荒砥静志:自由を願う翼
かつてノアは、過ちを犯しすぎた人類を裁く神に、地上の生物のつがいを一箇所に集め救うように言われた。
「方舟」は、そのための箱であった。
いまに生きる生き物すべての情報が封じ込められたその箱は、大きな流れに流され、アトラス山に漂着する。
神は与えたのだ、地上に生けとし生けるものすべてに、生きるチャンスを。
代表として人のノアに知識を与え、粛清は行われた。
残された生き物たちは絶望することはなかった。新たな出発を誓ったのだった。
そしてそのチャンスを掴んだモノたちは。
結局のところ、不公平であることに気づいた。
何せ、神の声を、「慈悲」を与えられたのは――――
――――人間だけだったのだから。
日本本土から遠く離れた場所。
俗世から隔離され、理想郷、あるいは監獄とも形容される地。
そこは人とは違う、異能力の発現した若者たち〈先駆者〉が押し込められた箱である。
〈方舟〉とそこは呼ばれた。
学生がひしめくその地は、すべてが学生主導で行われていると言っても過言ではない。
経済を回すのも。
娯楽を与えるのも。
そして、治安を維持するのも。
なによりも彼らを、彼らたらしめているのは。
戦いであった。
己を守るにはまず、力を示せ。
これはひとつの断片。語られざる、学生にとっての昔話。
ちょっとだけ前に、あったこと。
School of Savage VS. Identity Fragment
* * *
現場に足を踏み入れた荒砥静志は、倒れている生徒を確認した。
路地裏。計画通りに作られた〈方舟〉の街並みであるが、法令によって建物幅が決められており、その中にはぽっかりと空いてしまった場所がある。吹き溜まり、闇の巣食う場所だ。
そんな場所に十代の学生がわらわらと数人、集まっているのは不審ではあった。時間にして深夜十二時。とてもではないが、十代の子どもが出歩いていい時間ではない。
だがそこにいる誰もが、そこにいる権限を持っていた。
倒れている学生は、先駆者としての異能を行使して暴れまわっていたところを風紀員に取り締まられたのだという。
規定に則らない限り、異能の私的行使は禁止されている。重大な違反であった。
眠っている学生は、全身に怪我をしているものの、命に別状はないことを確認している。であるから、傷について心配する必要はない。
問題はとりわけ、その生徒の身元であった。
「間違いない……聖ヴァルドル学院の生徒だ」
そう告げると、周りの生徒たちも頷いた。
その場に集まっている生徒は一様に、ある紋章を持っている。鳥を伴った盾……『平和の盾』が示すのは風紀委員であること。
この〈方舟〉において治安活動を担う生徒であることの証だった。
さらに言えば、静志は彼が属する聖ヴァルドル学院の風紀委員会、会長を務めている。
謂わば、ひとつの集まりのトップの一人である。新任であるが、落ち着いている姿は頼もしく思えた。
そんな 彼がここにいるのは、他でもなく、被害に遭った生徒の身元を確認するためである。
制服からどこの生徒かはわかるものの、もしもがある。制服は流通させることができるものであるし、身元を偽るために他校の生徒を装うこともないことはない。
だから、たまたま近くにいた静志が呼び出され、検分をすることになったのだ。
話したことはないが、見覚えのある顔である。聖ヴァルドル学院の指定制服である白ラン、そののカラーにつけられた学年証から、高等部の一年生であることも確認できた。ほぼ間違いないと判断する。一年生にこの顔の生徒がいたはずだ。
「VS-Driveも抜き取られていまして……身元がさっぱりだったんです。助かりました」
他校の風紀委員の一人が言った。この生徒を発見した者のようで、少し安心したような笑みを浮かべる。
〈方舟〉の学生の持つタッチパネル式携帯端末VS-Drive。
この人工島において、通話やインターネットという情報インフラから、様々な行為の申請を行い、また〈方舟〉独自の電子貨幣SPの管理などを行う万能なモノ。
先駆者たちの必須アイテムだ。
「しかし、VS-Driveを盗んだところで何ができるのでしょうか。SPも使えませんし、電源を切っても、APS(Arc Positioning System)で居場所もすぐにわかりますが」
「そうだな。確かに、持っていても不要なものだ。君の言う通り不利になることの方が多い。だが、こちらの情報を撹乱することができる。一応、居場所も確認するべきだとは思うが、それは囮に使われる可能性が高い」
VS-Driveは防水性でもあるが、池の真ん中などに捨てられていたり、路地裏に放置でもされてしまえばこちらが無駄足を踏むことになってしまう。
静志がそう言ったところで、件の風紀委員は首を傾げた。
「……荒砥委員長、まるでそれは」
静志は頷いた。君の予想は正しいと。
生徒が暴れる事件というのは、毎日のようにある。能力を使えたとしても、うまく扱えない者はこの〈方舟〉の中では上手く生きていくことができない。独自電子貨幣SPを稼ぐためには、他生徒との戦闘行為を行って勝つ必要があるからだ。
もちろん、最低限の支給はなされるものの、雀の涙程度である。
ゆえに、真っ当に戦って勝てない者の中には非行に走る者もいる。それはある意味で当然である。わだかまりのぶつけ先が存在しないことだってあるし、異能という絶対の差異がある以上、格差というのはなかなか埋まることはないのだから。
だからこの生徒についても、ありがちな事件ということで処理をなされるはずなのだ。
しかし、それに待ったをかけたのが静志である。
「これは根深い事件だ」
VS-Driveを盗むこともそうであるし、この生徒が深夜に「暴れていた」こともである。
聖ヴァルドル学院は純潔・冷徹・高貴を校訓としている学校であり、リーグ四位の有名校である。この〈方舟〉の前を走るひとつと考えて過言でもない。
身なりも育ちも良い者が多いため、非行のしない生徒はいない、とまでは言わないにしても、その背景にはよほどのことがあったのだということが伺える。
それに、どこか違和感があった。ただごとではない、という直感があった。
普段はそうした曖昧なもので判断することはない静志であったが、このときばかりは違った。裏に何者かの意思を感じている。
明らかに、自分が追われる者であるという自覚を強く持っている。
「確か、最近になって似たことが数件報告されていたような」
記憶力があるのか、他校の風紀委員の一人がそう言った。
静志はそちらへと向いて言う。
「すぐに洗い出してもらえないか。ここ二週間だけで構わない。俺からSPも融通しよう」
「は、はい! いますぐに!」
「それ以外の生徒は、申し訳ないがこの子を病院まで連れて行ってくれないか。取り調べはその後で構わない」
「委員長はどちらへ?」
そう問われて、彼は何も言わなかった。
ただ、少しだけ気になることがある。
「しばらく、辺りを見て回るさ」
そう言って、その場を任せてあとにする。
静志は大通りに出て、その惨状を見た。アスファルトは剥がれ、ビルの壁には大きなヒビが入っている。信号機はひしゃげて転がっており、あちこちで火花が散っている。
先駆者たちの能力が制御を失うか、故意に破壊へと向けてしまえばどのようになってしまうのか。その危険性を示してしまうことになった。
精神的に未熟な者に、最高の凶器を与えてしまっている。〈方舟〉が監獄だと揶揄される要因のひとつだ。
静志は胸を痛めた。
これは悲しみなどではない。
ただ胸に刻んだから、その痛みがあっただけだ。
荒砥静志。聖ヴァルドル学院、風紀委員長。数多の異名の中に〈聖騎士〉を背負っている。
けれども、その背には。
自由を願う翼が描かれていた。