第八話
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足場の見えない広大な空間。まるで星のない夜空の中にいるような現実味のない光景が目の前に広がっていた。
一歩足を踏み出してみる。音はせず、足元の感覚もなにもない。いいようのない不安と寂しさが夏樹の胸にこみ上げる。
「ぼくはずっと不安だった。君ならいつかこの選択をしてしまうんじゃないかって」
不意に後ろで声がした。夏樹が振り返った先、十メートルほど離れた空間に巨大で真っ黒い影があった。
抑えてはいるが空気を震わせるほどに重厚な低い声。だが夏樹にはその口調に覚えがあった。
「マモ――そこにいるの?」
「来ちゃだめだ!」
呼びなれた名を呟き、影に向かって歩き出そうとした夏樹を獣の咆哮を思わせる声が制した。
「君にはこの姿を見られたくない。――君の前ではずっとあの姿のままでいたかった」
猫がのどを鳴らすのに似た唸り声が響く。夏樹にはそれが子供のすすり泣く声に聞こえた。
「どんな姿でもマモはマモだよ。私のわがままでマモにも迷惑かけたんだね。ごめんね」
夏樹が顔を上げる。小山のような影の頂点付近に三つの赤い大きな光が爛と輝いていた。その光が左右に振れ、赤い閃光を闇に引く。
「僕との間に交わされた契約は破棄された。君から奪った記憶はすべて戻っているはずだ。ぼくと最初にあった日のことを思い出せるかい?」
「ええ。小学生の頃、交通事故で入院していた私の夢に出てきたよね」
「君は両親をささげた自分のことを悪魔と蔑んだ。だけどそれは違う。君に両親の命をささげさせたのはぼくだ。君の本当の願いはぼくとの契約じゃなかったんだ」
マモが声と体を震わせる。
「死の淵にいた君は契約を持ち掛けたぼくに対してこう望んだ。願いがかなうなら自分の命を使ってほしいと。そしてお父さんとお母さんを昔のように仲良くさせてあげてほしいと」
夏樹は無言でうなずく。
飲酒運転のトラックにはねられた自分は病院のベッドで生死の境をさまよっていた。その時父と母はつきっきりで側にいてくれた。
この子が快復したらもう一度やり直そう――そんな会話が朦朧とした意識の中で聞こえた時は本当に嬉しかった。それまで父と母の不仲に誰よりも胸を痛めていたのは夏樹だった。
「ぼくは数えきれないほどの人間にあってきた。誰もがぼくの誘いを受け、ためらうことなく愛する者の命をぼくにささげた。だけどそれはけして邪悪な行いではない。自分の命を慈しむことは生命の本質なんだ。むしろその本質に漬け込むぼくたち悪魔が薄汚いだけなんだ」
「マモ、もういいんだよ。それ以上言わなくてもわかってる」
三つの光がさっきよりも大きく振られる。夏樹は促さずに、マモが話すのを静かに待った。
「ぼくは君に全てを告げる必要がある。間近に迫る死を理解してなお他者を想う。そんな君の心に惹かれた。そしてぼくは思ったんだ。君を幸せにしてあげたい、生きてぼくと一緒にいてほしいと。だから、ぼくは嘘をついた」
「マモ――」
「捧げると呟けば両親の仲を想う君の願いを聞き届けると。ぼくにそんな力はない。ぼくとの契約で得られる力は君が知っているものがすべてで、例外なんてない。にもかかわらず僕は嘘をついて君に捧げさせた。君が何より想っていた二人の命を。――それだけじゃない、両親に関する思い出も、過去に君が絆を結んだ人間との思い出までもぼくはその時君から奪い去ったんだ」
マモは巨体を揺らしてすすり泣いた。三つの赤い光からキラキラと輝く結晶がこぼれ落ち、夏希の足元で砕け散る。
「マモ、今なら私もあなたの気持ちがわかる。だから私も春菜を助けたいと思ったんだから」
夏樹は両手を広げてマモの側まで歩み寄り、真っ黒な体毛で覆われた体にそっと抱きついた。マモは一瞬体をこわばらせたが、夏樹は構わずマモの体に顔を埋めた。
「ありがとう。マモは誰より私のことを想ってくれてたんだね、私の幸せをなにより願ってくれてたんだね」
「許してくれなんて言えない。ぼくは君に対してずっと嘘を抱えてきた。だけど本当に――本当に君に幸せになって欲しかった」
マモは巨大な毛玉のような手を夏樹の背に回し、優しく夏樹の体を引き離した。
「そろそろお別れだ。君はずっと遠くに見えるあの光に向かって進めばいい。僕にできる最後の助言だ」
マモの視線の先を追うと、たしかに星に似た小さな光がまたたいていた。
「待って、私はこれから自分がどうなるかなんとなく理解できる。だけど不安なの。本当にうまくやれるかな? あの子を――守ってあげられるかな?」
「心配しなくていい。君はきっと僕なんかよりうまくやれるさ。かつて人間だったぼくが保証するよ。ただし、契約を結ぶときに嘘をついてはいけない。僕みたいに消えたくなければね」
「消える? 消えるってどういうこと?」
「悪魔にとって契約は存在をかけた盟約だ。ぼくはその掟を破った。君との契約が終わったあと、僕は悪魔として存在することすらできず完全に無に帰る。最初からそのつもりだったんだ」
「そんな! どうしてそこまでして私を?」
「君が気に病むことじゃない。ぼくは悪魔としての自分自身にずっと疑問を感じていた。だから探していたのかもしれない、自分の存在をかけるに足る何かを」
夏樹はマモの体が消えかかっていることに気づいた。涙が頬を伝わる。
「マモ――ありがとう。私はすごく幸せだったよ」
三つの赤い目が光を放ち、夏樹の目の前で小さな像を浮かび上がらせる。
いつも一緒だった小さな友人――黒い道化服を着た小人が笑顔を浮かべ、夏樹の涙をそっと拭った。
「さようなら。君といた時間は、ぼくの永い時の中でなにより光を与えてくれた――」
その言葉を最後に小さな友人の姿がかき消える。顔を上げるとそこには闇だけがただどこまでも広がっていた。
「ありがとう、マモ。最後まで――本当にありがとう」