Battle.2 彼女の難題 <4>
よーく考えたら何で私は必死で問題を解き始めてしまったのか。
してもしなくてもキスの刑なんてどっちに転んでも私からすれば罰にしか思えない…こんな不条理な賭けにのってしまった自分の浅はかさを恨む。
ドラえもんが居たらタイムマシーンに乗って二時間前の自分を殴りに行きたい…
いや、彼氏相手にひどい言いようと思われるかもしれないけど未だに慣れないんだから仕方ない。
私の貧困な恋愛経験で、先輩みたいな人と最初に付き合うっていうのが高いハードルなんだと思う。
しかもね、何だかんだと逃げて来たから、実は先輩と気持ちが通じてからのキスは未だだったり。
最初無理矢理されたけどあんなのはノーカウントだもん。
「ほら、志保。」
私が現実逃避をしてる間にも先輩は嬉しそうに私の回答をチェックしていく。
「シャッ」という跳ねた音と「シュッ」っていう丸のつく音が聞こえてくる。
恐くてノートが見れない…思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。が、
「点数出たよ」
「うっ…」
否がおうにもこの時は来る訳ね…
「それで…」
恐る恐る結果を尋ねると、先輩は見目麗しい微笑を見せてくれた。
その辺りの女の子だったら心拍数30は上がったんじゃないかなというくらいに。
でも私は騙されない…むしろ悪魔の笑みに見えるから。
「おめでとう、80点。なかなか頑張ったね」
「え!?ほんとですか!?」
思いがけないお褒めの言葉。確かに手応えはあったけど、そんなにとれてるとは思わなかったからびっくりして私は思わずノートを覗き込んだ。
「うん。問題としては基礎から応用、ちょっと難しいのも入れたしこの調子ならテストいい線いくかんじゃない」
数学で80点以上なんて中1の二学期以来かも…
そう考えて思わず顔がにやけてしまう。我ながら単純だ。
「先輩っ、ありがとうございます!うれしい…」
手にしたノートに「80点」が書かれているだけで私にはそれが特別なものに見えてくる。
「ん、じゃあ、約束のちょうだい」
「はい…?え、あっ!」
つい点数にばかり気が行っていた私はその瞬間、賭けの事なんてさっぱり忘れていた。
昔からこうなのよ、私って爪が甘いというかなんというか…
「志保、約束。半分以上取れたから俺からね」
って、それって先輩が勝手に約束立てたんでしょ!
なんて思っても、私はさすがにそれを口に出す勇気はない。
だって、この結果が出たのは他の誰でもなく先輩が教えてくれたお陰。故に強くは出られない。
「…ほんとにするんですか…?」
最後の足掻きで期待を込めて聞いてみる。
「んー」
先輩が笑ってる…こんな時、ろくな返事はもらえないことをきちんと知ってる私はもう十分毒されてるんだと思う…。
「そんな目でみてると誘われてるみたいなんだけど?」
「はい?」
この人、今なんて言いました?
「無自覚なんだろうけど、そういう潤んだ目で見られると誘われてるみたいに見えるよ」
次の瞬間、火が灯ったように顔が熱くなったのを感じた。
絶対真っ赤になってるのばれてるし…恥ずかしい…
「へ、変なこと言わないで下さい!」
悔しいからぷいっと顔を背けてみるけどこんなのに効果がないことは100も承知。
人が必死であわててるのにこんな余裕見せられたら腹立つもん。
「くすくす、志保?」
耳元に優しい声と吐息が掛かるから、思わず体がびくっと反応してしまう。
「ほら、こっち向いて」
ぐいって、でも顔を両手でそっと挟まれるようにして向けられた先にあったのは先輩のちょっと意地悪で優しい顔。
最初はこの顔が大嫌いだったのに、いつから好きに変わったんだろう?
悔しいけど、こういう顔は私にしか見せないから、特別な気がして嬉しくなる。
いっそ、何も言わず無理矢理してくれたほうが楽なのに。
そんなこと恥ずかしくて口になんか出せないけど。
でもきっとこうやってからかって動揺させるのすら先輩の手なんだと思うから。
「約束は?」
「許してください…」
「だーめ」
「どうしてもですか…?」
「うん」
果てしなく続きそうな押し問答。必死のお願いもどうにも聞き入れてもらえそうにはなく、加えて先程からのこの至近距離。
いっそあの時みたいに無理矢理してくれたら楽なのに。なんて思うのは都合がよすぎ?
きっと先輩は私のこの動揺すら楽しんでいるのだろう。
「志保、約束は守らないといけないよね?」
「えっと…その…」
多少なりとも剣道を志していた私は、そういう約束とか仁義とかという単語に弱いのよ。
「ほら、おしゃべりは終わりだから目閉じて」
いきなりぐいっと顎が上げられる。
現在至近距離、6センチ?5センチ?もちろん私の心臓は急速に警戒音発生中。
目を合わせていられなくて、先に負けた私は思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
悔しいけど、いつもとまた違った熱の籠もったどこか真剣な表情に心臓が跳ねてしまったのだ。
気配で先輩が近づいてくるのが分かる。
心臓はパンク寸前だ。
「拓也~入るわよ~?」
「え…きゃっ…!」
あと少しというときに、軽いノックと綾乃さんの声が耳に入って来たものだから、思わず先輩を突き飛ばしてしまった。
虚を突かれて一瞬態勢を崩しかけたけど、先輩は何とか持ち前の運動神経で転倒は免れたみたい。
「あら?お邪魔だったかしら?」
綾乃さんがわざとらしくちょっと意地悪に尋ねてくる。
こういうときの表情が、双子だけあってそっくりだなんて思っても口には出せません。
「全然そんなことないですよ!」
「かなり邪魔」
私と先輩の声がはもる。
先輩は明らかに不機嫌といった態度を隠さない。
でも、流石がというかなんというか。先輩が魔王様なら綾乃さんは女王様だわ…
私だったら思わず引いちゃうような重低音にも、双子だけあって負けていない。むしろ気にすらしてない。
「あら?志保ちゃんはそんなことないっていってるけど?」
怯むどころか煽ってるんだもん。
当然私は黙ってるわよ。
こういうとき口出してとばっちり食うのが分かり切ってるからね。
「何で帰ってくるのこんなに早いんだよ。夕方って言ってただろ?」
「そのつもりだったんだけど、相手の子が急用で帰っちゃったから」
「ふん、どうせ彼氏のとこにでも行ったんだろ。休日に淋しいヤツ」
「あーら、私は拓也と違って友達も大事にするの。ね、志保ちゃん、お土産にケーキ買ってきたからあっちで食べましょ?」
「え?え?」
一連のやりとりを口を挟む事無くぼーっと見ていた私は、急に取られた手にあっさりと引かれてしまう。
「おい、綾乃っ」
当然、先輩が引き止めようとしたくらいで綾乃さんが止まるわけなく、そのまま私はずるずると綾乃さんに居間に連れていかれる事になる。
この強引なとこに血の繋がりを感じてしまったのはもちろん口には出せない。
「これ、ブランのケーキですか?」
居間のソファに腰掛けると、綾乃さんが買ってきてくれたらしい10個は入ってるんじゃないかというケーキの入った箱を差し出された。
「そうよ、志保ちゃん知ってる?」
「はいっ、大好きなんです。ここのはショートケーキが特に好きで」
「あら、志保ちゃんも?私もここのショートケーキが大好きなのよ。じゃあ、一つはショートケーキで決まりね。で、こっちが今月の新商品らしくて、もう食べた?」
「いえ、まだです。生クリームたっぷりのシフォン…美味しそうですね」
「でしょでしょ。じゃあ、これも食べてみて」
最初は押され気味だったけど、会話のきっかけさえ掴めばそこは女の子同士、打ち解けるのも早かった。
いつの間にか菊さんがお皿とフォーク、紅茶を用意してくれていたから、そのまま美味しく戴くことにする。
甘みを抑えたミルクティーがすっごく美味しくて、ケーキに良く合ってる。
ちなみに先輩がぶすって明らかに不機嫌を態度に出してこっちを見てるんだけどね。
「先輩は何が好きですか?」
綾乃さんは気にもしてないみたいだけど、放っとくわけにもいかないから、恐る恐る尋ねてみる。
「…さっきの続き」
事もなげに返ってきた返答は私の顔を真っ赤にさせるには十分効果があった。
瞬間にして、つい先ほどの先輩の部屋での光景がフラッシュバックする。
「せ、先輩!」
綾乃さんや菊さんの居る前で何を言いだすのかと慌ててたしなめた。
「くす。拓也、あんまり独占欲丸出しにしてると嫌われるわよ?」
この言葉も先輩の機嫌を損ねるには十分の力があったと思う。
ムッスーっていかにも不機嫌ですって目でこっちを見てくる。
言ったのは私じゃなくて綾乃さんですよ…
「ねえ、志保ちゃん?」
綾乃さんも煽らないで!
慌てる私を見て綾乃さんは笑い、先輩ははぁっとため息を洩らす。
「ほんと、志保ちゃんって分かりやすいのね」
何か、前にも先輩に似たようなこと言われた気がする…
「綾乃、志保で遊ぶなよ?」
「あーら、志保ちゃんで遊んでいいのは自分だけって?ほんと、独占欲強いわね」
私、からかわれてたんですか?
先輩がいかにも馬鹿な子を呆れてみるみたいな目で私を見てる。
悔しい。悔しいけど言い返せないのがもっと悔しい。
いや、悔しがってる時点で認めてる自分が悲しいというべきか…
「志保は俺のなの」
「あら、志保ちゃんはモノじゃないんだからちょっとくらい私にも貸してくれたっていいじゃない」
綾乃さん、それ、何気にかなりおかしくないですか…
心中で激しく突っ込んでしまった私に先輩が私を見て釘をさす。
「志保、綾乃はこういうヤツだからあんまり近づくなよ」
「あら、生憎ね。志保ちゃんと付き合えるようになったのは誰のお陰かしら?」
「忘れた」
この兄姉、ほんと、良く似てる。
どっちも負けてないんだもん。
うーん、でも、何か余裕がある分、綾乃さんの方が強いのかな。
「お二人とも、それくらいにしておかないと、志保さんが可哀想ですよ?」
そこで助けてくれたのは、菊さんだった。
どこか楽しそうに笑いながら、私のティーカップにお茶のお替りを注いでくれる。
「ごめんね、志保ちゃん。拓也が面白いからつい。ほんと、この子、志保ちゃんのコトとなると変わるんだから」
それはどういう意味でしょうか?
疑問に思いつつ、先輩を見ると、苦い顔をした。
「…チーズケーキ取って」
明らかに話題を変えたわね。
でも、そこで突っ込まないほうが得策なのもしっている私は、素直にケーキ皿にベイクドチーズケーキを乗せた。
そんな私たちを見て、顔を見合わせて笑ってる綾乃さんと菊さんを先輩は横目で睨むけど、口を開かない辺りが多分、綾乃さんとの力関係をあらわしているんだろうなと思う。
だから、私はさっきから疑問に思っていたことを口に出して聞いてみた。
ちょっと先輩の助け舟をこめてね。
「先輩と綾乃さん、双子って聞きましたけど、どちらが先に生まれたんですか?」
「志保ちゃんはどっちだと思う?」
尋ねたら逆に聞き返されちゃったから、ちょっと慌てるけど、思ったとおりで答えてみた。
「え、えっと…綾乃さん…?」
「くすくす、当たり」
やっぱりというべきか何と言うべきか。
「ちなみに、私たちは二卵性だから、そっくりっていう訳でもないわけよ。だから志保ちゃんも最初に私見たとき、まさか姉弟だなんて思わなかったでしょ?」
「…はい」
また自ら墓穴を掘ってしまった。
出来ればあのときの醜態は未来永劫忘れて貰いたいんだけど…
「もう忘れて下さい…あれはもう…」
恥ずかしさを隠すように私は残りのケーキを口に押し込んだ。
「でも、私もまさか拓也が私に頼むなんて思わなかったからびっくりしたわよ。しかもその理由が」
「志保、ケーキ食べ終わったなら続きするから戻るよ」
綾乃さんの話をさえぎるように先輩が口を挟む。
ちょっと聞きたかったのに…
でも、当初の予定は勉強だから、強く出るわけにも行かず、そのまま私は綾乃さんと菊さんにお礼を行って先輩の部屋に戻る。
御昼のときもそうだけど、片づけを手伝うと申し出ると、これは自分の仕事だからと菊さんに言われた。
何か、食べるだけ食べたって感じがして悪いと先輩に言うと、笑われた。
「志保は変なところで気を遣うよね」
「食べたら片付けるって当たり前のことじゃないですか。しかもご馳走になったんだから、余計に片付けくらいして当たり前なんです」
むっとして返すと、笑って頭を撫でられる。
「そういうこと、出来ない子多いから、えらいえらい」
「こ、子ども扱いしないでください!」
「そうやってムキになるところが子供なんじゃないの?」
「い、イジワル…」
「知ってるだろ」
そうやってニッ笑うその顔にさえドキッとしたなんて、口が裂けてもいえないわ…
結局、その後も豪勢な夕ご飯をご馳走になってしまって、ほんと何しに行ったんだろうっていう疑問がわいてくる。
流石に、夕ご飯のときは御断りしたんだけど、折角作ったんだからと勧められたら断るわけにもいかない。
片づけを手伝わせてもらうという交換条件で頂くことにした。
「あら、お孃様も手伝って下さるんですか?」
「だって、お客様の志保ちゃんが手伝ってくれてるんだもの、家人の私がソファーでくつろぐなんて出来ないでしょ?」
そんな経緯で女三人で台所に立つ。
先輩は居間でTV見てる。
いくら広いって言ったって、これだけの片付けにそんなに人はいらないもんね。
「それにしても、志保ちゃんがいい娘でよかったわ」
「え?」
洗い終わって、最後の一枚を手渡すときに綾乃さんが突然言い出した。
「拓也の事、よろしくね」
そのときの綾乃さんの顔はお姉さんの顔で、私は特に何も言うことができず、ただ頷くしか出来なかった。
「ねえ、菊さん。志保ちゃんがお嫁にきてくれるのが楽しみね」
「あ、綾乃さん!?」
「はい、そうですね」
「菊さんまで何を言い出すんですか~~」
冗談だろうけど、こんなことを言われて照れない女の子はいないよ…
恥ずかしくて慌てる私を、二人はくすくすと笑っていて。
でも、その顔がとっても優しくて好意的だったから、素直に嬉しいとも思った。
「随分賑やかだったけど、何喋ってた?」
先輩のお家からの帰り道。
夏が近いとはいえ、時間が時間だから真っ暗で、いつものように結局送ってもらっている。
「内緒ですー」
「言えないようなことなんだ?」
「女同士のおしゃべりですもん」
「女同士ねぇ…。綾乃が絡むとろくな話じゃなさそうだ」
「ひどいですよ?綾乃さん優しいじゃないですか」
「優しい…あいつが…?」
心底不思議そうに首をひねる先輩が面白い。
「私も兄がいるから分かりますけど、キョウダイってそう言うものですよね」
「志保、お兄さんがいるの?」
「あれ?言ってませんでしたっけ?上に二人居ますよ。しかも…」
「しかも?」
「くす。内緒にしときましょう。その方が楽しそうですし」
「何それ」
「まあまあ…あ、家着きました。ありがとうございます」
丁度この角を突き当たったところに我が家はある。
「ん。ちゃんと復習するように」
「分かってますよ。夏休み遊びたいですもん」
「くすくす…そんなに俺と遊びたいの?」
「っ…先輩っ!」
どうしてこの人は臆面もなくこういうことが言えちゃうのかな…
「はいはい、じゃあ、また月曜、朝迎えに来るよ」
「…無理しなくていいですよ?」
「無理じゃないよ、じゃあね」
そう言って先輩はひらひらと手を振って元来た道を帰って行こうとする。
今日ずっと一緒に居たから、急に離れるのがちょっと寂しくなって、私は思わず呼び止めた。
「…先輩!」
私の声掛けに先輩がふっとこちらに向きかけたところを狙って、私はぐっと先輩のシャツを握って寄せた。
思っていたところとはちょっとズレたけど、頬にキス。
ちょっと驚いた風に、目がおっきく開かれた先輩の顔。
これが見れたからちょっと勝った気分になる。
「今日はありがとうございました!じゃ、おやすみなさい!」
でも、とてもじゃないけど恥ずかしかったから、あんまり顔も見ないで言うだけ言って逃げるように家に入った。
玄関を背にして顔の火照りを覚ますように頬を軽く叩く。
どきどきしっぱなしの一日。
でも、それなりに楽しかった。
「後でメールでもしようかな…?」
そう呟きながら、まずはこの火照りをさますべく、志保は洗面所に向かった。
そして、その後に残された拓也がくすっと笑って、「テスト終わったら何してもらおうかな」と呟いたことは、志保は知らないほうが幸せな話…