第四話
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春菜が低い生垣に囲まれた家屋の前で足を止めた。二階のない平屋で、今時珍しい造りと言える。
「ここだよ。どうぞ上がって」
春菜がポケットから取り出した鍵で玄関を開け、夏樹を振り向いた。
「――お邪魔します」
そう言って玄関を潜ろうとした夏樹は足を止め、ちらりと視線を隣にある建物に向けた。
トタンや鉄筋がむき出しになった小さな工場のようだが、現在では使われていないらしい。立ち入り禁止のチェーンがあちこちに巻かれ、不動産屋が立てたと思われる買い手募集のプレートが正面入り口にかけられている。
「なっちゃん、どうかした?」
春菜の呼びかけに気づき、夏樹は軽く首を振った。
「ううん、なんでもない」
カラカラと音を立てる引き戸を懐かしく感じながら玄関へと上がる。
「お姉ちゃんお帰りー。あれ?」
廊下の奥から走り出てきたのは、春菜をそのまま小さくしたような髪の長い女の子だった。小学生くらいだろうか。白いカチューシャがよく似合う。
「お姉ちゃんのお友達?」
大きな目を夏樹に向け、女の子は首をかしげる。
「そうだよー。あ、この子妹です」
「えっと、黒澤夏樹です。よろしくね」
夏樹は戸惑いながらも膝を折り、目線を女の子に合わせる。女の子は夏樹の顔をじっと見つめたまま何も言わなかった。照れているようにも見えず、夏樹は対応に困ってしまう。
「こら、ひなたどーしたの? なっちゃんにごあいさつ!」
春菜がたしなめるように言うと、ひなたと呼ばれた女の子はぺこりと頭を下げた。
「白石ひなたです。えっと――はじめまして」
顔を上げたひなたは愛らしい笑顔を浮かべていた。夏樹はほっとしてうなずく。
顔を上げると、廊下の向こうから小さな子供が歩いてくるのが見えた。両手を前に出してたどたどしい足取りで春菜に近づいていく。 二,三歳くらいの男の子だ。
「ねーたん。おかーりー」
「ただいまぁ裕樹! ねーたん帰ったよー。うい奴めーうりうり」
春菜は靴を蹴り飛ばすように脱ぎ捨て、満面の笑顔を浮かべて男の子――裕樹を抱き上げほおずりした。裕樹も嬉しそうに無邪気な笑い声をあげる。
それを見た夏樹は無意識のうちに口元をほころばせていた。
笑顔が漏れ出すなど何年ぶりのことだろう。ふと視線を下に向けると、ひなたにじっと見つめられているのに気づいて慌てて表情を引き締める。
「あ、ごめん! なっちゃんのことほったらかしだった」
よだれで顔中べたべたにした春菜が我に返ったように叫び、裕樹を床に下ろす。
「ひなた、お姉ちゃんなっちゃんおもてなしするからしばらく裕樹のこと頼むね。おやつ後で用意したげるから」
「それはいいけど――お姉ちゃん今日はずっと家にいられるんだよね?」
ひなたが春菜の顔をのぞき込む。春菜は大きくうなずいてひなたの頭を優しくなでた。
「うん、晩ごはんも私が作るから大丈夫。いつもごめんね」
「ううん。――裕樹いこ、絵本読んだげる」
ひなたは裕樹の手を引いて部屋へと戻っていった。どこか大人びたその横顔を見つめていた夏樹に春菜が呼び掛ける。
「なっちゃんお待たせ。こっちへどうぞ」
春菜は廊下の一番奥にあるドアを開け、夏樹を手招きした。中は八畳ほどの広さの和室で、ちゃぶ台が一つに学習机が二つ置かれている。
片方の学習机の椅子には赤いランドセルがかけられていたため、春菜とひなたの部屋だろうと容易に想像できる。
「今お茶入れてくるからちょっと待っててね」
鞄を机に置いた春菜は座布団をちゃぶ台のそばに一枚敷くと部屋を出ていった。
一人残された夏樹は部屋を何気なく見渡した。簡素で飾り気もないが、生活感に満ちたその空間に何故か心の奥がくすぐられるような感覚を覚える。
鞄を足元に置いて腰を下ろそうと屈んだ夏希の目に戸棚の上に置かれた写真立てが映り込んだ。何気なくその写真立てに興味が惹かれ、四つん這いの姿勢で戸棚まで移動する。
二人の女の子が手をつなぎ、眩しいほどの笑顔をこちらに向けていた。
――ひなた? 違う、写真は日焼けしていて最近撮られたものではない。
だとすれば春菜の昔の写真だろうか。では一緒に映っている女の子は?
もっと近くで写真を見ようと顔を近づけた時、廊下から足音が近づくのに気づいて慌てて座布団に座り直した。
「ごめんね、ひなたたちの分も用意してたら遅くなっちゃった」
春菜が両手にお盆を持ったまま半開きになっていたドアの隙間から体を滑り込ませ、器用に足でドアを閉める。春菜がちゃぶ台の上に置いたお盆には紅茶とパウンドケーキが乗せられていた。角が不揃いなそれはひと目で手作りだとわかる。
「これ私が作ったんだ。一部のお客様から大変好評です」
「一部のお客様ね――」
聞くまでもなくひなたと裕樹のことだろう。春菜が皿に取り分けてくれたケーキをフォークで口に運んだ。生地はしっとりしており、口の中に優しい甘味が広がる。
「これ、カボチャで作ったの?」
「うん。余ったのを再利用してみました」
ホテルや洋菓子店で販売されている高級品は幾度となく口にしてきたが、それらとはどこか違う素朴な味。気がつくと夏樹は皿にのったケーキをきれいに平らげていた。
「気に入ってもらえたかな?」
「うん、なんだか懐かしくて優しい味。今まで食べた中で一番――かも」
「ほんとに? 嬉しい! 良かったらおかわりあるけど」
答えるより早く春菜の手が動き、夏希の前に新しいケーキを乗せた皿が置かれる。どのみち貰うつもりだったので好意に甘えることにする。
「そういえばね、今朝佐原さんが私におはようって言ってくれたんだ」
「へぇ――」
夏樹はカップに注がれた紅茶に口をつけ、気のない返事を返す。実際は真希の行動の早さに少なからず動揺していた。
真希に対して抱いていた印象など、彼女が見せた一面によるものに過ぎなかったということかもしれない。
「この間のこともごめんねって言ってくれたの。わたし、あの事で佐原さんに嫌われたと思ってたからすごく嬉しくて」
「普通は逆じゃない? 本当にお人好しね」
カップを置いて顔を上げると、春菜が自分をじっと見つめていた。
「そういえば春菜のご両親は? 共働きなの?」
視線から逃れるように話題を振った。だが春菜は瞳悲しげな影を瞳に過ぎらせ、初めて見せる不自然な笑顔を張り付かせる。
「お母さんは四時からパートに出てるの。今日は入れ違いになったみたい」
春菜はわずかに目を伏せ、絞り出すような声でその後を続けた。
「お父さんは――死んじゃった。ふた月くらい前に」
夏樹は言葉に詰まった。最初にこの家に入った時に感じた、何かが欠けているような空虚さ。気付いていながら、なぜ気を回せなかったのか――夏樹は自分の思慮の浅さを悔いた。
夏樹が表情を曇らせると、春菜は両手と首をブンブンと横に振った。
「あ、気にしないで! ごめんね暗い話しちゃって」
そう言われても夏樹の気持ちは治まらない。その暗い話をさせたのは自分なのだから。
「もしよかったらお線香あげさせてもらっていい? それくらいしかできないけど」
気休めとはわかっているがそのくらいはせずにいられない。春菜は顔を輝かせた。
「本当に!? ありがとう、お父さんきっと喜ぶよ」
見ず知らずの人間が線香をあげた程度でそれほど喜ばれるとは思えないが、ぎこちない笑顔を浮かべて夏樹はうなずいた。
立ち上がった際、タンスの上にマモが腰掛け春菜を見下ろしているのが目に付いた。普段表情を変えることのない友人の目が、気のせいかやけに冷ややかなものに思えた。
春菜の案内で仏間へと通される。春菜は先に仏壇の前へ正座して両手を合わせる。
「お父さん、なっちゃん来てくれたよ。お線香あげてくれるって。よかったね」
自分のことなど知るはずがないのに。そう思いつつも夏樹は仏壇の正面、春菜の隣に腰を下ろし、線香立てに手を伸ばそうとした。
右腕を伸ばそうとした姿勢のままで夏樹は全身を硬直させ、目を見開いた。駅前、銀行、バス停。そして小さな町工場――次々と脳裏に記憶がフラッシュバックする。
仏壇に飾られていた遺影には三ヶ月前に夏樹が魔法をかけた男が穏やかな微笑みを浮かべていた。
「なっちゃん。どうしたの?」
春菜に声をかけられ、夏樹はようやく時間を取り戻した。指先の震えを抑えるために大きく深呼吸して首を横に振った。
「なんでもない。ただどこかで会ったことがあるような、そんな気がしただけよ」
線香を一本つかみ、マッチをこすって火をつける。ただそれだけの動作に手間取ったのは、いまだに指先の震えが治まりきっていないせいだった。
写真と目を合わせぬよう、うつむき気味にあごを引き両手を合わせる。これではまるで許しを請うているようではないか。私は何一つ悪いことはしていない。
「気のせいじゃなくて、なっちゃんはお父さんのこと知ってるよ。昔からね」
一瞬鼓動が大きく高鳴る。春菜は自分が彼に対して魔法をかけたことを言っているのかと、そう思った。だが春菜は父の遺影に追想の視線を向けたまま、悲しげな微笑みを浮かべた。
「もちろん私もなっちゃんのことずっと覚えてたよ。私にとって一番大事な、大好きな友達だから」
唐突な春菜の言葉に夏樹は眉をひそめる。 ――覚えてるってなんのこと? 私と春菜はまだ知り合ってからひと月も経っていないはず。
「同じ高校になってたのを知ったときはすごく嬉しかった。だけど私もともと内気で、なんだか話しかけづらくて――」
「ちょっと待って! 何を言ってるの? 私と春菜は最近知り合ったばかりじゃない。どうしてそんな、昔から私を知ってるみたいな――」
春菜はゆっくりとかぶりを振り、顔を夏樹へと向けた。その瞳から涙があふれ、こぼれ落ちる。
「ずっと昔から知ってるよ。小学生の頃、私はいつもなっちゃんのそばにいた。なっちゃんみたいに優しくて、賢くて、強い女の子になりたくて」
「なに言ってるのよ。そんなの私は知らない。覚えてすら――」
言いかけて、夏樹は先ほど春菜の部屋で目にした写真を思い出す。幼い春菜の隣で笑っていたあの――女の子は。
「私――?」
背筋を冷たいものが走り抜ける。なぜ自分は覚えていない? 思い出せないのではない。記憶そのものがすっかり抜け落ちているとしか言い表せない。
春菜が初対面のはずの自分に見せた奇妙なほどに近い距離間、何気なくかけられたいくつもの言葉。それらがまるで蛇のように頭に絡みつく。
夏樹はたまらず頭を抱え、足下をよろめかせた。
「なっちゃん! 大丈夫?」
春菜が狼狽した声を上げる。夏樹は反射的に春菜が差し伸べてきた手を払いのけ、部屋を飛び出した。
「なっちゃん!」
背後から春菜が呼び止める声が聞こえたが、夏樹は振り返らずに廊下を走る。ひなたが何事かと障子から顔をのぞかせたが、立ち止まらず玄関から外へ出る。
「だから――」
耳元でマモの声が聞こえる。夏樹は両耳をふさいで通りを駆けた。マンションとはまるで逆の方角へと。
「だから、あの子とは関わってほしくなかったんだ――」