カフカとは何なのか?
カフカに関しては、本当に色々な本が出ているが、それぞれに語っていることが全然違うというところが面白い。つまり、どれも当たっていないということである。文芸雑誌でカフカ特集が組まれたりするが、殆どカフカのことを誰も語っていないという驚きの事態になっている。
ここで、我々が考えなくてはいけないのは、「カフカは何故、語り得ないのか」ということである。そのシステムは、こうなっている。まずは、逆に、他の文学が何故、語り得るのか?ということから掘り起こしてみたい。
他の文学は、他人の人生における、「あるよねー」という側面を、観念論的(純文学)になり、具体論的(エンタメ文学)になり、表現しえている、ということなのだ。これは言い換えると、人生における「あるよねー」のコンセンサスがない文章なんて誰も読まない。頭のおかしい人の文章であるからだ。この「なろう」にはそういう文章を書いてふんぞり返っている頭のおかしい人がものすごい数いるが、まあ、それはさておいて(笑)
カフカの小説だけは、「人生について」ではないのである。それは、「人生そのもの」になってしまっている。(ここを気をつけよう。言い換えると、『人生そのもの』の表現(=人生について)ではなくて、『人生そのもの』の実質ということだ)つまり、「今読んでいる読者」と同化してしまっているので。誰も語り得ないのである。
読んでいるうちに悪夢のような気がするのはそこなのであり、カフカの世界に放り込まれてしまっているのである。そして、その世界は、2D空間で、語り得ることを延々と描写してゆく。それは、3D空間の理屈では通らないが、言語学的、あるいは文学的(既成の文学作品の外観くらいの意味)には成立してしまっているから、グイグイと読ませるが、それ自体に意味がない、現実空間に還元できないので、ある意味、それは退屈な読書体験なのである。
このやり方を踏襲したのが、小島信夫であろう。彼の「美濃」だったり、「別れる理由」なりは、語っている内に、読んでいる自分が書いているようなものを読んでいるようなそんな気持ちになる。創作の経験がない人が読んだらトリップするような気持ちになるだろう。そのトリップ体験を、坪内祐三さんが、『別れる理由が気になって』という本に書かれている。
つまり、カフカの本というのは、生命体なのである。生命体に、「小説として上手いかどうか?」なんてものは成り立たない。矢沢永吉の実演を前にして、「矢沢永吉そっくりさん」の審査をするようなものである。
つまり、リアルなんだよね!転げているから。ロッケンロールなんだよね!カンファタブルなんじゃないんですか?なんなら、アーユーハッピー?ってことでしょ。そこんところ、シクヨロ!あるいは、ヨロシク!!




