第一話
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あなたは悪魔と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろうか。
人間の体に山羊の頭、黒い体毛に覆われた獣――それとも竜?
もちろん人それぞれだろうけど、きっと恐ろしげなものであると思う。
だけどあの日、私の前に現れたのはそんなイメージとは似ても似つかないものだった。
*
黒澤夏樹は学校指定のブレザー、白いフリルが飾り付けられたスカートといういつもの格好で駅前の噴水に腰掛けていた。時折吹く風が緩やかに波打つ長い黒髪を揺らしている。
背を丸め、右手で頬杖を突きながら左手でスマートフォンを適当にいじる。実際には次々と流れゆく雑踏から視線は外さない。
携帯の液晶をなぞっていた夏樹の左手が止まり、顔を上げて右目をそっと閉じる。
視線の先にいるのはいかにも幸の薄そうなサラリーマン風の男だ。肩のあたりが色あせ、袖口のよれたグレーのスーツを着込み、茶封筒を大事そうに抱えている。
その全身を包むようにして、真っ黒なもやがまとわりついていた。もちろん道行く人達には見えていない。
「見つけた――」
唇の端をそっと吊り上げ夏樹がつぶやく。携帯をカバンにしまい、噴水の縁から立ち上がって男の後を追った。男はまるで一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと通りの端を歩いていく。だがその歩みに力強さはなく、むしろ死刑台へと進む虜囚を思わせる。
夏樹は片方だけ開けた左目の瞼を大きく見開いた。
脳裏に男の半生が流れ込む。家族想いで実直な性格、仕事に打ち込んできた情熱、そして経営難により自社が倒産しかけていることに対する絶望も。
「今から銀行に融資をお願いしに行くわけね。可能性がないことも全部覚悟の上で――ワラにもすがるってやつ?」
やがて男は銀行の前で足を止めた。不安そうな目で入口の前で立ち止まる男を通りの端から見つめたまま、夏樹はふっと息をついてにやりと笑った。
「いいよおじさん。私の魔法で助けてあげる」
夏樹は左目に男の姿を捉え、強く念じる。彼を助けたい、救われてほしいと。心からの願いでなくともいい。ただ集中して強く想う。
夏樹の左目に映る男の体にまとわりついていた黒いもやが消え去り、続いて男の体からあふれ出た光が頭上で集まって小さな球を形作る。その光輝く球が不意に消えたのと同時に、意を決したように男が銀行の入口へと進んでいった。
夏樹は近場の自販機でミルクティーを買うと、銀行前の通りにあるバス停のベンチに座って男が出てくるのを待つことにした。たいして時間はかかるまい――予感ではなく確信があった。
案の定三十分もせずに銀行の自動ドアが開き、男が姿を現す。入った時とは別人のように晴れやかな笑顔で。
自動ドアが閉まるまで何度も頭を下げ、礼の言葉を連呼した後に男は背広の胸ポケットからどこかに電話をかけだした。融資を受けることができたという報告だろう。夏樹はゴミ箱にミルクティーの空き缶を捨てて立ち上がると、銀行に向かって歩き出した。
「嬉しそうですね。何かいいことあったんですか?」
男が電話をかけ終わるのを待ってから声をかける。男は突然のことにキョトンとした顔を浮かべたが、すぐに照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「あ、いやいや。そんなに顔に出てたかい? つい今しがたずっと抱えていた心配事が片付いてね。いかんなぁ」
駅前で見かけた時と比べ、十歳ほど若返ったようにすら見える。絶望や不安は人間の容姿すら変えるものなのだ。
「よかったですね。きっとご家族も喜びますよ」
「ああ、家族にはずいぶんと心配をかけてしまった。久しぶりにいい報告ができそうだよ」
男はそういって左袖をまくり、腕時計を見た。
「おっと、もう戻らないと。これから忙しくなるぞ」
「おじさん、ご家族との時間を大事にしてね。少なくとも一か月くらいは」
軽く会釈して歩き出そうとした男の背に夏樹は呼び掛ける。男は振り向いて少し首をかしげたが、すぐに大きくうなずいた。夏樹は雑踏にかき消されて見えなくなるまで、少しだけ大きくなったように感じるその背中を見送った。
「相変わらずアフターケアまで気を配るね」
「だってもう一か月の命だし、あのおじさん」
夏樹は左肩に視線を向けた。そこには人差し指ほどの大きさの、小さな人形のようなものが腰かけている。ピエロと聞いて想像するイメージを流行のゆるキャラにデフォルメして、衣装の赤色の部分を黒に変えたような見た目をしている。
本人いわく、悪魔であるらしい。
「いつも思うけどあんな曖昧な助言与えても有効活用できる人間なんていないよ? まさか自分の余命が残り一か月に縮んでるなんてこと想像するほうが無理なんだ。ただでさえ浮かれてるしね」
「それでも一か月っていう期間を印象づけてあげれば違うかもしれないでしょ。基準の設定って大事なんだから」
夏樹は言いながら黒いピエロが大事そうに抱えている球に目を向けた。彼の縮尺だとちょうどサッカーボールほどだが、夏樹から見ればビー玉よりもっと小さい。
「マモ、それがあのおじさんの魂なの?」
本当はマンモンだかマモンらしいが、夏樹はこのピエロをマモと呼ぶ。
「うん、こんなしょぼくれた魂珍しいよ。こりゃほっといたら自殺とかしててもおかしくなかった。いいことしたね夏樹」
マモはそういうと抱えていた球に大口を開けてかぶりつき、まるで蛇のように一息に飲み込んだ。明らかに彼の丸い胴体と同じくらいの大きさの球を飲み込んだにもかかわらず、マモのおなかは少しぷっくりと膨らんだだけである。
対象の人間を危機や絶望から救い、その代償としてその人間の魂をきっかりひと月分残してマモに供物としてささげる。それが夏樹の魔法だ。
「さて、それじゃ私も適当になんか食べて帰ろっかな」
大きく伸びをして駅に向かって歩き出す。手持ちは小銭程度だが夏樹にとっては何の問題もない。
「多分この辺に――あったあった」
夏樹は先ほど座っていた噴水の縁に落ちていた革財布を拾い上げる。札入れから五千円札を抜き取って落ちていた場所に財布だけ戻した。
夏樹の魔法にはもう一つの効果があり、供物をささげた見返りとしてその人間がこれから得るはずだった幸運が夏樹自身に還元されるというものだ。先ほどまで人であふれていた駅前は『運良く』人影がまばらで、夏樹の行為を見咎めるものなどだれもいない。
適当に目についたファミレスに向かう夏樹の頭から、先ほど魔法をかけた男のことなどすでに消え去っていた。