第一章 「執事or下僕」
突然の出来事に脳がショートして何も考えられなくなる。
しかし相手が俺を無理矢理押す力を感じ、半ば反射的に体を起こした。
気持ちを落ち着かせようと深呼吸していたとき、
「この野蛮人!」
怒り心頭の様子であった相手に胸倉を掴まれた。
「お前は!」
よく見ると、その人物は俺のクラスメイトだった。
「よ、よ、よくも私のファーストキスを奪ってくれたわね!」
「べ、別に俺にだけ非があるわけじゃないから。俺だけのせいにするな」
存外まだ自分がパニックになっているのが痛いほどわかる。
「へぇ~。女の子の唇奪っておいて、まさか責任とらないなんて言うわけじゃないわよね?」
「これは事故だ。だからしょうがないだろ」
俺はそのクラスメイト、本郷舞の腕を払うとそのまま立ち去ろうと踵を返した。
『千尋、目の前の男を今すぐ捉らえて。手段は問わないわ』
その声が耳に届いたと同時に背中に殺意を感じ、反射神経を最大に駆使して素早い拳を受け止めた。辛うじて相手の手首を掴めてラッキーだ。
視界に映ったのは――メイド服。
「背後からいきなり殴りかかるとはなかなか卑怯な真似してくれるじゃねぇか」
目の前には金髪の本郷と対照的な寒色系のショートヘアーを持った二十代とおぼしき女が、感情を探るのが困難な真顔で俺を見据えていた。
「私の奇襲を止めたことは評価します。ですが、お嬢様に危害を加えた行為は決して許されません」
「上等だ。売られた喧嘩は買うのが男だ。行くぞ!」
俺は相手の拳を掴んだまま右足を曲げそのまま腹めがけて中段蹴りをかます。
しかし空いていた相手の左手に塞がれてしまった。相手との距離が近すぎて膝が曲がった状態のまま掴まれてしまい重心が不安定になっている。
それでも俺には右手が空いている。距離は充分。いける!
「もらったぁ!」
相手の足より速く動けばこっちのもの。やらせてもらうぜ!
「スキありです」
ところが、俺の拳が相手の顔に届くことは叶わなかった。
俺の挙動に対して相手は素早く俺の右足と左腕を力強く払い退けてきた。
前に進もうと力が働く俺の右腕と、後ろに進もうと力が働く俺の左腕と右足。それに加えて重心は片足により不安定。
俺は右腕を掴まれてしまい、驚くほど簡単に背負い投げされてしまった。
「ぐっ!」
上手く受け身ができず背中に鈍い感覚が走る。
相手はそれだけで済ませるわけもなく、抵抗できなくなった俺に追い打ちとして腕で首を絞めてきた。
「命までは取りません。今は楽にお休みなさいませ」
クソッ、意識が――
目を開けて最初に飛び込んできた景色を見たとき、俺は困惑した。
三十人程度の生徒を収容する一般的な学校の教室くらいの広さに煌びやかに装飾された室内は、どう見ても一般層には関わりのない豪華な雰囲気を醸し出していた。
俺はその部屋の一角を大きく占有する天井つきベッドに寝ていたようだ。三人くらいは簡単に寝れそうなベッドだなこりゃ。
近くの壁に備えてあった星形のデシタル時計を見たところ、どうやら俺が倒れてから数時間程度経過しているようだ。ご丁寧に日付と曜日まで表示されている。
その時計のすぐ横に本郷が壁に寄っかかりながら腕を組んでいた。
「ようやく目を覚ましたのね、野蛮人」
ことの発端の本郷がすまし顔でベッドの方に向かってくる。何様だよ。
「ここはどこだ?」
「私の家よ。あんたが気絶したからここまで運んできたのよ。有り難く思いなさい、野蛮人」
「あのな、人を野蛮人呼ばわりするのはどうかと思うぞ」
そもそも気絶した原因はあのメイドだろうが。
「あら、毎日喧嘩などという下劣でみすぼらしいことをやっているあんたにはお似合いかと」
「今すぐここから出せ! テメェと同じ空気吸いたくねぇ!」
「駄目に決まってるじゃない。あなたには罪を償ってもらわないといけないんだから」
そこに俺の意識を飛ばした本人が無表情で入ってきた。
「お嬢様。この方をどうするのですか?」
その一言を受けた本郷は返事をせずなぜか俺を見据えていた。
「な、なんだよ」
そして俺を指差して高らかに宣言した。
「根元直樹! 私の下撲になりなさい!」
「断る」
俺の短い返答に豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くしていた。
「なっ! この私からわざわざ下撲にさせてやるって言ってるのになんて失礼な。それとも野蛮人だから礼節がなってないの?」
野蛮人しつこいな。
「俺は誰かの下につくことは絶対にしない。お前だって俺が回りからどういう風に思われてるかわかるだろ」
「一匹狼、だったわね」
「わかってるじゃないか」
「それが何だって言うのよ」
「誰かと仲良しこよしなんか反吐が出る。ましてや下撲なんか愚の極みとしかいえない」
第一下撲なんて誰が好き好んでなるかよ。
「失礼します。少し誤解なされてる様子ですので、私から説明させて下さい」
横から千尋と呼ばれていたメイドが割り込んできた。
「お嬢様は唇を奪った根元様に責任をとって頂くため、当家の、ひいてはお嬢様の執事になるようおっしゃっています」
「執事?」
「はい」
少し疑問に思うことがあった。
「一つ二人に言いたいんだが、何で俺が何かしなくちゃいけないことになっているんだ?」
「まだわからないの? あんたは本郷家の跡取り娘たるこの私と接吻したのよ」
「それがどうしたんだ?」
「このことがもしお父様に知れたら、例え偽りだったとしてもあんたは間違いなく死ぬわよ。お父様、そういうことには容赦しないから」
「……」
そういやこいつの親、有名な貿易企業の社長だったか。
金に物を言わせた脅迫とか考えたら……恐ろしい。
「どうやら、理解したみたいね」
「……一応」
いやはや、どうしたものか。
「で、でもそれが直接俺が執事をやる理由にはならないだろ」
「そうね、でも私がお父様に報告したらどうなるかしら?」
「……何が言いたい?」
「私の下撲をしたら今日の蛮行は目をつぶってあげてもいいわよ」
「てめぇ」
「あら、逆らう気?」
「……チッ」
どうやら本郷は俺の舌打ちを肯定と捉らえたようだ。
「じゃあ決まりね。今日は帰っていいわ。明日荷物を持ってここに来なさい。あ、ちゃんとバイトとして給料払ってあげるからありがたく思いなさい」
「いらねぇよ」
バイトで執事ってどんな事情だよ。
ったく、しょうがねぇな。
下手に逆らったらどうなるかわかったもんじゃない。
俺は仕方なくその命令に従うことにした。
翌日。俺は適当な着替えを中学校の修学旅行とかで使ってた遠征バッグに入れ豪邸に向かった。
改めて本郷の家を見るが、でかい。小規模の大学レベルの広さじゃないかこれ。どうやったらこんな家に住めるのか。
二m程の長方形の形をした鉄の門の側に備えてあった防犯カメラのようなものに視線を合わせると、程なくして鉄の門がゆっくり開いた。うおぉすげぇ。
「お待ちしておりました、根元様」
空いた鉄の門の先にはあのメイドが一礼していた。
「えっと……」
「お嬢様が玄関にてお待ちしております。どうぞ、こちらへ」
「お、おう」
言われるがままに進む。案内がなければ簡単に迷いそうだし従うしかない。
と言っても、目前に堂々と豪邸の玄関と思しき入口が見えるけど。
その入り口のドアを開くと目の前に本郷が仁王立ちしていた。
「遅い! 下撲ならもっと早く来なさい」
「うるさいな、ちゃんと来てやってるんだから文句言うなよ」
「ふん。とにかくあんたの部屋用意したから。行くわよ」
何故か怒っている本郷の後について行った。
「それじゃ、これに着替えなさい」
今後俺が生活することになった昨日の部屋に案内された後、そう言って執事服を手渡された。
今まで着たこともないスーツのような正装着で抵抗があったがしょうがなく着る。高校がブレザーでよかった。
「ほら、着替えたぞ」
廊下に出て少しぶっきらぼうに言ったとき、本郷は俺を見て顔を赤くしていた。ついでにあのメイドも黙然と立っていた。
「や、野蛮人にしては多少似合ってるわね」
「なんか言ったか?」
「な、なんでもないわよ! とにかく千尋。この野蛮人、改め下撲に仕事を教えてやって」
本郷は俺を睨みつけた後回れ右して廊下を走って行った。顔赤かったけど、あいつ熱でもあるのか。
「一つ質問をしていいか?」
俺は向きを変え相変わらず無表情で佇むメイド女に質問した。
「はい」
「俺はあんたとどう接すればいい?」
「根元様にお任せします」
「はあ」
とりあえず、千尋さんって呼ぶか。一応俺の上司? みたいなもんだし。
「では、まずは掃除の仕方を教えます」
千尋さんは掃除を始めとする下働きの仕事を淡々と、しかし地味にわかりやすく説明してくれた。
それにしても、改めて豪邸の広大さを思い知らされる。どれだけの人がここに住んでるか知らないけど、百人くらい住んでいないと持て余すに違いない。
とりあえず千尋さんに指示された部屋を順番に掃除していく。
千尋さんに渡された家の図面が書かれた紙のおかげで迷わなくて済みそうだ。流石メイドだけあって細かい気配りが行き届いてる。
あれ、そういえばなんで千尋さんは執事になった俺のことを様付けで呼んでるんだろ。他にしっくりくる呼び方がないのか。
まあいいや。気にすることでもないな。
昼食を挟んでせっせと掃除しているけど、終わりが見えない。あぁ、掃除は大きくみれば終わらないものだったな。
十個目の部屋を掃除しようと少ししわくちゃになった図面を確認してみると、他の部屋より格段に広い箇所に位置していた。
ここってもしかして本郷の部屋か。本人いるなら後回しの方がいいだろうな。
……よし。十一個目のここにしよう。きっと今までの部屋と似たような感じの、物置部屋か客人用の部屋といったところだな。どんだけ持て余してるんだよ。
その十一個目の部屋のドアを開ける。
目に入ってきたのは誰かがそこで生活しているとわかる物が雑多した光景。
そして――
その部屋の中央にいた着替え途中であられもない姿の本郷と目が合ってしまった。
「あ……」
「え……」
三秒後。
「きゃあああああ!」
悲鳴と同時に本郷の近くにある物が片っ端から俺の方へ飛んできた。
「この野蛮人! 散れ! 腐れ! 永久に死ね!」
「わっ! すまない、今すぐ出る!」
俺は飛んでくる物を一つ一つ止めながら部屋を出る。
「そ、掃除しにきただけなんだ」
「なんで私の部屋に来るのよ!?」
「いや、千尋さんに言われた場所にここも含まれてたから」
「……」
ん? 返答がなくなったな。
「おーい、どうしたんだ?」
「着替え終わったわよ。入ってくれば」
明らかにふて腐れたとわかる声を聞いて中に入る。
流石にこれは俺の責任である。ちゃんと謝らないとな。
「本郷、すまない」
反省の意を込めて深々と頭を下げた。俺の見当違いで起こったことだしな。
「接吻に続いて覗きまでやらかすとはとんだ変態のようね。最低だわ野蛮人」
「本当にすまない。悪気はこれっぽっちもないんだ」
「……随分素直に謝るわね」
「え?」
本郷の一言に俺は下げていた頭を上げてしまった。
「なによ」
「いや、もっと罵倒とか暴力がくるのかと思ってたから」
「もしかしてされたかったの? 流石は変態」
「そ、そんなわけないだろ!」
俺はMじゃない。どちらかというとSだ。喧嘩を売ってきた相手を返り討ちにしてこう、プライドがズタズタになるまでいたぶr――
「と・に・か・く! 罰としてこの部屋を徹底的に掃除してもらうわよ! 少しでも汚かったらお父様に報告するから」
ったく、卑怯な脅しをちらつかせやがって。
しかし今回は完全に俺が悪い。不可抗力とはいえ女性のあらぬ姿を見てしまったのはこちらに非があるとしか言いようがない。
……本気で掃除するか。
三十分後。
そこには先程とは段違いに整然となった清潔感たっぷりの空間が形成されていた。
「き、綺麗……」
ずっと俺の仕事ぶりを監視していた本郷がまじまじと部屋を見渡して感想を述べた。
「どうだ。俺が本気出せばこんなのちょろいもんよ」
「べ、別にあんたのことを感心してるんじゃないんだからね。このくらい誰だってできるし、千尋なんか空気のハウスダスト一つ一つまで綺麗にしてくれるんだから」
ハウスダストって、そりゃ俺には無理な相談だ。
「それじゃあ千尋さんにここの掃除の担当を外してもらうから、その千尋さんにハウスダスト一つ一つまで綺麗にしてもらってくれ」
大活躍してくれた新品の掃除用具を手に持ち部屋から出ようとした。
「ま、待ちなさい」
「なにか用か?」
「千尋より短い時間でこの状態に出来たことは評価に値するわ。別にあんたでも構わないわよ」
「そうか、わかった」
遠回しな言い方でよくわからないが、ようは次も頼むと言うことだろう。
「ねぇ、あんた少しは抵抗しようと思わないの?」
ドアノブの前で背後から聞こえたその発言に、憤りを感じて皮肉交じりに言い返した。
「この状況にか? お前がさせたくせによく言えるな」
何か反論が来ると思ったが、予想とは掛け離れた反応が返ってきた。
「……ごめん、聞かなかったことにして」
しおらしく言う本郷の様子を見て何だがいたたまれなくなった俺は、早急に荷物を持ってその場を離れた。変なやつだな。
「ふぅ」
千尋さんに休んでいいと言われ、今日俺に宛てがわれた部屋で一息つく。
執事って大変だということがたった一日で重々理解してしまった。掃除だけでここまで労力を費やすとは。
あの後、他のメイドの人に何人か出くわしたが動きが凄すぎて真似しようとか思えないくらいプロフェッショナルだった。
特に千尋さんはメイド長らしく最早形容できない領域に達している。あれが人間のできる所業なのか……認識を改めなければ。
こんなところで生活する自信がなくなりそうだ。
それにしてもさっきの本郷の様子が気になった。
ただの嫌味を言われたのかと思ったが、後の反応を見たらそんなものではないと考えさせられる。
俺に、何か言いたいことでもあったのだろうか。
「失礼します」
ドアを叩く音の後に千尋さんがスッと入ってきた。
「何か用か?」
「はい。根元様にお話がございましたのでお伝えに参りました」
千尋さんは俺の目の前でスッと一礼して切り出した。
「お嬢様の専属執事になっていただけませんか?」
「えっと、専属執事?」
「はい」
「単刀直入に聞くけど、なんでだ?」
「今日一日辺りを清掃して気が付いたかと思いますが、この敷地には根元様以外男性がいません。更にお嬢様のご両親にあたるご主人様と奥様もご多忙でここにお戻りになることは滅多にありません」
そういえば、メイドは見かけても執事は見かけなかったな。
「それが?」
「お嬢様は幼い頃からお二方とあまり過ごすことが出来ずにおられました。ですので、親しい人物からの愛情というものをあまり知りません」
急に話が重くなった。
「……大変だな、あいつ」
「我々メイドではその役は務まりません。ですが、今日付けでこの家の執事になったとはいえ根元様はお嬢様のクラスメイト。さらにあれだけお嬢様と親しく接することが出来るなら全く問題ありません」
あれを仲いいと解釈しますか。すごい神経してるよ全く。
「つまり、だな。俺が両親の代わりみたいなことをやれ、と?」
「いえ、ただお傍に居てくださるだけで充分です。表面上こそあのような態度をとっていらっしゃいますが、きっとお嬢様も嬉しいはずです。昨日、根元様が執事になるって喜ばれていましたから」
え、は?
「あいつが……喜んでいた?」
「はい」
マジかよ。全く理解できん。
「根元様の意思に反した形でこのような事態になってしまったことは謝罪させていただきます。申し訳ございませんでした」
「いや……それはもういいから」
「ありがとうございます。しかし、根元様には出来るだけ、下働きではなくお嬢様のよきご友人となっていただきたいと思ってます」
ああ、そうか。だから――
「そう思っていたから、千尋さんは俺のことを根元様と呼んでいたわけか」
「その通りです。あくまで我々メイドの中では根元様はお嬢様のご友人という認識でおります」
「あの、さ。俺あいつとこんなことするような仲じゃなかったんだけど。友達ですらないしさ」
「そう、でしたか。それでも、お二方はお似合いですよ」
「それはないから!」
あいつとお似合いとかあり得ん。
でも、千尋さんが自分の主である本郷に対して危害を加えた俺相手にそんなこと思ってると聞いたら……断れない。
「千尋さんはそこまであいつのことを思っているんだな」
「はい。お嬢様は……舞様は私の恩人ですから」
今まで無表情を貫いていた千尋さんの顔が少しだけ緩んだ気がする。
決断は下された。
「承諾してくださいますか?」
正直言ってめんどくさいし、あんなやつと過ごすなんてことはごめん被りたいところだ。今すぐこの状況を誰かに譲りたい。
「わかった。こんなろくでなしでよければ」
「良きご返事、感謝致します」
でも、こんな俺を――ろくでなしの不良を誰かが必要としてくれているんだ。
出来る限りのことは、やってやろうじゃないか。




