<僕の行き先>
なぜかその日から、父は文句を言わなくなった。
母にも優しくなったみたいだ。
しかし相変わらず酒豪の癖は抜けず、毎晩、酔って帰って来る。
どうやら、酔っていると、息子から面白い話が聞けると思っているらしかった。
それもそのはずで、僕は、父がしらふのときには決して二歳半以上の子供にはならなかった。酩酊していれば、眼の前で起こっていることが、現実か、夢か、判断があやふやになるだろうから。
父は、その不思議な時間を楽しんでいるようだったし、僕にとっても、いたって楽な、本当の意味で、普通の時間を過ごすことができる時だった。
どのくらい、そのような日々が過ぎていっただろうか?
僕はまだ、三歳の誕生日を迎えていなかったので、半年は経っていない。
だいたい、いまの今まで気づかれないでいたのが、おかしな話だった。父と息子のひそひそ声は、確かに母の耳にも達していたはずだ。
その一瞬を衝いて、襖がさっと開けられ、向かいの部屋の明かりの中に、母が茫然と立っていた。
「天国にもっていけるのは心に刻まれた愛、だけなんだよ」
というような話を、僕がしていた時だった。
母の形相は、不信と驚嘆が入り混じって、険しく怒っているようにさえ見えた。
怖い、と思ったその心は、子供の僕だった。
「ま、まさひこ?」
母は、恐るおそる、自分の息子の名を呼んだ。
「はい」
僕は、優等生らしく、はきはきとした返事をしてみせた。
「本当に、まさひこなの?」
「そうですよ、お母さん」
僕は軽率に、調子に乗った。
「まあ、なんていい子なんでしょう」
そう言って、母は僕を抱き締めた。
この人たちを幸せにしなければならない。
僕はふとそう思った。
母は初め、訳が分からず、僕を病院に連れて行ったリしたが、どこにも異常がないと分かると、今度は、僕の偉才に深い関心を抱きはじめ、その程度を確かめようと、様々な試みをさせた。
僕としては、それほど大した事とも思っていなかったので、面白さも手伝って、提示されるままに挑戦してみた。
いろいろ理解できるのは、どうやら生まれてくる前の記憶が残っているせいらしい。母が図書館から借りてきた本にそう書いてあった。
しかし、こんなことがあっていいのだろうか?人は、その誕生の時に、全ての記憶を失う規則になっているのに。
プラトンの本にそうあった。
なぜ、このような手違いが起きてしまったのだろう?
僕は、疑問と不安を感じながらも成すがままにされ、人におだてられ尊敬されることに、満足感と優越感を感じていた。
僕は、家族の思惑通り、テレビや雑誌に取り沙汰され、一躍、有名天才児となった。
家には、多くの訪問客が溢れ、大学教授や研究者、あれやこれやの専門家たち、怪しげな秘密組織の使いまでやって来た。
僕たちは、大きな屋敷を高級住宅街で手に入れ、そこへ移り住んだ。父は、仕事を辞めるようなことはなかったが、多くの時間を母と一緒に過ごし、僕のマネージャーとして忙しく動き回っていた。
芸能事務所からもお誘いがきた。
「さあ、では、まさひこくんに、この方程式を解いてもらいましょう」
「すごいですねえ。もののみごとに正解です。おかあさん、どうやって教育なさったんですか?」
「さあ、まさひこくん、もうひとつ問題を解いて、みんなをびっくりさせちゃおうか」
「写真とりますから、こちらを向いて、笑ってください」
「下向かないで、そうそう。ああ、そう、その哲学書、かかえてくれません?」
初めは物珍しくて、この奇妙な仕事を楽しんでいた僕だったが、飽きてくるのも意外に早かった。
自分は努力せずともたいていのことはできるし、考える事といえば、記憶をほじくり返すだけ。
未来人ではないので、ちょっとばかり難しかったり新しいこともあるけど、少し考えればなんてことはない。
何とは無しに味気ない、無気力を感じる日々。
気がつくと、僕はいつも溜め息をついていた。
溜め息ばかりつく、老成した、おかしな子供になってしまった。
両親は、生活が裕福になっていたく喜んでいるようだったが、僕の眼から見れば、本当の幸せを忘れているようにも見えた。
だが、世間はそうは思わないし、放ってもおかない。
上流階級の仲間入りをさせ、服装も持ち物も高級ブランドを要求された僕たち家族は、ついこの前まで飲んだくれのしょぼくれオヤジのいた家庭には見えない。
おまけに息子は神童というのだから完ぺきだ。
なにをもって完ぺきと言うのかは、謎だが。
見事というほど人も羨む今や超一流の大スター家族になった僕たち一家の生活に、徐々に徐々に、無関心と倦怠の黒雲が立ち込めはじめたのは、それほど後のことではなかった。
僕の意識は目覚めているのに自分の人生に不安を感じていたし、また両親も同様に、これから僕をどの様に育てていったらよいのか、分からずにいた。
「この子が、普通の子だったら」
母が、そう言って泣いていた。
「僕がいけなかったんだ。あのとき、もっと冷静になっていたら、……、おまえへの感謝を忘れなかったら……」
父も、涙をこぼしている。
「わたしも、同じです。あなたを愛し続けていたら、あなたはあんなに荒れることはなかったでしょうに」
母は今はじめて、自分の気持ちがいっときでも夫から離れてしまっていたことを告白した。
「ありがとう」
と、夫が言った。
「ありがとうございます」
と、妻が言った。
僕は、気が抜けてしまった。
特殊な才能を持って生まれることができた僕が、これ以上、何の役にも立てないというのだろうか。
僕の存在が、彼らを悲しませるのだとしたら……。
僕は、存在の意欲をなくしていた。
一体全体、誰の手違いなんだ。
レイテの泉を通らなかったのか?
こんな大人の意識なんかいらない。
教えてください。僕はどう生きていけばいいのですか?
問いかけても、誰も答えてくれない。
子供の頃(といっても、まだ子供だが、もっと幼かった頃)、いつも見えていた天使たちが、もう見えなくなっていた。
僕はもう、乳幼児にも戻れないし、かといって青年にもなれない。なんと中途半端なこの肉体であろうか。
僕にとって肉体は、やはり窮屈な代物だ。
記憶を失わずに生まれることができたらどんなにいいだろう、今知っていることを、こんど生まれ変わってくる時にも覚えていたい。
恐らく誰もが抱く、とっておきの願望だろう。
自分の好きだった誰かのことを次の世でもまた思い出したいと、人は思うかもしれない。
大人の意識なら学校のテストなんか朝めし前、かな。
だが、僕を見たまえ。
自分の愛する人々を巻き込んで、悲哀と途方に暮れている。
僕は、ひとり、他人と違う。
自分で望んだのかどうかは覚えていないが、まあ望んだとして、偶然なのか必然なのか、叶えられた。
いや、罰ゲームの可能性だってある。
今の僕にとって、人生は何も意味しない。
ふつうの成人の意識だし、しかも、自分がどんな才能を持っているかも分かっているし、どの様な人生を歩むことになるのか大方の予測もついてしまう。両親だって、育て甲斐がないだろう。
どんな子に育つのか、あるいは、自分がどんな人間になるのか、その成長を楽しみながら生きてゆくのが、ときに試練があっても、愛と希望のパラダイスなんだ。
それなのに、僕は……。
僕は、日々を過ごすうち、どんどん存在の意味も意欲もなくしていった。
父と母は、不安と嫌悪を感じながらも、今の生活を続ける以外、別の選択はなかった。
メディアの前では、愛想良く振る舞い、いかにも穏やかなパパとママを演じていた。
息子の神童振りを、高らかに自慢していたが、いったん世間の目を離れると、息子を厄介物扱いした。
僕は、嫌だった。嫌だったけど仕方がなかった。
僕は悲しかった。悲しかったけど仕方がなかった。
両親は、益々、僕を忌み嫌ってゆく。まるで、化け物でも見るように、僕を扱う。
僕はあなたたちの子供でいてはいけないのですか?
僕は、表へ遊びに出た。四歳の誕生日。
ちょこちょこと門から通りへ出る。
と、車が、勢いよく、突進して来た。
「まさひこぉ~!!」
前庭で、母の悲鳴がした。
家の中から、父も飛び出して来た。
「まさひこ、まさひこっ!」
母は、半狂乱だ。
僕は、肉体を抜け出していた。
僕の小さなかわいい肉体は、打ちつけられ、傷ついて、道端に横たわっていた。
車は、どこかへ走り去ってしまった。
「まさひこ」
母が、僕の身体を抱きかかえ、泣き叫んでいる。
「まさひこ、ごめんなさい。ママが不注意だったの」
「がんばるんだぞ、まさひこ。パパがついてるぞ」
救急車の中で、両親が僕の肉体を見つめていた。
透明な僕は、その傍らにちょこんと浮いて、みんなの様子を眺めていた。
「二人とも、僕が嫌いだったのではないですか?」
僕は、取り乱しながらも思いやり深い肉親の情を感じて、不覚にも感動してしまった。
ふと見ると、あの天使たちが、幼い頃、母の肩ごしに僕を見つめていた天使たちが、救急車の低い天井の辺りに飛んでいた。窮屈なのに、窮屈そうな表情ひとつ見せず、ゆったりとした様子で、羽根を動かしている。
「きちんと生きてゆくのです。記憶はなくしてあげます」
天使たちは、ただ微笑んでいるだけだったが、そう言っているように感じた。
けれども僕は、もう肉体に戻リたいとは思わなかった。
最後に、この人たち、つまり両親が、僕を愛してくれていたということを知ることができたので、喜びと感謝を忘れずに死んでいけるのが大きな安堵だった。
肉体を脱した僕は、軽やかで、不思議な幸せに包まれていた。
病院へ着き、手術室で外科医が必死の手当てをしてくれた。熟練された医師の指先と、メスやハサミや糸が、不要になった僕の肉体を繕ってゆく。
僕は手術室の天井の、ライトの辺りに浮いていた。
そして、ときどき廊下へ行き、両親の様子を窺った。
二人は、廊下に設えられた長椅子に座って気を揉んでいた。
ドラマで観たことのあるシーンだ。
僕の心臓は、止まりかけていた。
外科医は、残念そうに眉を顰めた。
「さようなら」
僕は、両親のそばに降り立ち、二人に別れの挨拶をした。
「神様、もしいらっしゃるなら、あの子をお助けください。きっといい子に育てます」
母は、涙を流し、諦めの気持ちを一抹の希望で包み込んでいた。
父は、そんな母の肩を優しく抱き、そして力強く何度も叩いていた。
長い手術だった。
……、どのくらいの時間が過ぎ去っただろうか。
医師も看護師たちも、そして両親も力尽きていた。
「さようなら。ありがとう」
もういちど僕は、誰も聞いてはいなかったが、別れを告げた。
「真彦が、こんな事を言ってたよ。天国にもっていけるのは心のなかに刻まれた愛だけだ、って」
唐突に、そして静かに、父が、そう言った。
「心のなかの愛だけ?じゃあ心は愛は残ってるのね?……そ、そう。……、わたしたちも、その言葉を大切にして、これから生きていきましょうね」
と母が、泣きながら言った。
「そうだな」
父と母は、幸せそうだ。
その時ふっと、真彦の透明な身体が揺れ動き、解放感で膨張していた身体が、きゅっと締まりの良い身体付きに変化していった。
ちょうど、感動に胸を締めつけられでもしたかのように。
手術室の扉の上の指示ランプが消え、中から医師が出てきた。
「手術は、……成功です。おめでとう」
両親は、泣き崩れ、何度も何度も医師に感謝の言葉を叫んだ。
「ありがとう」
どこかで、喜びの声が合唱していた。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
りさこワールド、ご堪能いただけましたでしょうか?
次回作品は来年1月の第3週を予定しております。
お楽しみに!
よろしくお願いいたします。