第七話
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「黒澤様。それでは当銀行にお預け頂いている預金残高を指定額のみ残し、すべて難民救助の慈善団体へと寄付させていただきますが、本当によろしいですか?」
銀行の応接テーブルで向かい側に座った初老の役員が、伺いを立てるように上目遣いで夏樹を見た。
「はい。お願いします」
夏樹がうなずくと、役員は何も詮索することなく書類を何枚か差し出し、記入を求めた。それらに記入と捺印を済ませると、全てに目を通した役員は承りました、と言って書類をまとめた。
夏樹が豪奢なソファーから立ち上がる。役員の男性も立ち上がり、夏樹に対して深々と頭を下げた。それに対し夏樹も会釈を返し、銀行を後にした。
夏樹は預金残高が五百万円以上あることを自分でも知らなかった。夏樹は宝くじやロトを買えばそれだけで希望するだけの金を得ることができたため、残金など気にしたことすらなかった。
さすがに全額処理してしまうと今月分の家賃や光熱費等の支払いを残すことになる。意味があるかは分からないが最低限それらが間に合う程度には残してある。
夏樹は次に全国にチェーン展開している大手デパートへと向かった。自動ドアが開き、入店した夏希に花束を持った女性店員と店長らしき恰幅のいい男性がベルを鳴らしながら夏希に近づいてくる。
「おめでとうございます。お客様が前回の創立記念日より数えて10万人目の来店者でございます。花束と記念品の贈呈をさせていただきます」
こう来たか――夏樹は思わず苦笑した。
目立つことを嫌う夏樹にとってはあまりありがたくない幸運の発露である。近頃夏樹にも制御が効かないほどに幸運が押し寄せてくるが、その理由はわかっている。
春菜の死期が近いのだ。
記念品は加盟店で使用可能な十万円分の商品券だった。花束はかさばるため丁重に断る。
エレベーターで五階へ上がり、アンティークショップを物色する。テディベアが並べられた棚の前で足を止め、色や大きさも様々な中から茶色くずんぐりとした体型のものを選んで、レジに座った店主らしき老人に声をかける。
いかにも好々爺といった感じの小柄な老人に、小さな子がいる家庭に贈っても大丈夫かと尋ねる。店主は穏やかな笑みをたたえたままうなずき、素材や製造過程についても細かな説明をしてくれた。
値札には結構な金額が記載されていたが、夏樹は構わずそのテディベアを買うことにした。
「あの、贈り物で指定した日に届けていただくことって出来ますか?」
「ええ、構いませんよ。それではこちらの用紙に日付と住所の記入をお願いします」
店主に差し出された用紙に必要事項を書き込む。事前に正確な住所を調べておいてよかった。夏樹は支払いを先ほどもらった商品券で済ませ、店主に礼を述べて店を出る。
お気に入りのイタリアンレストランで昼食を済ませ、地元の商店街を目的もなくただ歩いた。なんだかいつもと空気が違うような気がする。ただの休日の昼下がりだというのに。
バスに乗ることも考えたが、せっかくだから歩くことにした。通学路までたどり着いた時には足が棒のようになっていたが、不思議と心地よさを感じる。
春菜の家の前まで来たが立ち止まらずそのまま歩き続ける。目指していた場所にたどり着いた時には既に日が傾いていた。
ポケットから鍵を取り出し、かつて実家だった空き屋の扉を開けた。二階に上がり、突き当たりにある扉を開けて中に入った。かつて自分が捧げた両親が使っていた部屋へ。
「夏樹――もういいのかい?」
マモが部屋の壁際に立ち、夏樹を見上げる。夏希は大きく伸びをしてからうなずいた。
「ええ、始めましょ。だらだらするのは苦手だから」
「君はこれから自分がすることを理解してるの? 契約違反に課せられるペナルティは死よりもずっと重い。君は存在そのものがこの世から消える。誰の記憶にも残ることはない。――それでも意識だけは未来永劫、この世に留まり続けることになるんだよ?」
マモの口調は重々しかった。夏樹はそこで初めて自分が小刻みに体が震わせていることに気がついた。
「考え直す気はないのかい? あの子の魂の輝きはこれまでにないほど大きいものだ。彼女の死さえ乗り越えれば、きっと君はこれからの人生で一度も魔法を使わずとも人並以上の人生を謳歌できる。失ったものを埋めることも、きっとたやすいはずだ」
夏樹は右手で左腕を掴み、震えをこらえながらかぶりを振った。
「春菜がいなくなればあの家族はもう立ち直れなくなる。私が幸せになってあの子が犠牲になるなんて、そんなのは間違ってる」
夏樹は舌の震えを抑えるために大きく息を吸った。虚勢で固めた心があらわになっていくのがわかる。
「それにね、私思ったんだ。春菜と知り合ってから、なんだか知らないけどやけに人付き合いが増えたなって。私が心の底から人付き合いを煩わしく思っていたならこんなことにはならなかったはずでしょ? だって、私は運がいいんだから。だから結局これが私の性格なのよ。冷血ぶってたのも全部嘘、ただカッコつけてただけ」
夏樹の言葉をマモは何も言わずに聞いていた。自分を奮い立たせるために考えついたセリフだが、意外に的を射ているかもしれない。夏樹自身そう感じた。
「それに気づいちゃったら、もうこれまでみたいにはいかないよ。きっと私は後悔しながら生きていく。そんなの嫌」
夏樹はマモの側に歩み寄り、床に片膝をつけた。マモは悲しげに口元を歪め、夏樹を見上げる。
「ごめんね、マモにとっては迷惑な話だよね。だけど、もう決めたから――」
マモはゆっくりとかぶりを振ると、優しく微笑んで言った。
「君が謝る必要なんて何もない。ぼくは君の望みを叶えるためにいる」
「ありがとう。――最後に聞きたいんだけど、私がこの世から消えたら、今日私がしたことは全部なくなるのかな? ひなたに贈ったプレゼントも」
「君の行動によって産まれた結果は消えたりしない。ただその結果の過程を誰も認識できなくなるけど。あの子への贈り物はちゃんと届くよ」
それを聞いて少しだけ心が軽くなる気がした。独善的な考えかもしれないが、せめて納得だけはしていきたい。夏樹が両手を差し出すと、マモはそこにピョンと飛び乗った。
「お願い。あの子に――春菜にかけた魔法を解いてあげて。私はそのためならどんな罰も受け入れる」
マモはこくりと頷いた。次の瞬間小さなその体から光が溢れ出し、マモの姿は光の中にかき消えた。
「マモ?」
光が収まったあと、夏樹の足元から黒い霧のようなものが湧き上がった。
「マモ! どこに行ったの? 一人にしないで!」
抑え込んでいた恐怖がこみ上げ、夏樹は肩をかき抱く。マモの姿はどこにもなかった。
――大丈夫。僕は君のすぐ側にいる。
マモの声が頭に響く。それでも恐怖は消えなかった。
「お願い、最後まで一緒にいて! 一人は怖いの!!」
――君は一人じゃないよ。耳を澄ませて。
夏樹は顔を上げた。誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開かれる。
「なっちゃん!」
春菜が肩で息をつきながらそこに立っていた。
「春菜? どうして――」
「家の前をなっちゃんが通ったのを偶然見つけて、外で待ってたら急に光が見えて、それで私――」
春菜は声を震わせていた。暗い部屋の中は青い光で照らされ、夏樹の周りには黒い霧のようなものが絡みついている。異常としか言えないその状況を前にして、春菜は躊躇せず部屋に飛び込んで夏樹に手を差し伸べた。
体の震えは止まっていた。春菜を助けると決めた自分の決断に誇りが持てる。これから自分がどうなろうとも構わない――心の底からそう思えた。
春菜の手が届く寸前、夏樹の全身を黒い霧が覆い隠す。
春菜が自分の名を呼ぶ声がかすかに聞こえる。視界が闇に閉ざされ、夏樹の意識はそこで途切れた。