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Kiss&Happiness  作者: 千秋
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第四章 「ホントノキモチ」

 次の日。

 太陽がまだ昇り始めて間もない早朝――いつもの時間に目が覚めた。もう習慣化してる。

 横に目をやると隣に本郷が寝ている。結局一緒のベッドで寝たんだよな、俺たち。

 これと接吻、どっちが本郷の親父さんを怒らせるんだろうな。


 とりあえず本郷を起こさないようにそっとベッドから離れ身支度を始める。

 折角の休みなんだし、寝かせてやっても構わないだろう。俺の部屋だがな。


「おはようございます」

「おはよう、千尋さん。昨日はありがとう。わざわざ俺の分まで祝ってくれて」

「いえ、お嬢様がおっしゃったことなので」

「……そっか」


 全く、とんだお嬢様だ。


「今日はお嬢様にお会いしたいとおっしゃるお客様がすでにこの家にお見えになられていますので、お手数ですがお嬢様を起こしていただけませんか?」

「お客様?」

「はい。白鳥純、とお嬢様にお伝えになればお分かりになるかと」

「わかった」


 部屋を出る千尋さんを背に気持ち良さそうに寝ている本郷を起こしにかかった。


「おい、本郷。起きろ」

「ん……」


 寝返りをうっただけで一向に起きない。


「おい」


 しつこく体を揺さ振ってみると、眠そうながらも目を開けてくれた。


「ん、なに……?」

「お前に客が来るんだとよ」

「誰が来るって?」


 本郷は気だるそうに伸びをしながら聞いてきた。


「千尋さんからの伝言なんだが白鳥純と言ってたぞ」

「!?」


 一瞬で本郷の目が変わった。そんなに大事な人なのか。


「わかったわ。今すぐ準備するから、あんたは応接室に行ってなさい」


 俊敏な動きで部屋を出ていった。

 応接室だな。えっと、応接室は……



 本郷が身嗜みを整え応接室に入ってきてから丁度十分後。


「相変わらずこの家は今ひとつ優雅に欠けている」


 なにやらぶつくさ呟きながら、二十歳くらいの男が入ってきた。

 金縁眼鏡をかけており、中肉中背で寝癖が酷い天パの俺からすれば羨ましいサラサラの金髪をきっちり整えている。

 涼しくなってきたとはいえまだ秋なのに黒の長いトレンチコートを着用しているなんて。 一見チャラそうに見えなくもないが、概ね仕事ができるサラリーマンといった感じか。

 でも、メガネの奥に見える目つきが気に入らない。

 なんというか……獲物を狙っているようなギラついた目。


「なんであんたがこの家に来るのよ」


 本郷が鋭い眼差しをその怪しい男に向ける。


「やけに冷たいな。ただ愛しいお前の姿を見に来ただけだというのに」

「だったら今すぐお引き取り願おうかしら」


 何か、本郷が妙に刺々しい。まるで以前の俺に対する態度のようだ。


「全く我がままな小娘だ。しょうがないから理由を見つけようじゃないか。だがその前に、そこの奴隷は何だ? 新たに買い取ったのか?」


 ピキッ。


「おい」

「彼は奴隷じゃないわ」


 おお! 嬉しいことを言ってくれるじゃないか。


「私の下撲よ」


 ガクッ。


「下撲か。中々悪くない物を持ってるじゃないか」


 こいつ、さっきから人を物扱いしやがって。すごく殴りてぇ。


「それより、理由を聞かせなさいよ」

「ああいいだろう。奴隷、いや下撲もいるが存在が面白いから特別に聞かせてやろう」


 この野郎、次何か言ったら絶対ぶっとば――


「早く私と婚約しろ」


 ――す! ……え?


「許嫁のくせに婚約を渋るとはどういうことだ」


 許嫁、だと?


「うるさいわね。まだ心の準備が出来てないのよ」

「フン、知るか。とにかく近々結婚式を開く予定だ。その時までせいぜい準備しろ」


 そう吐き捨てるとコートを翻しながら踵を返した。


「……」


 白鳥が部屋を出た後も本郷は黙っていた。

 俺は話し掛けられずに、そっと部屋を出た。

 状況がうまく呑み込めていない。

 婚約? 許嫁? 結婚式?

 おいおい。昨日十七歳になったばかりの高校生が係る話とは到底思えんぞ。

 何がどうなってるんだ。



 夕食後。

 本郷の部屋の前の廊下で、浮かない顔でトボトボ歩く本郷に出くわした。


「大丈夫か?」

「……ええ」


 まだ、触れない方がいいか。

「そういえば、あんたには言ってなかったわね」


 しかし本郷の方から話題を振ってきた。


「無理に話さなくてもいいからな」

「むしろ、あなたにはちゃんとわかってほしいから。聞いてもらえるかしら」

「わかった。よろしく」


 あまり明るい話ではなさそうだからこそ、ちゃんと聞くべきだろう。


「白鳥純が言ったことだけど、私は数年前からあの男の許嫁よ」

「嘘、だろ」

「嘘、ねぇ。嘘だったらどれだけ嬉しいかしら」

「は?」


 呆れたように両手を広げる本郷の吐露に突っかかりかけた。

 しかし、すぐにその表情が硬くなるのを見て先を待った。


「……政略結婚よ」

「政略結婚?」

「そう」


 本郷が暗い顔のまま説明を続けた。


「実は、お父様が経営する会社の業績が悪化していて、下手をすれば倒産ってところまで追い込まれてるの。お父様も打つ手が無くて瀬戸際に立たされているわ」

「理由は?」

「白鳥が……彼の家がめきめきと業績を伸ばした結果、逆にお父様の会社が伸び悩んだのよ」

「あいつ……」

「しょうがないわ。同じ世界に立つ者同士の宿命だから。それで、苦し紛れにお父様が考えたのが――」

「政略結婚……」

「そう」


 今の世の中でも、政略結婚なんてあるんだな。金持ちの事情はホント理解できない。

 でも、それじゃあ本郷は……

「だから、本郷家の唯一の跡取りとして私は会社の、家の将来のために白鳥家に嫁ぐのよ」

「……ふ、ふ」


 本郷は嫌々結婚するっていうのか!


「どうしたのよ?」

「ふざけんな!」


 俺は無意識の内に怒鳴っていた。


「政略結婚って、お前の意思はどうなんだよ! 本気で了承するつもりなのか!?」


 なんで俺は怒っているんだ。家の事情じゃないか。

 俺が口出せる立場でもなければ、関係者でもない。

 それでも事情などお構いなく沸々と湧き上がるこの感情は一体何なんだ。


 ……あぁ。


 単純な話――そんなことで感情が溢れるほど俺は本郷のことを好きになってしまったんだな。

 それなら、もうこの感情をぶつけるしかないな。


「しょうがないわよ。お父様の……本郷家のためだもの」

「家の、ためだと?」

「ええ」


 俺はさらにムカついた。


「なんだよ、それ。自分の娘を経営の道具にするなんて最低な親だな。俺はそんな奴に脅されこんなところにいたのかよ、ああ!」


 遂に本郷の肩を強引に掴んで顔面に叫んだ。


「お前はそんな理不尽なことを反抗せずに従うのか!」


 バシンッ!


「あんたに……私の何がわかるっていうのよ!」


 本郷が俺の頬に思いっ切り平手打ちを喰らわせて、俺に劣らない勢いで罵声を放った。


「上流家庭に生まれ、家の看板を背負い、家のために身を尽くすことが豊かな生活と引き換えに縛られた運命なの! それに、幼い頃から両親に構ってもらえなかった私にとっては、やっと私を見てもらえる最高の機会なの。人生で一度でいいから二人に褒められたいの!」

「それ以外にも方法はあるだろ! そんな自分を犠牲にする道じゃ、必ずお前が後悔するぞ!」


 俺も半ば興奮気味に叫ぶ。


「今なら遅くない。俺も協力するから、な」


 少し冷静になった俺は諭すように言った。

 そうだ。まだまだ人生は長いんだ。

 こんな早くから先を決定的に狭めるような選択肢は選ぶべきじゃない。


「……なんの不幸を持たない人間が私の気持ちを理解したように言わないでよ」

「なんだと?」


「あんたみたいな人間に、両親に構ってもらえない気持ちなんてわかるわけないわ!」


 目の前の人間が俺の禁句を叫んだ。

 俺の理性はどうやらここまでのようだ。

 胸倉を掴む。本気の力で。


「ちょっ、やめ――」


 俺は仇を見るような目で本郷を睨みつけ有りったけの思いをぶつけた。


「両親? 家族? そんなもん気が付いたらいなかった俺にお前の贅沢な悩みなんか理解できねえよ! 家族に……両親に構ってもらいたいとか、褒めてもらいとか、一生願っても出来ない俺にどうやって理解しろと言うんだ!」

「え……?」

「確かにお前は不幸かもしれない。だかな、世界でお前だけが不幸を背負っていると思ったら大間違いなんだよ!」


 本郷が震えながら我に返ったように、驚きの表情を見せた。


「その……ごめん」


 その一言に、俺も我に返った。


「俺は今すぐ執事を辞める。そんなに褒められたいなら勝手に結婚なりなんなりしてくれ。俺はもう付き合ってられん」


 まだ怒りが収まらない俺はその衝動に身を任せて自室に戻った。

 私服に着替え、乱雑に荷物をまとめ部屋を出た。

 そこに、涙まで浮かべた沈鬱の本郷が俯いていた。


「……ごめん、なさい」

「……お幸せに」


 そんな姿にやる瀬なさを抱いた俺は、一言呟いて豪邸を出た。

 こんな苦い思いをするならこんなところ来るんじゃなかった。

 執事なんてやらなきゃよかった。

 なにより……あいつのことを好きになるんじゃなかった。

 まだ、好きの一言すら言ってないのに。フラれた気分だ。


 三日月が雲に覆われたとき、俺は空に向かって慟哭した。



 俺が行く場所を失ったとき、帰るところは一つ。


「……ただいま」


 一階しかない、一軒家にしてはみすぼらしい家の玄関を開け中に入る。


「おかえり、直樹君」


 その人は、相変わらぬ姿でリビングに座っていた。


「随分早かったね、住み込みアルバイト」

「……雇ってくれた人と揉めて、クビになりました」

「あちゃあ。またやらかしちゃったか~」


 おじさんがわざとらしい残念顔を見せた。


「無断で何日も家を出てすいません」

「いやいや。ちゃんと置き手紙があったし、君ならなんの変化もなく帰って来ると思ってたよ」

「……」


 おじさんとのやり取りはこんなものだ。


 俺たちは家族じゃない。

 散々たらい回しにされたから、あのとき突然俺を拾ったおじさんが俺にとって誰なのか知る由もなかった。

 正直言って、今もおじさんのことをよく知らない。

 そんな環境だからこそ、家族のような関係にならない一定を保った距離だからこそ、俺は安心しておじさんの下で暮らすことができる。


「お腹空いてる? 何か作ろうか」



 本当は何か食べたかったが、あまり心配させないために嘘をついた。


「帰ってくる間に済ませました」


 キッチンに行きかけたおじさんの足が止まった。


「そっか。じゃあいらないね」


 再び元の姿勢に戻る。


「アルバイト、楽しかったかい?」


 ちょうどいい間に答えづらい質問が来た。


「……はい」

「うん、ならオッケー。また次頑張ればいいよ」


 おじさんは心底安心したように言った。


「じゃあ、お風呂でも入って寝るかい? 疲れてるんじゃない?」

「……そうさせていただきます」


 俺はおじさんの言葉に甘えることにした。


「ふぅ」


 心身共に安らぐ心地好い温もりが俺を芯から優しく癒す。

 傷心した今の俺にはありがたい温かさだ。

 そうしてゆったりしていくうちに、今日の出来事が頭に巡ってきた。


『私は会社の、本郷家の将来のために白鳥家に嫁ぐのよ』

『人生で一度でいいから二人に褒められたいの!』

『あんたみたいな人間に、両親に構ってもらえない気持ちなんてわかるわけないわ!』


 思い出すだけで悲しくなり、同時に憤りを感じてしまう。


「……くっ」


 俺は水面を思いっ切り叩いた。

 反動で跳ね返った湯が四方に飛び散る様が余計虚しさを膨らませる。


「……」


 俺は……どうしたらいいんだ。

 深い沈黙の後に俺は風呂を出た。

 やはり、忘れるのが一番なのか……



 早くベッドに潜って寝たのにも関わらずろくに睡眠をとれなかった俺の体は、鉛を含んだようになかなか思い通りには動いてくれなかった。

 それでも無理を強いて体を起こす。

 既におじさんはいなかった。おじさんの仕事も当然知らないからどこに言ったかも知らない。

 机の上にあったパンをゆっくり食べた後、いつもとは違う意味で学校に行く気になれなかった俺は外の空気を吸うため着替えてフラフラと外に出た。

 行く宛てのない足は自然と色んな方向に歩みを進める。


 ほどなくして誰もいない閑静な公園にたどり着くと直ぐに目についたジャングルジムのてっぺんに登って腰掛けた。

 外に出てリフレッシュすれば少しは気が晴れるかと思ったが、本郷が言ったセリフが頭の中でリフレインされてむしろ逆効果だった。


「……チッ」

 効果を為さないものに今は興味がない。

 かといって、効果を為す明確な場所など知るはずもない。

 俺は本郷と過ごした間の、今となっては哀しい記憶を探した。


 そうだ、あそこがあった。

 俺はふと頭に過ぎった、誕生日にいった場所へ行ってみることにした。

 あそこならば、今の陰鬱とした状態から抜け出せる手がかりが見つかるかもしれない。

 そう思った瞬間自分でも驚くほど急ぎ足で動いていた。

 とにかく、俺は忘れたかった。

 無理に抱え込むくらいなら、いっそのこと全部払い捨ててまっさらにしたほうがマシだ。消極的な逃げの姿勢でも、これが今の俺にとって一番順当な行動だ。


「……」


 だが、実際にその場についたとき、あの時の記憶がフラッシュバックしてきた。

 バッティングセンター、映画館、ファーストフード、デパート。

 さっきまであやふやだった記憶が、いざ目の前にした今となってみればどこに行っても一挙一動まで鮮明に思い出してしまう。

 夢遊病なんじゃないかというほど自分の歩みに制御が効かない。


 ついに屋上まで来てしまった。


「……クソッ」


 もう、我慢できない。


「クソッ、クソッ!」


 周りに人がいたが気になるもんか。


「クソッたれ! 忘れようとしても、忘れられねぇよ! お前のことが頭から離れねぇんだよ! どうしたらいいんだよ!」


 俺は壁に拳を思いっ切り当てながら力一杯叫んだ。


「なぁ、本郷!」


 ……帰ろう。

 最後に壁を蹴ってその場から離れようとした。


「!?」


 なんで……こんなことになるんだ……


「……本郷」


 俺と同様、相手も驚きのあまり固まっていた。

 なんで……こんなところで会うんだ……

 い、いや。まずは言わなきゃならない事があるじゃないか。


「ごめん!」


 俺が頭を下げて謝った。


「俺、本郷の気持ちも考えずにあんなこと言って」

「……こちらこそ、根元を傷つけるようなことを言ってごめんなさい」

「いや、その……」


 しばしの沈黙の後、本郷がやんわりと口を動かした。


「あのさ、とりあえず家まで来ない?」

「……ああ」


 俺は本郷の後をついて行った。



 たった半日しか経っていないのにもかかわらず、本郷家の豪邸を見たとき酷く懐かしい気がした。


「入って」

「ああ」


 本郷の部屋に入ったとき、ふと誕生パーティーのことが蘇ってきた。

 楽しそうな本郷の笑顔。やっぱり反則だ。


「私ね、両親に一度も名前で呼ばれたことないのよ」

「え?」

「いつもお前、とか、あなた、とか。直接名前を呼べばいいのにわざわざという感じにさえ見えてくるわ」

「そんな……」

「まあ、しょうがないわよね。私が八歳のときに仕事で海外に移住して以来、一度も会ってないくらいだし。私は二人にとって、邪魔なだけだったのかもね」

「じゃあ、何で――」


 ――そんな親に褒められたいのか。

 俺は勢いで言いそうになったその言葉をギュッと押さえ込んだ。


「……何でもない」

「根元が言いたいことはわかるわ。私もたまにふと思うもの」

「それじゃあ、わかっていてもなお望んでるのか?」

「ええ。私の……幼少からの願いだから」


 俺は何も言えなくなった。


「そうだ。あのね、根元に伝えなくちゃいけないことができたの」

「……何やら、重大なことのようだな」

「ええ、そうね」

「……わかった。聞かせてくれ」


「私、白鳥と正式に婚約することになったわ」


 そ、そんな……


「あのとき根元に言われて散々考えた。大事な自分の将来くらいは自分の意思を突き通そうか悩んだわ。でも、やっぱり私には無理な話……家族より自分を大切になんかできないわ」


 色んなショックで何も言い返せない。


「でも、根元には感謝してる。こんな強引な形での婚約でも、何か自分が喜べることを見つけて生きようと思えたのは、根元のおかげだから」

「ふ、ふざけんな……俺は、俺は……そんなことを決心させるために……お前を引き留めようとしたんじゃない」


 気持ちの整理が落ち着かず、言葉がとぎれとぎれになり掠れてしまう。


「でも、今の私には言葉通りには届かない……しょうがないもの」

「……クッ」


 俺は無意識に拳に力を入れていた。爪が手の平に食い込む痛みを感じるが、精神的な衝撃に比べれば気にもならなかった。


「あと、式なんだけど……」


 本郷が追い打ちの言葉を告げた。


「白鳥の方でね、私の返事ひとつですぐ出来るよう手配してたみたいで、その、丁度一週間後に決まったわ」

「……」

「実は昨日お父様とお母様が帰国したの。わざわざこの式のためにね。式の前後はしばらく日本にいるっていうから、私も二人に合流するために今日二人のところに向かうわ。だから、根元とはもうこれでお別れになるかもしれないわね」

「……」

「学校もすぐにやめるわ。これからは、大財閥の妻として生きていくから」

「……」

「式の方は……もし、こんな私を祝ってくれるのならば、当日この家にいる千尋に言って。特等席を用意するから。じゃあ……さよなら」


 無言を貫く俺に別れの挨拶を述べた本郷は俺の横を通った。

 そのとき、


「あんたのこと、好きだったわ」


 本郷の呟きがこれでもかと言うくらいはっきり聞こえた。

 そのまま本郷は部屋を出ていった。


「……」


 悔しい。人生で一番悔しい。

 家族のために、あんな輩に娶られるなどあまりにも理不尽だ。そんな周りの事情で一個人が身を呈するなんて筋が通ってない。

 でも……それを是とし担う覚悟を決めた本郷を止められなかった俺が、何より一番悔しかった。情けなかった。

 自分の非力さが滲み出てしょうがない。

 更に言うなら、この場で最後のあのセリフを言ったということは、本郷は二度と俺と会う気がないということだ。


「ちくしょう……ちくしょう! ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」


 俺は思いっ切り喚き散らした後、躊躇なく涙を流した。

 昨日散々泣いたのにも関わらず、流れ落ちる涙が止まらない。

 結局、一時も本郷を忘れられなかった。

 どうすればいいかわからない。


「……」


 このまま、引き下がるしかないのか?

 後悔しか残らない空虚な結末に何もせずに忘れるのか?

 為す術ないまま足掻くことすら出来ないのか?

 だが、自問自答の最中に俺の中で崩壊しかけていたものが、少しずつ、少しずつ明確な塊となって大きく膨らんできた。

 ……これが、俺の本当の気持ちなのか。


 俺は……あいつが大好きだ。あいつを、心の底から幸せにしてやりたい。



 あいつと、家族になりたい。



                   *



「ねえねえ。パパ、ママ。似顔絵描いたよ。はい」


 光で反射されたようにキラキラと輝く目を向けながら、少女はクレヨンで酷く汚れた手で絵を差し出した。

 少女が30分かけて完成させた渾身の似顔絵。

 例え似てなくても、せめて頑張って描いたことだけでも褒めてもらえるだろうと期待した少女に、父から淡く冷たい一言が返ってきた。


「私は忙しいんだ。今すぐ部屋に戻りなさい」


 さらに母も、


「パパ、ママなどと下品な言葉を使ってはいけません! お父様、お母様とお呼びなさい!」


 とても六歳の子供にかけるようなものではない辛辣な言葉が少女の耳に痛烈に響く。


「……ごめんなさい」


 叱られた上に、頑張って描いた絵を受け取ってもらうどころか描いたことすら触れられなかった少女がガッカリして、トボトボと二人のいる部屋から出た。


「グスッ」


 少女は募る悲しみを必死に堪えながら自分の部屋へ戻っていた。

 少女は始めから絵を見てもらえないことをわかっていた。散々受けてきた『忙しい』『邪魔するな』の洗礼は、幼い少女にさえその壁を感じさせてしまう。


 だが、そんな越えられそうもない断崖絶壁を目の前にしてもなお、少女は諦めきれなかった。

 諦めよりも、褒めほしいという願望の方が理性の弱い幼女であるがために殊更強く抱いていた。


 少女は幼いながらも自分がどのような環境に生まれ、どのように生きていくかを理解していた。嫌というほどしつけられてきた『本郷』という名の看板を背負うに値する人間になると少女半ば強制的だが自覚していた。


 それでも、両親に褒めてほしいという幼子らしい欲だけはどうしても満たされたかった。

 少女は、いつもの落胆顔で一人部屋の窓から空の景色を見上げる。


 いつか両親から褒めてもらう、ただそれだけをむねに秘めて――



                   *

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