7
屋敷の夜明けは、薄い灰色だった
夜の残骸ーー硝煙の匂い、割れたガラス、血の跡。消火剤の白い粉が廊下の隅に残り、使用人たちは声を潜めて片づけに追われている
子どもたちは地下の避難室から出され、温かいスープを配られていた。泣き疲れた顔で、しかし生きている
アウローラは、その光景を遠巻きに見ていた
まだ、胸の奥がざわついている
戦いの最中は考える余裕がなかった。体が先に動き、手が先に守り、頭は必要なことだけを切り分けていた
けれど静けさが戻ると、昨夜の映像が何度も再生される
玲が、子どもを庇って血を流した瞬間
玲が「もう怖くない」と声をかけた瞬間
玲の血が床に落ち、赤い点を作った瞬間ーー
(……わたくしは、なぜ)
答えが出ない
それでも、あの赤を見た時は胸が冷え、息が詰まった
それは義務でも正義でもない。もっと個人的な、もっと厄介な感情だ
「アウローラ様」
使用人の年配の女性が、そっと声をかけてきた
「玲様が……お目覚めになりました。ですが、まだ熱がーー」
アウローラの体が一瞬で動いた
客間へ戻る途中、廊下の角で曜とすれ違う。曜も顔に擦り傷があり、目の下に濃い影が落ちていた
「……行くんですか」
「ええ」
曜は短く息を吐き、視線を落とした
「……玲さん、医者を拒みました」
「……予想はしていましたわ」
「説得できるの、たぶんあなたしかいない」
曜の声は悔しそうだった
あれほど警戒していた曜が、今は“頼む”と言っている
それが、昨夜の夜の重さを物語っていた
アウローラは客間の扉を開けた
室内は薄暗く、遮光カーテン越しの光が淡く差し込んでいる
ベッドの上で、玲が上体を起こしていた。スーツではなく白いシャツ。包帯が胸元と脇腹に巻かれ、肩にも痛々しい固定具が見える
それでも玲は、いつものように笑った
「おはよう」
その声が掠れていて、アウローラの胸が小さく痛んだ
アウローラは返事をせず、まっすぐベッドへ近づく。視線は傷、呼吸の浅さ、顔色に向けられる
「……動いてはいけません」
玲は小さく肩をすくめる
「動いてないよ。座ってるだけ」
「座るのも動くのです」
玲がふっと笑う
「厳しいね」
「当然です」
アウローラは洗面器の水を替え、布を用意し、薬箱を開けた。
手当ての準備をする指先が、昨日より少しだけ硬い
怒っている。恐れている
その両方が混ざって、手が冷えている
玲はアウローラの背中を眺めながら、ぽつりと言った
「……君がここにいるの、変な感じだ」
「変ではありません。あなたが怪我をした。だから手当てをする。それだけです」
玲は笑ったが、すぐに咳き込んだ
アウローラは振り向き、眉を寄せる
「だから、動いてはいけません」
「うん……分かった」
従順な返事
それが逆に、アウローラを困らせた
玲は従順な男ではない。従順に見える時ほど、内側に仄暗い熱を溜めている
アウローラはベッド脇の椅子に座り、包帯の端をほどいた
血が少し滲んでいる。傷は深くないが、昨日の無茶が響いている
アウローラが消毒液を含ませた布を当てると、玲の眉が微かに歪んだ
それでも声を上げない
「痛いなら言いなさい」
「……痛い」
玲が素直に言った
アウローラの胸が、なぜか少しだけ緩む
“痛いと言える”ことが、昨夜より進んだ証のように感じたからだ
「よろしい」
アウローラは淡々と包帯を巻き直しながら、玲の体温を確認する
熱がある。そして玲の皮膚は、人間らしく温かい
「……医者を呼びます」
玲の目がすっと細くなる
「要らない」
「必要です」
「要らない」
同じ言葉が、温度違いでぶつかる
玲の声は柔らかいのに、譲らない
アウローラは一度息を吐き、言い方を変えた
「あなたが倒れたら、屋敷が混乱します。子どもたちがまた怖がる」
玲は少し黙り、目を伏せた
その反応に、アウローラは自分の言葉の選び方を自覚する
玲の弱点は“子ども”だ
そこに触れれば、玲は譲る
卑怯だとはわかっている。けれど必要だ
玲が小さく言った
「……じゃあ、屋敷付きの医者だけ。外部は呼ぶな」
「分かりました」
アウローラは即答し、さらに包帯を整えた
玲はその手元を見つめ、ふいに声を落とす
「……ねぇ」
アウローラは返事をしない。手も止めない
でも、玲は静かに問うた
「なんで、戦ってくれたの?」
アウローラの指先が一瞬だけ止まった
その問いが来ることは分かっていた
玲は必ず確認する。自分がどこまで許されているか。自分がどこまで受け入れられるか
玲は続ける
「……子どものため?」
その言い方に、玲の怯えが混じっていた
“子どものためだけなら、俺はいらない”という怯え
アウローラは包帯を結び終え、そっと手を離した
それから、玲を見る
紫の瞳でまっすぐに
「……それもあります」
玲の喉が動いた
視線が揺れる
期待と恐怖が同時に燃える
「それも、って……」
アウローラは、ゆっくり言葉を選んだ
自分の中にある感情を、まだ完全に理解できていない
けれど、嘘は言いたくなかった
「あなたが死ぬのも……嫌でしたから」
玲の目が大きく開く
呼吸が止まったように見えた
玲は、自分の耳を疑っている顔をしている
「……俺が?」
「……ええ」
アウローラは静かに頷く
それだけで胸が痛む
認めたくなかったものを、認めてしまった痛み
……玲は、しばらく黙っていた
言葉が見つからないのだろう
その沈黙の中で、玲の表情がゆっくり変わっていく。驚きから、安堵へ。安堵から、危うい幸福へ
そして玲は、ほんの少しだけ笑った
「……それ、嬉しいな」
その声が、あまりにも素直で
アウローラは胸の奥が熱くなるのを感じた
「嬉しい」という言葉の破壊力
監禁している男が、こんなに子どもみたいに言うことがあるのか
アウローラは視線を逸らし、冷たく言う
「勘違いしないでください。あなたを許したわけではありません」
玲は笑みを消さずに頷く
「分かってる」
それが、逆に怖い
分かっているのに、喜ぶ
分かっているのに、手放さない
玲が、少し真面目な声になった
「……君は、俺を恨んでいい。俺は君をさらった。銀で傷つけた。閉じ込めた。それでも君が、俺のために……命を張った」
アウローラは、玲の言葉を遮った
「命を張ったのは、わたくしの選択です。……あなたがそれを利用しないでください」
玲の目が鋭くなる
一瞬だけの、“支配者”の目
だがすぐに、玲は息を吐き、その鋭さを引っ込めた
「……利用しない」
「約束できますか」
玲は迷った
その迷いは、嘘をつくかどうかの迷いではない
本当に約束して守れるのか、自分を測っている迷いだ
そして玲は、ゆっくり頷いた
「……努力する」
完璧な誓いではない
けれど、その不完全さが、玲の本音に見えた
アウローラは少しだけ、肩の力を抜いた
玲は、視線を落とし、ぽつりと言った
「君が戦ったのは……俺を死なせたくないから。それって、君の中で、俺が“ただの監禁者”じゃなくなったってこと?」
アウローラは即答できなかった
監禁者。救われた子ども。危うい大人。残酷な支配者
玲の中には全部が同居している
だから、ひとつの言葉で片づけられない
アウローラは、正直に言った
「……変わりました。少しだけ」
玲の口元が微かに震えた
嬉しさを隠そうとして、隠せていない
「少し、でいい」
玲はそう言って、目を閉じた
力が抜けたように、肩が落ちる
痛みと熱と疲労が、一気に押し寄せている
アウローラは玲の額に手を当てた
熱い。彼は本当に無茶をした
「眠ってください」
「……うん」
玲は目を閉じたまま、囁く
「ねぇ、アウローラ」
「何ですか」
「君が俺を死なせたくないなら……俺も、君を自由にしたくない、って言ったら。君は……怒る?」
その問いは卑怯だった
弱った声で、甘えた声で、しかし核心を刺す
“自由にしたくない”。つまり、監禁の正当化
アウローラの胸に怒りが立ち上がる
けれどーー目の前の玲は、汗で髪が額に貼りつき、睫毛が震えている
昨日、子どもを庇って血を流した男
その男が今、怯えるように言葉を探している
アウローラは、怒りをそのままぶつけることができなかった
代わりに、ゆっくりと言う
「……あなたは、わたくしの自由を恐れているのですか」
玲の喉が動いた
目を閉じたまま、頷く
「うん。……怖い」
アウローラは息を吐いた
自分の胸の中にも、似た恐れがあることに気づいてしまう
玲を信じるのが怖い
玲に心が動くのが怖い
そしてーーもし自分が玲を必要とし始めているなら、それが1番怖い
アウローラは玲の枕元の布を整え、静かに言った
「今は、眠ってください。……答えは、あなたが元気になってから」
玲の口元が僅かに緩む
それは勝ち誇った笑みではない
許された子どもの笑みだった
「……うん」
玲はそのまま、眠りに落ちていく
呼吸がゆっくり整い、緊張が抜けていく
アウローラは立ち上がり、毛布を玲の肩にそっと掛けた
その手つきが、ふと昨夜の自分の戦い方を思い出させる
“守る”と決めた手つき
毛布を掛け終えた瞬間、アウローラの胸に小さな痛みが走った
ーー自分は今、玲を“守りたい”と思っている。守る理由が子どもだけではなく、玲自身へと滲み始めている
アウローラは唇を噛んだ
まだ、恋ではない
けれど、感情は確かに変質している
(……恐ろしい)
自分の心が変わる事が
玲の檻での監禁に、慣れてしまう事が
アウローラは窓辺へ行き、カーテンの隙間から外を見た
灰色の空が、ゆっくり白へ溶けていく
夜明けは来る。どんな夜の後でも
そしてアウローラは静かに、自分に言い聞かせた
(信じるのは、まだ早い)
(でもーー)
眠る玲の方へ視線を戻す
彼の呼吸は穏やかで、子どものように無防備だった
(……あなたが死ぬのは、嫌でした)
その言葉が、胸の中で何度も反響する
言ってしまった。これは取り消せない
円舞曲は、確かに次の旋律へ進んでいた
怖いほど静かに、甘いほど危うく




