものなのかは疑問であった。
一人で話しているわけではない。彼女はしっかり、話している誰かを認識していることがわかる。
だがそれを、正常な会話と認識するだけの感覚が足りていない。この少女に対する知識だって、足りていないのだ。
「なんだよ、痛えって。頭の中でガンガンするな……らしくない? さすがのオレだって、目的を失うほどバカじゃあねえ。ここであいつらを傷つければオレたちが不利になるってことくらいわからぁ。それに、浪漫もうるせえしな」
「なにを……言っているんだ?」
「ああん?」
ついに、少女の視界に男が捉えられた。
ようやくと言っていいだろう。彼女は目の前のものを認識したのだ。
だがそれは不幸としか言いようがない。
今の彼女の目に捉えられるということはすなわち。
「なんだぁ、テメエ、オレの会話を邪魔するな。壊されたいか?」
ごうっ、と炎が吹き上がった。
彼女の〈先駆者〉としての能力であることはすぐにわかった。
だがその威力は並大抵ではない。紅い炎はあらゆるものを燃やし尽くす業火である。能力として、上級に属するものであることは窺い知れる。
兵器であった。国際条約で否定されているが、もし戦争への支援者がいるのであれば、彼女の存在を欲しただろう。
対峙した側からすれば、恐怖でしかなかった。
「捕まえるんだ! 周りに被害が出る前に!」
風紀委員の一人が言った。
彼女の能力を風紀委員は知っている。いま手配されている、炎能力者であった。路地裏で発生した火災被害は、未だ収まっていない。その状況は、まるで燃やすという意識そのものが炎であり、燃え尽きるまで他者の介入を許さないとでも言いたいかのようだと言う。
この少女こそが、その犯人である。そう悟ったのだった。
だからこそ、捕まえて話を聞かなければならない。風紀委員の判断は早かった。
それは正しい。しかし、愚かな選択だ。彼らは愚かな選択を繰り返した。
火とは触れなければいいはずのものである。火傷をしなかった。失わなかった。
「いいぜ、相手してやるよ……」
先ほどの言葉を簡単に翻して、彼女は……蝶ノ芽岐怒は言ったのだった。