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  作者: 路寄りさこ
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<僕の誕生>

 肉体は、いうことをきかず、焦れったい。


 泣きわめいて意志を伝達する以外に、方法はない。


 この、ずんぐりむっくりとした手足にまん丸い肉のかたまり、何とも情けない気がする。


 僕の身体は、小さかった。

 なんというか……、うん、……そう、そうなんだ。とにかく、とにかく、小さいのだ。

まるで、小瓶の中にむりやり閉じ込められた大きなスポンジか何かのようで、外へ大きく広がりたいのに、蓋を閉められていて身動きが取れない。

 この小瓶が、いわゆる世間、社会、しがらみ、この世、といったものなのだろう。


 僕は、知っていた。

 あのことも、このことも……。

 昨日アメリカで何があったか。

 ベルリンの壁がどうなったか。

 株や円の動きがどんな具合か。

 いつ人類が月に到達し、何十年前に世界大戦が終わったか。

 一昨日、どこかで起きた大地震のことも。火山の噴火も。

 昨日落とされた爆弾のことも。


 すぐそこのガードレールに、どこぞの医大生が買ってもらったばかりのピカピカのポルシェをぶつけたのも。

 お隣の春枝さんが明日お嫁に行くってお父さんが淋しがっていることも、

 僕は知っていた。


 あっちもこっちも大忙しで、僕の興味は千客万来の楽しい日々、ではある。


 例えばもっと面白い話をするなら、エジプトの華やかなりし王朝時代。

 優美で優雅、かつ知的思索的古代ギリシャの文明文化。

 数々の巨匠がその腕を競い合った、イタリアルネサンス。

 もっとさかのぼって、謎の大陸アトランティス、ムー大陸の栄枯盛衰。…………。


 僕の記憶のなかには、見事なスクリーンに大写しとなって、色鮮やかなめくるめく物語が、郷愁の香りを漂わせながらはっきりと留まっている。

 

 ねえ、ちょっと、誰か、助けてくれないかなあ。

 ここから出してくれないかな?


 ……おっと、まずい。言葉を話すわけにはいかない。

 僕はまだ生まれたばかり。れっきとした幼児、である。

 流暢な日本語が僕の口をついて飛び出てきたら、両親は驚いてしまうだろう。異常なわが子に、悲しむだろう。

 人を無闇に驚かしたり、悲しませたりするのはいけないことだ。

 無病息災、平安無事、太平天国。

 人は、何事もないのを良しとする。何事もないのを幸せとして、何事もないのにしがみついて、空の箱を後生大事に抱えている。

 だから何もしない。とんでもないことに巻き込まれないようにしている。

 その一方で、退屈する。

 だから偶然何かがやって来るのを怠惰に待っている。


 もしかしたら、ゼロ歳というこの時期に、僕がごく普通の大人たちのように喋り始めたなら……、

 これはあくまでも推測だが、

 ……両親は、ひどく喜ぶかもしれない。

 なぜって?

 僕の両親も、例に漏れず、偶然の頂戴物をあわよくばと期待しているに違いないからだ。そうだとしたら、びっくりさせるのも親孝行というものではないか。


 両親は、僕を色々な人に引き合わせ、どんなに素晴らしく珍しいかを見せて回るだろう。そしてその度に、僕は、あー、とか、うん、とか

「我思う故に我あり」とか

「人はパンのみにて生くるものにあらず」とか

「知識は力なり」とか

「万物は流転する」とか

「こんにちわ」とか「こんばんわ」とか

「僕は本橋真彦です」

「おばちゃん大好き」

 などと、延々と言い続けなければならないだろう。


 ついに僕、真彦は、天才児としてメディアデビューを飾り、本橋家は、一躍、大スターを抱える億万長者にのし上がる。

 家には、取材をしようとあの手この手を使うマスコミと野次馬たちが押し寄せ、家族は鼻高になり、隣人たちはちやほや持て囃すが陰では誹り、笑顔を見せながら迷惑と嫉妬を裏腹に持つ。

 父は、会社にまで押し寄せて来る騒がしい好奇の目のおかげで仕事にならず、その迷惑がっている父が、逆に同僚や上司から迷惑がられ、会社を辞める。

 そして、お金は真彦が稼いでくれるからと、都内に大きな土地を買って豪邸を建て、一家で移り住む。

 親類たちは、その幸運にあやかろうと、度々本橋家を訪れるに違いない。彼らは、なめるように真彦を誉めそやし、あやす。

 自分の子供を真彦の横に連れて来て、仲良くしてね、と猫撫で声で言う。

 そして帰宅すると、我が子をつくづくと眺め、その凡庸さと薄汚い顔に腹を立てて、身勝手な悪態をつく。自分が何者かを思い出そうともせず。


 さらに本橋家は事業を起こし、羽振り良く振る舞ってゆくだろう。降って湧いた幸運だったにもかかわらず、いつの間にか父も母も、自らの手柄のように思い過ごしてしまう。

 だが、僕がやがて成長し、世間で大して話題にもしなくなると、実入りが悪くなり、行き詰まり、倒産し、家を売る。そして、僕は家を出る……。


 ……と憶測すると、親孝行も考えもので、自分の体力を計算に入れるとどうも持ちこたえられそうもなく、家を出る所まで命が続くかどうかも保証の限りではないので、いい子になって、おとなしくしていることに決めた。


 肉体とは、なんだかんだ言ってありがたい。意思表示が容易にできるのが良い。

 幽霊状態では、ほとんど誰もその存在に気づいてはくれない。何か重大事を知らせようとして肩を叩いても、全く無視しているのだから、人間ってやつはなんと鈍感な生き物なのだろう、と幽霊たちは思っているに違いない。

 ときどき敏感に何かを感じても、それをただの錯覚と思い、あるいは思い込もうとし、何もなかったかのように平然と生活し、善も悪も分からないまま道を歩んでゆく。


 僕には良く見える。

 綺麗な羽根をゆっくり静かに動かしている天使たちが、僕の上を飛び回り、微笑みかけてくる。地上に肉体を持ったばかりの僕を、心配して見守ってくれているのだ。

 彼らには見えないのだろう。この、心安らぐ美しい存在たちが。

 見せてあげたい。


 母が、おむつを替えてくれた。

 僕は、小さな手足をばたつかせ、一生懸命な笑顔をつくって、母に信号を送った。母なら分かってくれるような気がした。

 何しろ、僕をその体内に宿してくれたその人、なのだから。

 僕を、こんなにも優しい愛で包んでくれる、申し訳ないくらいに繊細で可憐な愛情を注いでくれる、まだ少女のようなういういしい女性なのだ。

 僕は、もっと激しく手足を動かした。

 喉の奥から笑い声を出し、天井を見つめた。

「あら、まあ。どうしたんでしょう。いいこねえ。なにがそんなにうれしいの?」

 そう言いながら母は、僕を抱き上げ、嬉しそうに頬をすり寄せた。母の頬は僕よりも冷たかったので、一瞬ひやりと感じたが、とても優しい気持ちが伝わってきた。

「さあ、ねんねしましょうねえ」

 母のそばにも、天使がいた。肩ごしに僕の顔を覗き、微笑んで頷いた。

 僕は、再び声を出して笑った。

小さな握り拳で母の胸を叩いた。

「まあ、元気のいいこと」

 母は僕をベビーベッドに降ろし、寝かしつけようと、子守唄を歌ってくれた。とても綺麗な声で、ついうとうととしてしまう。

 天使たちも、一緒に合唱してくれているようだ。



 僕は、びっくりして目を覚ました。

 小さな心臓が、どくどくと鳴った。

「おい、酒、飲ませろ」

 父が帰って来たのだ。

「じゅうぶん飲んでるのに」

 母が、たしなめた。

「うるさい、亭主のいうことがきけないってのか?」

 確かに、父は十分過ぎるほどに酔っている。

「あなた」

 母の弱々しい声が、妙に淋しく、僕の胸を衝いた。安普請のアパートで、しかも深夜。母は近隣に気を遣う。


 父は最近、酒の量が増えた。世間ではよくありがちなことらしいが、僕にとっては迷惑な話である。

 せっかく気持ちの良い眠りについていたというのに、突然、天使の羽根も飛び散るほどに、強烈な雷鳴が降って来るのだからたまらない。

 その上、

「おおー、まさひこ、げんきだったかあ?」

 と言って、酒のにおいを近づけてくる。

 僕は、声を振り絞って泣き叫んだ。

 すると、

「なんだ、こいつ。パパが帰って来たんだぞぉ」

 と言って、息巻いたかと思うと、

「おまえまで、オレをばかにするのか」

 と、淋しそうに僕の頭を大きな手で撫でる。

 本当は良い人なのに……、と僕も淋しくなる。


 毎晩毎晩、父は酔っぱらって帰宅した。

 そして、僕が寝ているそばへ寄って来て、ぶつぶつと語りかけるのが日課となった。

 僕は、寝息をたてながら、黙ってただ聞いていた。

 母は、隣の部屋で、一日の後片付けをし、繕いものをし、アイロン掛けをし、テレビを見たり、本を読んだり、音楽を聴いたりしていた。

 夫に当たり散らされるのからすれば、僕のおかげで、ずっと平和で心落ち着く夜が続いたはずだ。

 僕は、父の愚痴を聞かされるのはあまり嬉しくはなかったのだが、母がそれで落ち着くなら、嬉しかった。


 そしてやがて、僕はベビーベッドやガラガラから解放され、ようやく一人前に畳に布団を敷いて眠るようになった。夜でも、自由に起きたり、動いたりできる。

 父は相変わらず、帰宅すると僕の所へやって来て、酒のにおいを嗅がせた。

 いつごろからだろう。母は夜になると、誰かと長電話をするようになった。父の声から耳を背けたかったのかもしれない。

 母の声は、いかにも楽し気で、若々しく艶があった。

 電話の向こう側の声の主を、僕はちょっと疑ってみたが、父は全くそしらぬ様子だった。


 そして、……。

 僕は、ひたすら待った。

 ……その機会を、ひたすら窺っていた。


 二つと半年の歳、いよいよその時は来た。

 胸がわくわくした。

 僕には、そのことが良いことなのか悪いことなのかは分からなかったが、その衝動を抑えるのは、もう困難の極みであった。

 もちろん僕は、普通の子供たちと同じように、ごく普通に成長し、歳相応の言葉を発するようになっていた。とはいえ、力を落として喋るのはけっこう面倒で、ときどきぼろを出して、つまり流暢に喋って、みんなを驚かせて失敗したりしていた。



 枕元に座って僕に話しかけている父の様子を窺おうと、母が襖を開けるようなことは決してないのを、僕は知っていた。


 その日、父はひどく酔っていた。

 僕にとっては好都合だった。

 僕は、父が酩酊しているときにのみ、その事を実行しようと心に決めていた。


「かえったぞぉ、なあ、まさひこ。今日はどうだ?おもしろかったか?」

 父は、酒に強い体質なのか、ろれつが回らないとはいえ、ちゃんと口をきいていた。

 いつもそうなのだが、意識がないようでいて自分で話したことは覚えているらしく、翌日に続きを話すこともあった。


「まさひこ、なあ。オレは、くやしいよ。こんなにいっしょうけんめい、会社のためにつくしてさ、いろいろ言われちゃぁなぁ。たまんないよ。わかるだろう?なっ?……なんだってんだ、左遷するならしてみろって、……ぜーんぶぶちまけてやるぞぉ……そうだよな、まさひこ」

 父は、赤ら顔を手のひらで擦り、大きな溜め息をつき、酒の余韻を僕に吹きかけた。

 僕はいま少し、黙っていた。

「まさひこ、なあ。世の中、金だよ、金。金さえありゃあ、何だってできるんだ」

 父は、力を込めてそう言った。

「まさひこ、おまえはかわいそうなやつだ。オレといたって、いい思いはできないんだぞ」

 僕は、この言葉が母に向けられているような気がして、情けなく思った。

 そして、僕の衝動は、もう喉のすぐそこまで、舌の付け根まで到達して、口蓋をくすぐっていた。

「地獄の沙汰も金しだいってな、むかしっから言うんだよ、な。まさひこ、たのむ、おまえがオレを助けてくれ、な」


「お父さん。それは、違うよ」

 僕は布団をはぎ、薄暗がりでむっくりと上半身を起こした。

「違いますよ。間違ってます」

 父は、酔っているせいかそれほどびっくりした様子ではなかったが、それでも何事かと眼をきょろきょろさせて僕を眺め見ていた。

「お、おまえが、オレを助けるんだよ。パーッとな」

 父は、僕の小さな肩を両手でつかみ、激しく揺さぶった。

「お金が全てじゃないでしょう」

 と、僕は揺すぶられながら震える声で言った。

「……」

 父は、何も言わずに手を離した。

 そして、畳のうえであぐらをかき、ぼさぼさの髪を掻きむしった。

「もっと大事なものを見ませんか?」

「大事なもの?」

 父は酩酊のなかで、とても真面目に質問した。

「たとえば、お母さん。つまり、あなたの妻、です」

 あなたの妻なんて言い方は、ちょっとこの姿には似合わなかったかな。

 小さな小さな、たった二歳半の幼児だ。

 ヒーローキャラ模様のパジャマを着て、布団の上にちょこんと座っている小さな僕が、いい大人に向かって説教している。

「あいつかあ」

 父親は、ぽつりと言った。

「あいつ、なんて。お母さんは、これまで、どれほどお父さん、あなたのことを心配してきたと思ってるの?」

「オレと一緒にならなきゃよかった、そう思ってんだよ、あいつは」

「大切な人でしょう?」

「どうだか」

「愛し合って結婚した。それで、僕がいる」

「ああ、そうだったかもしれないなあ」

「思い出した?」

「ああ、思い出し…おまえ……誰だ?おばけか?」

 そう言うと父は、その場にひっくり返って寝入ってしまった。ほどなくして、いびきが狭い部屋にとどろいた。

「あなた」

 母が、その豪快ないびきを聞きつけて、襖を開けた。

 僕は大急ぎで布団へ潜った。

 母は僕の寝乱れた布団を直し、僕はその布団の中で、少しばかり弾んでいる息遣いを悟られはしまいかと、気をもんでいた。


読んでいただいてありがとうございます。

2話に分けてお届けします。

りさこワールドをご堪能くださいませ。

次回は12月9日ごろを予定しております。

お待ちください。

よろしくお願いいたします。

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