VTuberとリスナーの距離
VTuberとは、2016年頃から広がり始めたとされる、比較的新しい文化である。
YouTuberとして活動する場合、自ら顔を晒す者もいれば、手元だけを映し、背景やガラスへの反射にまで気を配りながら、可能な限り身元を隠そうとする者もいる。
インターネット上で顔を公開するということは、それだけ個人情報の漏洩や身元特定の危険を増やす行為でもある。
その点、VTuberは少し特殊だ。
現実の自分自身ではなく、Live2Dや3Dモデルなどの姿を介して活動する。
現実の容姿を公開する必要がなく、顔出しによる直接的な身バレの危険を減らしながら、声や人格、技術、会話などを使って人前に立つことができる。
そう考えれば、VTuberという仕組みは、配信という文化と匿名性をかなり上手く組み合わせたものだと言えるだろう。
もっとも、VTuberなら安全というわけでもない。
顔を出していなくても、声がある。
話し方がある。
生活について語れば、そこから居住地域や職業、生活時間などを推測される場合もある。
長く活動すればするほど情報は蓄積されていく。
本人が積極的に身元を公開しているわけでもないのに、それらの断片を集めて現実の人物を探し出そうとする者も存在する。
そこまで行けば、活動者ではなく、特定しようとする側の問題だろう。
場合によっては、ストーカーに近い。
しかし、誰が悪いかという問題とは別に、危険が存在するという現実まで消えるわけではない。
つまりVTuberは、匿名性によって一部の危険を減らせる一方、活動する以上は別の形で自分に関する情報を世界へ出し続けるという、少し矛盾した存在でもある。
それでも、その危険以上にVTuberとして活動することへ価値を感じるのであれば、それは十分に選ぶ価値のある道だと思う。
人間には、社会の中で求められる役割がある。
仕事に就き、収入を得て、社会の歯車として働く。
家族から期待される生き方もあれば、世間から安定していると評価されやすい生き方もある。
それらを選ぶこと自体は何も間違っていない。
むしろ現実的である。
だが、社会が評価してくれる道を選んだからといって、本人が幸せになれる保証まではない。
家族の期待に従っても、後悔しないとは限らない。
安定を選んでも、その安定の中で毎日を苦痛に感じる可能性はある。
逆に、VTuberになるという不安定な選択をしたからといって、それが必ず愚かな選択になるわけでもない。
結局のところ、自分が何を重視するのかという話になる。
ただし、VTuberになれば自由になれる、好きなことをして生きられる、というほど甘い世界でもない。
むしろ、自由を求めて入った先に、別の不自由が待っている。
この文化を見ていて面白いと思うのは、そこなのである。
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VTuberになるだけでも、それなりに大変である
VTuberは、スマートフォン一台あれば誰でも始められる、という意味では確かに参入しやすい。
だが、ある程度まともに活動しようと思えば話は変わってくる。
パソコン。
マイク。
通信環境。
配信ソフト。
モデル。
トラッキング環境。
場合によってはオーディオインターフェースや照明、防音設備なども必要になる。
そして、機材以上に重要なのが時間である。
配信を始めれば、一時間や二時間は簡単に消える。
長時間配信なら数時間。
配信前には準備があり、配信後には片付けや確認がある。
動画を作るなら編集時間が必要になる。
SNSを運用するなら、そこにも時間を使う。
サムネイルを作り、タイトルを考え、企画を練り、予定を組む。
歌を出すなら練習も必要になる。
ゲーム配信だからゲームをしているだけ、というほど単純ではない。
趣味として気まぐれに活動するならともかく、一定以上の結果を求めるのであれば、VTuberはかなり時間を食う。
だから、始められることと続けられることは別問題になる。
仕事をしながら毎日配信する人もいる。
学生生活と両立する人もいる。
専業で活動する人もいる。
家庭を持ちながら続ける人もいる。
それぞれ条件は違う。
何が正解かではなく、継続できる環境があるかどうかが重要なのだと思う。
行動力だけではどうにもならない部分もある。
どれほどやる気があっても、生活そのものが破綻すれば続かない。
だからVTuberという活動は、意外と余裕を必要とする。
金銭的余裕。
時間的余裕。
精神的余裕。
少なくとも、そのどれかが極端に欠けていれば、継続は難しくなる。
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人気という分かりやすい数字
VTuberには、人気をある程度数字で確認できる仕組みがある。
その中でも最も分かりやすいものが、チャンネル登録者数だろう。
一万人。
十万人。
百万人。
数字が増えていけば、それだけ多くの人間がそのチャンネルを登録したことになる。
当然、人気の一つの指標ではある。
ただし、ここで注意したいのは、登録者数がそのまま現在の視聴者数でもなければ、そのVTuberの価値そのものでもないということだ。
何年も活動すれば、既に見なくなった登録者も蓄積される。
ショート動画で大量に登録者を獲得した者と、長時間配信で固定視聴者を積み上げた者でも数字の意味は違う。
登録者十万人と登録者一万人を比較して、前者が十倍優れた配信者だという話にもならない。
だが、それでも登録者数には意味がある。
少なくとも、それだけ多くの人間に一度は「今後も見てもよい」と思わせた結果だからだ。
そして、この数字を集める能力というものが存在する。
私はここをかなり重要だと思っている。
単純に面白ければ伸びる、という話ではない。
まず、見つけてもらわなければならない。
存在すら知られていない人間が、どれほど面白い配信をしていても、視聴者は来ない。
だから最初に必要なのは、発見される能力になる。
タイトル。
サムネイル。
ショート動画。
SNS。
流行。
コラボ。
検索。
おすすめ。
場合によっては偶然。
そうして人が来たら、次は興味を持たせる必要がある。
モデルが好みだった。
声が好きだった。
話し方が面白かった。
ゲームが上手かった。
反応が面白かった。
知識があった。
何か一つでも引っ掛かれば、少し見てもらえる。
その次には、見続けてもらう能力が必要になる。
さらに、また見たいと思わせる能力が必要になる。
その結果として、登録される。
登録された後には、今度はファンとして定着してもらう必要がある。
つまり、
発見される。
興味を持たれる。
視聴される。
登録される。
再び見てもらう。
ファンになる。
ここまで全部違う能力なのである。
だから人気というのは、一つの才能だけでは説明できない。
話術が抜群でも伸びない人はいる。
ゲームが異常に上手くても伸びない人はいる。
歌が上手くても見つからない人はいる。
逆に、それぞれが突出していなくても、総合的なバランスと活動方法が上手く噛み合えば伸びることもある。
そして当然、運もある。
時流もある。
人脈もある。
アルゴリズムの影響もある。
人気は実力と無関係ではないが、実力だけでも説明できない。
だから数字だけを見て人間の価値を決めるのは雑なのだが、数字を集める能力そのものまで否定するのも違う。
人気を集めることも、立派な一つの能力なのである。
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VTuberは何をしているのか
VTuberというと、ゲーム配信を思い浮かべる人が多いかもしれない。
実際、ゲーム配信は非常に大きな活動の一つだ。
だが、それだけではない。
雑談。
歌。
ASMR。
企画。
参加型。
コラボ。
ショート動画。
動画投稿。
ライブ。
イベント。
企業案件。
グッズ。
活動内容はかなり広い。
そして面白いことに、この活動内容を見るだけでも、そのVTuberが何を重視しているのかがある程度見えてくる。
もちろん断定はできない。
ゲーム配信が多いからゲーム好きとは限らない。
伸びるからやっている可能性もある。
雑談配信が多いから人と話すことが大好きだとも限らない。
仕事として求められているから続けている可能性もある。
だから、行動から性格を直接決めつけるのは危険である。
しかし、活動には選択がある。
何をするのか。
誰とするのか。
どれくらいするのか。
どんな失敗を許容するのか。
コメントをどれほど拾うのか。
伸びない企画を続けるのか。
数字の取れる企画へ移るのか。
一人で活動するのか。
積極的に人と関わるのか。
そこには本人の性格だけでなく、目的や価値観、戦略がある程度表れる。
たとえば、数字が伸びなくても好きなゲームを延々と配信する人がいる。
この場合、少なくとも数字以外にも強い目的がある可能性が高い。
一方、流行しているゲームへ素早く移動し、ショート動画を大量に投稿し、積極的にコラボへ参加する人もいる。
こちらは成長や拡大を重視している可能性がある。
もちろん、それが悪いわけではない。
VTuberになった理由も人それぞれだからだ。
有名になりたい。
お金を稼ぎたい。
ゲームをしたい。
歌いたい。
誰かと話したい。
自分の創作を見てもらいたい。
人から認められたい。
現実ではできない自分を表現したい。
居場所が欲しい。
会社員とは違う生き方をしたい。
複数の目的を同時に持つ人もいるだろう。
さらに、その目的は活動を続ける中で変化する。
最初は趣味だったものが仕事になる。
人気を求めていた人が、固定ファンとの交流を重視するようになる。
逆に、好きなことだけしていた人が、生活のために数字を考えるようになる。
VTuberはキャラクターではあるが、その中には人間がいる。
だから変わるのである。
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VTuber配信は、配信者だけでは作れない
ここからが、私がVTuberについて特に面白いと思っている部分になる。
最近のVTuber配信は、かなり協力型になっているように見える。
昔よりも配信する側にノウハウが蓄積された。
同時に、見る側にもノウハウが蓄積された。
どういうコメントが拾われやすいのか。
何をすると嫌われるのか。
どこまでなら冗談として通るのか。
ネタバレは避ける。
過剰な指示はしない。
関係のない配信者の名前を突然出さない。
連投しない。
自分語りを延々と続けない。
配信者が求めていない攻略情報を押しつけない。
こうしたものは、長年の配信文化の中で少しずつ共有されてきた。
そして、リスナーの数そのものも増えた。
結果として、配信者が一人で全てを作るのではなく、リスナーも空気を作る側へ回るようになった。
たとえば配信者が面白いことを言う。
コメント欄に「草」が流れる。
情報としては、ほとんど何も伝えていない。
しかし、意味がないわけではない。
そこが笑う場面だという空気を可視化する。
配信者にも、自分の発言が受けたことが伝わる。
他のリスナーも、周囲が笑っていることを確認できる。
「かわいい」も同じだ。
「8888」も拍手として機能する。
内容を進めるコメントではない。
しかし、空気を作っている。
私は、こういう人を観客型ファンと考えている。
舞台で演者が何かをした時、観客が笑う。
拍手する。
歓声を上げる。
それと似ている。
舞台の内容そのものを作ってはいないが、観客の反応があることで場が完成する。
そして、もう一つが視聴専念型のファンである。
いわゆるROMに近い。
コメントしない。
ただ見る。
笑ったとしても画面には何も書かない。
面白かったら次も見る。
それだけである。
この人たちは、一見すると配信へ何も与えていないように見えるかもしれない。
しかし、そんなことはない。
視聴者である。
見てくれている。
それだけでも配信は成立している。
コメントしなければファンではない、などということはない。
むしろ、非常に気楽な楽しみ方である。
さらに、もっと積極的に配信へ関わる人もいる。
配信者が質問した時に答える。
雑談の話題を広げる。
適切なツッコミをする。
必要な時だけ情報を提供する。
配信者が拾いやすいコメントを投げる。
こうした人は、ある意味では協力者に近い。
配信を見ながら、配信者が使える材料を提供している。
上手いリスナーになると、この距離感が非常に上手い。
目立とうとはしない。
だが必要な時に良いコメントをする。
配信者の邪魔にならない。
自分が会話の中心になろうとしない。
それでも結果として配信を面白くしている。
ここまで行けば、単なる視聴者というより、その配信空間を作る一員でもある。
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だが、全員が協力者になる必要はない
ここで勘違いしてはいけないことがある。
良いコメントを書けないなら配信を見る資格がない、という話ではない。
むしろ逆である。
何も思いつかないなら、何も書かなければいい。
「草」でいい。
「かわいい」でいい。
「8888」でいい。
あるいは、それすら書かなくていい。
ただ見ていればいい。
VTuber配信を見るために、コメントセンスの試験を受ける必要などない。
私はここが重要だと思っている。
配信というものは双方向性が強い。
だから、自分も何か参加しなければならないように錯覚しやすい。
しかし、本来そんな義務はない。
テレビを見ながら出演者へ話しかけないのと同じように、配信も黙って見ていて構わない。
問題は、何かを言わなければならないと思い、自分の存在を配信者へ認識させようとし始めた時である。
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「自我を持ちすぎる」と破綻する
ここで言う「自我を持ちすぎる」というのは、人格を捨てろという話ではない。
意見を持つなという話でもない。
配信者へ何でも従えという意味でもない。
嫌なら見なければいい。
批判的に評価してもいい。
合わないと思えば離れればいい。
自分の時間をどう使うかは自分で決めればいい。
問題なのは、配信を見ながら、
「自分の望むように配信者を動かしたい」
という欲求が強くなっていくことである。
たとえばゲーム配信を見る。
配信者が効率の悪い行動をする。
自分ならもっと上手くできる。
そこで、
「そこじゃない」
「右に行け」
「その装備弱いよ」
「それ取れ」
「なんでそれやらないの?」
とコメントする。
情報自体は正しいかもしれない。
だが、そのゲームをプレイしているのは誰なのか。
配信者である。
視聴者ではない。
配信者が「教えて」と言ったなら話は別だ。
その時には情報提供は協力になる。
しかし、求められていない時に答えを与え続ければ、配信者がゲームを遊んでいるのではなく、視聴者が配信者を操作してゲームを進めるような形になってしまう。
ここで役割が逆転する。
指示厨が嫌われやすい理由は、単純に指示という言葉遣いが不快だからだけではない。
配信の主導権を視聴者側へ持っていこうとするからである。
連投も似ている。
一度書いて反応されなかった。
もう一度書く。
また書く。
また書く。
そこには、
「自分のコメントを読め」
という要求が含まれ始める。
他の何百人、何千人のコメントより自分を優先してほしいという要求である。
自分語りも同じ構造になる場合がある。
配信者が話している。
それに関連して少し自分の経験を書く程度なら自然である。
だが、そこから延々と自分の話を始めれば、
「今度は自分の話を聞いて」
となる。
いつの間にか、配信者を見る場で、自分が見られようとしている。
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ファンが主役になろうとした瞬間
VTuber文化で破綻しやすいのは、ここなのだと思う。
最初は配信者が好きだった。
面白いと思った。
応援した。
コメントを書いた。
何度か読まれた。
名前を覚えられた。
常連になった。
すると少しずつ、自分がそのコミュニティの重要人物であるように感じることがある。
ここまでは人間心理として不自然ではない。
問題は、その先である。
「自分は古参だから」
「自分はこれだけスパチャしたから」
「自分はいつも見ているから」
「自分はこの人を昔から知っているから」
そうした理由で、配信者へ何かを要求できると思い始める。
あるいは、新しい視聴者へルールを押しつける。
自治を始める。
他のファンを監視する。
配信者が誰かとコラボすれば文句を言う。
異性と話せば不機嫌になる。
自分の好きではないゲームをすれば止めさせようとする。
恋愛の噂が出れば裏切られたと感じる。
ここまで行けば、ファンというより管理者に近くなる。
しかし、管理権など持っていない。
VTuberの人生はVTuber自身のものである。
活動の方向性も本人が決める。
企業所属なら企業との契約もあるだろう。
そこへ視聴者が自分の理想を押しつけ始めると、関係は壊れる。
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公開配信は公共物ではない
ここも非常に勘違いされやすいところだと思う。
YouTubeの配信は、誰でも見られる。
だから公共空間のように感じる。
しかし、誰でも見られることと、誰でも好き勝手に振る舞ってよいことは同じではない。
たとえば店は、誰でも入れる。
だからといって、店内で何をしてもよいわけではない。
店には店のルールがある。
迷惑行為をすれば退店させられる。
配信も似ている。
そこには主催者がいる。
配信者である。
コメント欄は視聴者が自由に使える匿名掲示板ではない。
その配信を成立させるために用意された場所である。
だから、配信者や運営がルールを作る。
違反すればコメント削除やタイムアウト、ブロックなどが行われる。
これは言論統制だ、などと大げさに考える必要はない。
その人の配信なのだから、その人が場を管理するのは当たり前である。
もちろん、ルールが気に入らないなら離れればいい。
そこまで含めて自由である。
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最近のVTuberが「身内ノリ」に見える理由
VTuber文化が成熟したことで、私は配信の身内感が強くなったように感じる。
ただし、この「身内」という言葉を悪い意味だけで使うつもりはない。
長く続くコミュニティには、必ず共通知識が生まれる。
配信者がよく使う言葉。
過去の失敗。
定番のネタ。
特定のゲームでの癖。
リスナーが知っている前提。
配信者が嫌がること。
好きなこと。
何度も見ている人ほど、それらを知っている。
自然に身内ノリが成立する。
そして、規模が大きくなれば、リスナー側にもノウハウが必要になる。
数十人しかいない配信なら、一人の変なコメントにも対応できるかもしれない。
数万人が見ている配信で、全員が好き勝手に自分語りを始めたら成立しない。
全員がゲームの攻略指示を出せばコメント欄は崩壊する。
全員が自分のコメントを読んでもらおうと連投すれば、まともな会話は不可能になる。
だから、
「こういう時にはこうコメントする」
「こういうことはしない」
という共通認識が育つ。
これは閉鎖性でもあるが、同時に大規模化への適応でもある。
私は、最近のVTuber文化をかなり乱暴に言葉にするなら、
「この場のノリを尊重して楽しめる人なら歓迎する。自分のノリへ場全体を変えようとする人は求めていない」
という方向へ進んでいるように感じる。
「身内になるつもりがないなら来るな」
ではない。
むしろ逆だ。
身内にならなくてもいい。
ただの観客でいい。
黙って見ていてもいい。
問題は、身内ではないのに身内以上の権利を要求することである。
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VTuberとアイドルの距離が近づいた
さらにVTuber文化を複雑にしたのが、アイドル性である。
VTuberそのものがアイドルというわけではない。
ゲーム実況中心の人もいる。
解説をする人もいる。
雑談中心の人もいる。
歌をほとんどしない人もいる。
だからVTuber=アイドルと決めつけるのは乱暴だ。
しかし、VTuber文化の中にアイドル的な要素が強く入ってきたのは確かだと思う。
歌。
ライブ。
グッズ。
誕生日。
周年。
ファンネーム。
推し。
応援広告。
記念配信。
成長を見守る文化。
こうしたものは、かなりアイドル文化と近い。
そしてVTuberは通常のアイドルよりも、ある意味では距離が近い。
コメントを書けば読まれることがある。
名前を呼ばれることもある。
スーパーチャットへ反応してもらえることもある。
メンバーシップ限定の配信もある。
毎日のように声を聞ける。
何時間も雑談を聞ける。
だから、疑似的な親密さが非常に発生しやすい。
ここでも自我の問題が出てくる。
距離が近いからといって、現実の友人になったわけではない。
名前を覚えられたからといって、特別な関係になったわけでもない。
長く応援したからといって、人生へ干渉する権利を得たわけではない。
だが、人間の感情は論理だけでは動かない。
毎日見ている。
声を聞いている。
反応を返してもらえる。
自分のコメントを読んでもらえる。
そうしているうちに、心理的な距離は近づく。
だからこそ、リスナー側にも自制が必要になる。
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「推し」は自分のものではない
推すという行為は面白い。
何かを応援する。
成長を喜ぶ。
成功すれば嬉しい。
失敗すれば心配する。
非常に人間的である。
だから推し文化そのものを否定する必要はない。
むしろ楽しめばいいと思う。
ただし、推すことと所有することは違う。
ここを間違えると苦しくなる。
推しが自分の期待した行動をしない。
好きではない相手とコラボする。
自分の興味のない企画をする。
活動頻度を落とす。
恋愛する。
結婚する。
引退する。
どれも、本人の人生である。
ファンから見れば残念なことはある。
応援できなくなることもある。
それも自由だ。
だが、
「自分が嫌だからやめろ」
になると話が変わる。
ファンは選べる。
見るか。
見ないか。
応援するか。
離れるか。
しかし、相手の人生を決める権利までは持っていない。
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身内になれる人は、身内になればいい
ここまで書くと、リスナーは何もするなと言っているように見えるかもしれない。
そうではない。
むしろ、その配信の文化を理解し、上手く参加できる人は、どんどん楽しめばいいと思う。
常連になる。
面白いコメントをする。
配信者と掛け合う。
ファン同士で盛り上がる。
企画に参加する。
ファンアートを描く。
切り抜きを作る。
応援する。
そこには大きな楽しさがある。
配信者側にとっても、そういうファンはありがたいだろう。
ただ、深く関わるほど、その場のルールも理解しなければならない。
昔からいるから偉いわけではない。
大量にお金を使ったから偉いわけでもない。
コメントを頻繁に読まれるから偉いわけでもない。
あくまで配信者を中心としたコミュニティの参加者である。
自分が中心ではない。
この感覚を持てるなら、身内になることは楽しい。
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身内になるつもりがないなら、観客でいい
そして、私が最終的に伝えたいのはここである。
VTuberを楽しむために、コミュニティの中心へ入る必要などない。
身内になるつもりがないなら、観客でいい。
「草」
「かわいい」
「8888」
それだけでもいい。
別にそれすら書かなくてもいい。
黙って見ればいい。
推しが面白いことをしている。
笑う。
ゲームをしている。
見る。
歌っている。
聴く。
それで満足できるなら、VTuberはかなり気楽に楽しめる文化だと思う。
無理に認知される必要はない。
無理に名前を覚えてもらう必要もない。
無理に良いコメントを考える必要もない。
配信者にとって特別な人間になろうとする必要もない。
観客であることは格下ではない。
むしろ、エンターテインメントをエンターテインメントとして楽しむ上では、かなり完成された距離感である。
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自我を消す必要はない。置く場所を間違えなければいい
「VTuberを見る時には自我を持つな」
この言い方だけなら、かなり乱暴である。
私はそう言いたいわけではない。
自我はあっていい。
好き嫌いもあっていい。
意見もある。
推しに対して不満を持つこともある。
見なくなる自由もある。
批判する自由もある。
ただし、自分の感情があることと、それを相手へ従わせる権利があることは別である。
私はこの区別が重要だと思う。
VTuberの配信へ行ったなら、中心はVTuberである。
自分の人生では自分が主役だ。
しかし、他人の配信でまで自分が主役になる必要はない。
その場所では観客になればいい。
あるいは、空気を理解できるなら協力者になればいい。
それ以上を求め始めると、少しずつ歪んでいく。
自分のコメントを読ませたい。
自分を覚えさせたい。
自分の助言を聞かせたい。
自分の望むゲームをやらせたい。
自分の嫌いな相手とは関わらせたくない。
自分の理想のVTuberでいてほしい。
一つ一つは小さな欲求でも、それが積み重なると、もはや「推しを楽しむ」のではなく、「推しを自分に合わせようとする」状態になる。
そこまで行けば、配信者にとっても苦しい。
そして、何より自分自身も苦しくなる。
推しが思い通りに動かないたびに不満が増えるからだ。
これは非常にもったいない。
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VTuberという文化を長く楽しむために
VTuber文化は面白い。
現実の姿とは違う存在として活動できる。
配信者とリスナーがリアルタイムで交流できる。
ゲームもできる。
歌もできる。
雑談もできる。
アイドルにもなれる。
芸人のようにもなれる。
クリエイターにもなれる。
専門家にもなれる。
活動の幅はかなり広い。
同時に、そこには人間関係がある。
数字がある。
承認欲求がある。
商売がある。
競争がある。
コミュニティがある。
だから、楽しいだけでは済まない。
配信者にもノウハウが必要になった。
リスナーにもノウハウが必要になった。
文化が大きくなったことで、昔なら曖昧だったものが少しずつ整理されてきた。
何が歓迎されるのか。
何が嫌われるのか。
どこまで踏み込んでよいのか。
どう楽しめば互いに負担が少ないのか。
私は、その一つの答えが、
「自分がどの位置から楽しみたいのかを理解すること」
だと思っている。
配信を一緒に作れる人なら、協力型のファンになればいい。
場を盛り上げたいだけなら、観客型のファンでいい。
コメントを書くことに興味がないなら、視聴専念型でいい。
どれもファンである。
そして、どれにも優劣はない。
ただ一つ危険なのは、自分が何者なのかを見失い、配信そのものを自分中心へ変えようとすることだ。
配信者の人生は配信者のもの。
ファンの人生はファンのもの。
その境界があるからこそ、互いに楽しくいられる。
VTuberは、距離が近い文化である。
だからこそ、距離感を理解した人間ほど長く楽しめる。
身内になりたいなら、その場を理解して身内になればいい。
そこまで深く関わるつもりがないなら、観客でいい。
笑う。
拍手する。
たまに「かわいい」と言う。
あるいは何も言わず、ただ見る。
それだけでも十分なのである。
自我を失う必要などない。
ただ、自分の自我を他人の配信の中心へ置かない。
それだけの話だ。
そしておそらく、それができる人にとって、VTuberという文化は非常に居心地のよい娯楽なのである。




