第二話
*
「ごめんね。約束があるの」
クラスメイトからの昼食の誘いを適当に断り、夏樹は校舎裏を目指した。学年が上がり、新しくなったクラスでも夏樹は男女問わず人気があった。自信に満ちあふれた夏樹のたたずまいは彼女に容姿以上の超然とした魅力をまとわせる。
たとえ一切のつきあいを断ったところで、周囲は自分に対して根暗や高飛車といったマイナスのイメージを抱かぬことを夏樹は理解していた。
テニスコートが見渡せる校舎裏の石段に腰を下ろし、夏樹はお気に入りのパン屋で買ったランチボックスを開け、傍らに置いた。
「いい天気だね。もうすぐ春だ」
マモが夏樹の膝へとポンと飛び上がる。夏樹は玉子サンドを半分に割ってマモに差しだした。
「まだ寒いわ。そのぶん静かでいいけど」
夏樹はサンドイッチを一口かじり、携帯を取りだした。頬杖をつきながらウェブを起動し、液晶をなぞって適当にニュースサイトの記事を流し読みしていく。
「自殺する人って減らないのね。私に会えてたらせめて死ぬ前に心配ごとから解放されるのに」
夏樹はひと月に大体三、四人を目安に魔法をかけている。別にノルマというわけではなく、進退極まった人間を見かける機会が普通に歩いていてもそれくらいの頻度である、というだけだ。
「そりゃそうだよ、ここは世界有数の自殺大国だからね。いくら夏樹ががんばっても全体の割合はたいしてかわらないさ」
マモはリスのようにほっぺたを膨らませながらサンドイッチをほおばった。
「だけどどうせ死ぬなら夏樹の魔法を受けてからってのはたしかにあるね。そうすれば絶望の中、自らの手で命を断つこともないし、ぼくは魂にありつける。夏樹にも幸せが舞い込んでみんなが幸せになれるんだ」
そう言ってケラケラと笑うマモにちらりと視線を落とした夏樹は携帯の液晶に指をはわせ、検索ワードに「悪魔」と書き込んだ。
ずらりと並んだ検索結果の中から上位にある悪魔の一覧という項目を開く。
「なにを見てるんだい?」
マモはランチボックスからウィンナーを引っ張り出しながら、無言で携帯を眺める夏樹を見上げた。
「あなたのこと調べてたの。ネットで検索して」
「ぼくのこと? そんなの直接聞けばいいじゃないか」
「悪魔って嘘つきなんでしょ? 本当のこと話してくれるとは限らないもの」
マモはタコの形をしたウィンナーを一息に飲み込み、あからさまに肩を落としてため息をつく。
「ぼくは君に嘘はつかない。最初からそういう約束じゃないか」
「隠してることもない?」
「――隠してること?」
「だって悪魔との契約にはもっと悲劇的なほどの代償を払うのが普通みたいだよ。だけど私はマモに対して生け贄のノルマもなくて、リスクも特にないじゃない。本当は私の知らないところで色々ちょろまかしてるとかない?」
「失礼しちゃうな。なんならもう一度契約の確認しようか? ぼくは君の左目に宿らせてもらうことでまず世界との繋がりを持つ、そしてその代償として君に力を与える。これがいつも使っている君の魔法だよ」
夏樹はパックのカフェオレにストローをさしながらうんうんとうなづく。
「魔法を行使するもしないも君の自由。ただし一度魔法を用いたら取り消すことはできない。魔法をかけられた者は抱えている絶望や苦しみから逃れる代わりにひと月の余命となる。そしてその人間が残りの人生で得るはずだった幸運が君へと還元される」
「それなんだけどさ。自殺も考えるような人間の運なんて大したことないんじゃない? その割に私は何不自由ないくらい幸運にありつけてるんだけど」
「人間にはそれぞれ天命が存在するんだ。自殺というのはそれを全うせずに命を放棄するおこないで、実際には本人が思っている以上に重罪なのさ」
マモはずんぐりした短い腕を組み、神妙な面もちで言った。
悪魔というのは命の在りようを重んじるものが多いと記述があるが、その通りらしい。
「それに幸運というのは割と本人が自覚しないところでも起こっているんだ。たとえば転んでズボンを破いてしまったとして、これを幸運と捉える人はいないだろ?」
「当たり前じゃない」
「だけど世の中には平坦な道で転んだだけで重い障害を負うことになったり、最悪命を落とした人もいるんだよ? そう考えればズボンが破けただけで大したケガもせずに済むなんてラッキーじゃないか」
一瞬なるほどと思ったが、よく考えたら極端すぎる気もする。さすがに転んだだけでそんな目にあうことなどそうある話でもないだろう。
わかりやすい例を挙げただけというのはわかるのだが、やはりどう考えても転んでズボンを破くのを幸運と捉えるなど無理な話だ。そんな人間がいるとしたら変人である。
「それと、言うまでもなくぼくは口に出した以外の代償を君から得るつもりはない。悪魔と契約をしたものは死後も苦しみ続ける――なんて俗説も聞くけどそんなのでたらめだ。君はこれからも人として生き、人として死ぬ。それは保証するよ」
マモが鼻息を荒くしているのを見て、夏樹は少しイジワルだったかなと後悔した。彼が自分にとって誰よりも頼るべき存在であることなどとっくにわかりきっているのに。
「わかった。ごめんねマモ、あなたのこと信じてるから」
夏樹はマモの後ろ襟をひょいとつまみ、膝の上に乗せた。人差し指でマモの丸いおなかを優しくなでると、マモはキャッキャと声を上げて膝の上で転がった。
日差しは春を感じさせるが、空気はまだ冬のにおいを残している。夏樹はモッズコートの襟もとを寄り合わせ、昼休みが終わるまでこの静けさを楽しむためにそっと目を閉じた。
その時校舎の陰からけたたましい音が鳴り響き、ついで女子のものと思われる声があがった。夏樹はうんざりしたようにため息をついて膝に視線を落とす。騒ぎの嫌いな友人はすでに姿を消していた。
「なんなのよ、もう――」
夏樹は尻を手で払いながら立ち上がった。足音を忍ばせて声がした方へと近づき、建物の陰からそっと顔をのぞかせた。
「だから言いたいことあるならはっきり言いなって。イラつくのよあんたのそういう態度」
焼却炉の前に四人の女子が立っていた。正確には一人を三人が取り囲んでいる状況だ。三人のリーダー格らしい茶髪の女子が焼却炉を背にして立つ一人に詰め寄っていた。
「ベ、別になにも言いたいことなんてないよぉ――」
「だったらなんで掃除当番でもないのに昼休みにゴミ捨てなんていくわけ? しかもこれ見よがしに私らが散らかしたゴミまで片づけてさ」
焼却炉の傍らに目をやると、クラスに備え付けられているスチール製のゴミ箱が転がっていた。さっきの音の正体はこれだったのだろう。
「クセでつい片づけたくなったの。ごめんね、気にさわったなら謝るから――」
「ハァ? クセってなによ、あんたの実家ゴミ回収でもやってんの?」
片方は突っかかるのをやめず、もう片方は謝るばかりでいっこうに進展が見えない。夏樹はため息をついて校舎の陰から歩みでた。
「盛り上がってるところ悪いけど、騒ぐなら他に行ってくれない?」
全員の視線が夏樹に集まる。茶髪の取り巻きらしい二人はあからさまにばつの悪そうな表情を浮かべた。
「黒澤? なんであんたがここにいんのよ!?」
名前を呼ばれて初めて、茶髪の女子が自分のクラスメイトであったことを思い出す。――名前は思い出せないが。
「別に私がどこにいようと勝手でしょ。ここでうるさくされると迷惑なんだけど」
「なによ、あんた何様? 大体あんたに関係ないでしょ」
「ね、ねぇマキ。もういいじゃん、行こうよ」
マキと呼ばれた茶髪の袖を一人が引いたが、マキはそれを振り払った。
「前から思ってたけどあんたも気に食わないのよ。なにそのスカートのフリル。今時そんなデコレーションとか流行んないのよ」
「私のセンスにケチをつける前に、自分の下着くらい意識したら? 中学生どころか小学生でもそんなプリントつきの履いてないわよ」
「な――!?」
茶髪が顔を真っ赤にしてスカートを押さえる。ブラフのつもりだったが的を射たのだろうか。
夏樹はちらりと視線をおさげの女子へと向けた。化粧っけの薄い地味な顔立ちだがあどけない可愛らしさがある。少しだけ目を懲らして見ても負のオーラは一切感じない。
ただ、茶髪からかすかに嫉妬の念が向けられているのが感じられた。
「あぁそういうこと。二組にいる好きな男子が彼女に気があるのね。それが気に入らなくて難癖つけてたんだ」
意地悪な流し目を茶髪に向ける。その顔がさっと青ざめるのがわかった。
「は、はぁ? あんたなに言い出すのよ、頭おかしいんじゃない? 証拠もないのに適当なこと言ってんじゃないわよ」
証拠を欲するとはまるで追いつめられたミステリーの犯人役だ。夏樹は内心ほくそ笑みながら余裕たっぷりに腕を組んでみせる。
「証拠はないけどわかるの。だって、私魔法使いだから」
取り巻きの二人は顔を見合わせた後にクスクスと笑いだしたが、当の茶髪はいまだ顔を青くしていた。今まさに心の底を見透かされたのだから無理もない。
「付き合ってらんない。こんなメンヘラ女相手にしてても仕方ないわ、行こ!」
茶髪が足早に立ち去るのをきっかけに、取り巻きの二人もこれ幸いと後に続いた。もともとあの二人は引きずられる形でついてきただけだろう。
「あ、あの。くろさわ――さん。ありがとう」
それまで押し黙っていたおさげの女子がしどろもどろに口を開く。夏樹は肩にかかった髪を手で払いながらぞんざいにかぶりを振った。
「最初に言ったけどうるさかっただけ。あなたもそれ片づけたらさっさと行ってもらえる?」
地面に散らばったゴミを指さし、おさげの返事を待たずにさっさとその場を後にする。
石段へと戻った夏樹はほったらかしにしておいたランチボックスとカフェオレの空箱をビニールにまとめた。
そのまま石段に腰掛けようとしたところで夏樹は動きを止め、ため息をついた。
視線だけならともかく視界の端にちらちらと映るので無視し続けるほうが難しい。
あきらめて気配の方へと振り向いた。
「なにか用でもあるの?」
視線の先にいたのは先ほどのおさげだった。ブッたまげたように口元に手を当てて目を丸くしているが、まさか隠れているつもりだったのか――。
「あの、ちゃんとお礼言いたくて。本当にさっきはありがとう」
「なにも。ああいう人には縄張り教えとかないと面倒なの。ここは静かで人も来ないからたむろするにはうってつけだから」
「でも嬉しかった。ほんとにありがとうね、なっちゃん」
夏樹は石段からずり落ちそうになった。なっちゃんとは自分のことだろうか? いくらなんでもいきなりすぎるだろう。
「ちょっと、ちょっと待って。いくらなんでもいきなりその呼び方はないと思うんだけど――」
「え? あ、ごめん。ダメだよね、うん――」
最後に消え入りそうな声で何かつぶやいたようだが聞き取れなかった。いずれにしろいきなり愛称で呼ばれるとは予想外だ。
「――とりあえず自己紹介から始めない? あなた同じ学年?」
「ええ!? 白石春菜だよ! 同じクラスだし、それに――」
何か言いかけておさげ――白石春菜はうつむいてしまった。あまりにも悲しそうな顔をするので自分がひどい事でもしたような気になる。
「ご、ごめん。私人の名前覚えるの苦手で――じゃあこれから春菜って呼んでいい? 私のことも夏樹って呼んでいいから」
「ほんと?」
春菜が目を輝かせながら顔を上げる。フォローのつもりで余計なことを言ったかもしれないと、夏樹は少しだけ後悔した。
「うん。だからそろそろクラスに戻ったら? もう昼休みも終わるし」
春菜の足もとに置かれたゴミ箱を指さし、夏樹はぎこちなく笑いかける。
「あ、そうだった。じゃあ私行くね。さっきはありがとう、夏樹ちゃん」
夏樹ちゃん、を強調して春菜は駆けていった。春菜が校舎に入るのを見届けてから夏樹はこの日一番大きなため息をつく。
「なんなのあの子? 第一印象と違いすぎ。いきなりなっちゃんって――」
夏樹はぶつくさとつぶやきながら立ち上がって大きく伸びをした。ゴミをまとめた袋を指先に引っ掛け、テニスコートに設置されたゴミ箱に放り込む。
クラスに戻った夏樹は窓際一番後ろにある自分の席へと座り、頬杖を突きながら視線を巡らせた。二つ前の右斜め側の席で春菜が次の授業の準備をしている。
こんなに近くにいたのに意識すらしたことがない。視線に気づいたのか、春菜がこちらを振り向いた。微笑みながら小さく手を振ってくる。夏樹は恥ずかしくなって顔を背けた。
煩わしいだけの人間関係から離れて久しい夏樹には春菜の笑顔がひどく遠いものに感じられた。