6
その日、夜がいっそう深く沈んだ
屋敷の灯りは落とされ、警備の見回りだけが規則正しく廊下を滑っていく。庭の木々が揺れ、遠くで犬が吠えた
アウローラは客間の窓辺に立ち、外の闇を見下ろしていた
――嫌な気配が、する
風の音ではない。虫の羽音でもない
人間の“意志”が、影の中で息を潜めている気配
(……来る)
そう思った瞬間、屋敷の外壁の向こうで、金属が擦れる小さな音がした
次いで、ほんのわずかなーー火薬の匂い
アウローラの瞳がすっと細くなる
その時だった
――ドンッ!!
爆ぜたような衝撃が、屋敷の空気を割った
窓ガラスが震え、遠くの廊下で誰かが短く叫ぶ。警報が鳴る前に、2発目の音が重なる
玄関側。いや、裏もだ。複数箇所が同時に破られている
アウローラが扉へ向かった瞬間、鍵の開く音がした
扉が開き、曜が飛び込んでくる。顔色が変わっている
「……動くな!」
曜の声は命令というより、悲鳴に近かった
「屋敷が襲われてる。狙いはーー」
「わたくし、ですね」
アウローラが淡々と言うと、曜は息を詰まらせた
認めたくない事実を突きつけられた顔
「……そうだ。だから、ここから出るな。玲さんがーー」
その名前が出た瞬間、アウローラの胸がひゅっと冷えた
玲はどうしている
彼は、真っ先に前へ出る人間だ。優しさが弱点で、そして武器にもなる人間
廊下の奥から足音が迫り、低い声が飛んだ
「曜!」
玲だ
次の瞬間、玲が廊下の角から姿を現した。黒いスーツの上着を羽織り、手には銃。顔は冷静なのに、目の奥だけが鋭く燃えている
玲はアウローラを見るなり、声の温度を落とした
「動くな。客間に戻れ」
アウローラは一歩も下がらない
「……子どもたちは」
「避難中だ。曜が誘導してる」
玲は一瞬で状況を切り分けている
守るべき順番。捨てていいもの。捨ててはいけないもの
そして、玲の視線はアウローラに固定された
「君はーー俺の背中に立つな」
命令
優しい声で包んだ、強い命令
アウローラは唇を結び、玲の肩越しの闇を見た
廊下の先に、影が動く。黒装束。銃口の鈍い光
内側にも入られている
(……屋敷の中に)
その瞬間、玲がアウローラの前に半歩出た。盾になるように
玲の声が低くなる
「いいか。ここから先に出ない。絶対にだ」
「……玲」
初めて、アウローラは彼の名を呼んだ
玲の目が一瞬だけ揺れる
だが、すぐに硬い光へ戻る
「ここは戦場になる。君が傷つけば、俺はーー」
言葉が続かなかった
“俺は何をするか分からない”とでも言うように、玲の喉が詰まった
その時、廊下の奥で子どもの泣き声が上がった
「やだ……!」
高い声。小さな喉
それだけで、アウローラの体が先に動いてしまう
「っ……!」
玲が腕を掴もうとするより早く、アウローラは廊下へ飛び出した
曜が「くそ!」と悪態をつき、追う
玲の声が背中に刺さる
「アウローラ!」
アウローラは振り返らない。
振り返ったら、止まってしまう
止まれば、子どもがーー
廊下の角を曲がった先、非常灯の薄い光の中で、子どもが一人、床に座り込んでいた。避難の途中ではぐれたのだろう。目を真っ赤にして、震えている
その背後に、黒装束の男が迫っていた
男は子どもではなく、奥ーー屋敷の中枢へ目を向けている
狙いは“人質”か、“混乱”だ
アウローラは一瞬で距離を詰め、子どもの前に立った
「触れないで」
男が舌打ちし、銃口を向ける
その銃口の角度が、子どもにも向く
その瞬間、アウローラの目が冷える
――バンッ!
銃声。弾丸が空気を裂く
アウローラは子どもを抱き寄せて身を翻し、弾を避けた
壁に弾痕が生まれ、石膏が散る
アウローラは男の手首を掴み、捻りあげる
男が呻く前に、アウローラはその首元を押さえて壁へ押しつけた
力は必要最低限
ただ、二度と動けないようにする
「……誰の差し金?」
男は歯を食いしばり、答えない
アウローラは子どもを抱えたまま、首を横に振る
「いいわ。あなたの答えはいらない」
そして子どもに囁く
「大丈夫。息をして。……目を閉じて」
子どもが頷き、アウローラの胸に顔を埋めた
その温度が、アウローラの胸を焦がす
(……守らなければ)
次の瞬間、階段の上から足音がなだれ込んだ。しかも複数
アウローラは即座に子どもを抱え、背後の小部屋へ滑り込ませた
「ここに隠れて。……絶対に出ないで」
「おねえ、ちゃん……」
「すぐ戻る」
子どもを部屋に押し込み、扉を閉める
鍵をーー内側から掛けさせる。
アウローラが扉越しに短く言う
「息をして。泣かないで。……わたくしが戻るまで」
その言葉は、子どものためであり、同時に自分のためでもあった
泣けば足が止まる
止まればーー
階段を駆け下りてきた男たちが、アウローラを見つけた
「いたぞ!」
銀色の刃が光る
銀ーー吸血鬼への対策
敵は準備してきている
アウローラは1歩、退く
銀は触れれば灼け、動きを鈍らせる
だが、避けるために背中を見せれば、子どもが危ない
(……玲は、どこ)
その名を思った瞬間、廊下の向こうで銃声が連続した
玲だ。玲が、こちらに向かっている
その動きの速さと正確さは、人間離れしているほど冷静だった
「下がれ!」
玲の声
同時に曜の怒鳴り声
「アウローラさん、こっち!」
曜が廊下の角から手招きする
逃げ道を作っている
警戒していた曜が、今は迷わず守ろうとしている
アウローラは一瞬だけ躊躇い、そして決めた
子どもを守るために、玲を守るためにーー今は、この場を制す
アウローラは男たちの間合いに踏み込み、銀の刃を“避ける”のではなく、“持ち手”を折りにいった
1人目の肘が逆に曲がり、刃が床に落ちる
2人目は足を払われ、頭を打つ前に壁へ押しつけられる
3人目は突進してきたが、アウローラは首筋を掴み、その勢いを利用して床へ叩きつけた
殺さない
でも容赦はしない
夜明けは、刃を持てる
そこへ玲が駆け込んできた
視線が合う
玲の目が怒りと安堵の間で揺れる
「……何してる」
「子どもが」
「分かってる!だからーー」
玲が言い終える前に、背後で銃声が鳴った。
玲の体が反射的に動き、アウローラの前へ出る。盾になるように
「玲!」
弾は玲の肩を掠めた
血が散る
玲の表情が一瞬だけ歪み、すぐに無表情へ戻る
そしてーー玲は前方ではなく、横へ飛び出した
廊下の奥に、さっきの子どもが隠れた小部屋がある
その扉の前に、別の敵が迫っていた
扉を蹴破ろうとしている
「やめろ!!」
玲が叫び、敵へ突っ込んだ
その瞬間、敵の刃が玲の脇腹を裂いた
赤が滲む
玲は呻かない
ただ、子どもの前に立つ
「……下がれ」
低い声。命令
敵が怯んだその隙に、玲は銃で相手を撃ち抜くーー殺す位置ではない。足。膝。動けない場所
敵が倒れる
玲は小部屋の扉に手を当て、内側へ声をかけた
「大丈夫だ。……もう怖くない」
その言い方が、あまりにも優しかった
その瞬間、アウローラの胸が痛いほど締めつけられた
(……あなたは)
あなたは、そんなことを言える人間なのに
どうして、わたくしを檻に入れる
どうして、優しさと支配を同じ手で差し出す
玲が振り返り、アウローラを見た
脇腹の血がスーツを黒く染めている
それでも玲は笑おうとする
「ほらね。外は残酷だ」
その言葉に、アウローラは唇を噛んだ
残酷なのは外だけではない
残酷なのは、あなたの中にもある
でもーー今は
アウローラは玲の横に立った
並ぶ。守られる側ではなく、守る側として
「……戦い方を、指示してください」
玲の目が大きく開かれた
驚きと、喜びと、恐怖が混ざっている
「君が……?」
「今は、迷っている時間がありません」
アウローラの声は静かだった
けれど、その静けさは揺るがない
「子どもを守る。あなたも守る。……それだけです」
玲は一拍、言葉を失った
次の瞬間、玲の口元が僅かに上がる
それは勝利の笑みではない
救われた人の顔
「……分かった」
玲はすぐに“幹部の顔”へ戻り、冷静に指示を飛ばした
「曜、東廊下を閉鎖。内通者の可能性がある。使用人は地下へ。子どもはーー」
「小部屋に1人、います」
アウローラが即座に報告する
玲が頷く
「確保。動かすな。……アウローラ、君は銀を避けろ。無理に触れるな」
「分かっています」
玲は短く息を吐き、血の匂いをごまかすように続けた
「俺が前に出る。君はーー」
「いいえ」
アウローラが遮る
玲の目が鋭くなる
「君は後ろだ」
「後ろには、なりません」
アウローラは玲の目を見た
紫と黒が、暗闇の中でぶつかる
「あなたが前に出て傷つくなら、わたくしも前に出ます」
玲の喉が動いた
何か言い返したい
でも今は状況が許さない
敵の増援が、屋敷の奥へ回り込もうとしている
遠くでガラスが割れる音
「火だ!」
誰かが叫ぶ
煙の匂いが混じる
玲は歯を食いしばり、短く言った
「……ついてこい」
アウローラは頷き、玲の隣に立つ
曜が驚いた顔で2人を見るが、すぐに従う
屋敷の中で、臨時の“戦列”が組まれた
それは不格好で、歪で、でも確かに強かった
ーー玲の冷静さ
ーー曜の実務
ーーアウローラの圧倒的な身体能力と、迷いのない優しさ
優しさが、武器になる夜だった
激しい攻防の末、敵の狙いははっきりした
吸血鬼の確保と、玲の失脚
だが屋敷は落ちなかった
玲が“守る順番”を間違えなかったから
アウローラが“逃げる自由”より“守る選択”をしたから
最後の敵が撤退し、庭の闇が静まり返った時、屋敷には疲れた呼吸だけが残った
玲が壁にもたれ、ゆっくりと座り込む
血が落ち、床に赤い点を作る
それを見た瞬間、アウローラの胸がざわめいた
(……なぜ)
なぜ、わたくしはここにいる
なぜ、玲の血に心が揺れる
なぜ、自由に戻れるはずなのに戻ろうとしない
アウローラは玲の前に膝をつき、傷口を押さえた
玲は息を整えながら、かすかに笑う
「……君、怖くなかった?」
その問いは、心配の形をした確認だった
“まだ俺のものじゃない”と確かめるような
アウローラは答えない
答えられない
怖かった
けれど、その怖さは敵ではなくーー自分の選択の方に向いている
玲は目を細め、囁く
「君がここにいると……俺は、強くなれる気がする」
アウローラの指先が、僅かに震えた
それは怒りではない
胸の奥が痛む震えだ
「外は残酷」
玲はそう言った
でも今夜、アウローラは見てしまった
残酷な世界の中で、玲が子どもを庇い、血を流して、それでも笑おうとする姿を
その姿はーー
檻の鍵の冷たさを、一瞬だけ忘れさせるほどに眩しかった
そしてアウローラは、まだ言葉にならないまま、心の奥で認めてしまう
(子どものため、だけではない)
玲を死なせたくない
その理由がどこから来るのか、まだ分からない
分からないまま、アウローラは玲の血を押さえる手に力を込めた
仄暗い円舞曲は、静かに進んでいた




