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玲の邸宅に、昼でも夜でもない曖昧な時間が流れていた
屋敷の空気は整いすぎていて、少しの異物が入るだけで軋む。曜は廊下の角で警戒を解かず、使用人たちは声を落とし、子どもたちは無邪気に笑いながらも、どこか大人の顔色を窺っていた
異物ーーアウローラの存在は、すでに屋敷の“前提”を変えつつあった
恐怖ではなく、妙な静けさを連れてくる
まるで夜明け前の、音のない時間のように
その日、門が開く音がした
車が1台、何の遠慮もなく庭へ入ってくる。警備が止めようとする気配もあったが、すぐに引いた
この屋敷に、正面から来れる男は限られている
ーー渡部聡太だった
玄関の扉が開き、さらりとした足取りで入ってくる。玲と同じ年、同じ幹部。けれど纏う空気は、玲よりずっと“軽い”。軽いのに、目の奥は鋭い
曜は反射的に背筋を伸ばす
「よぉ、曜くん。今日も真面目だねえ」
聡太は笑いながら、曜の肩を軽く叩いた。叩き方が馴れ馴れしい。けれど、その指先には油断のなさがある
曜は短く頭を下げるだけで返した
「……渡部さん」
「お堅いなぁ。まぁいいや。玲は?」
「客間に……」
言いかけた瞬間、曜は舌を噛みそうになった
客間ーー今は、監禁された吸血鬼の居場所だ
聡太がそれを知らないはずがない。知らないふりをしているだけだ
「客間ねぇ」
聡太は楽しそうに目を細めた
「へぇ。……玲、とうとうやったんだ」
曜の胸の奥が嫌な感じにざわつく
“やった”という言い方が、冗談にも本気にも聞こえるからだ
リビングで玲が聡太を迎えた
玲はいつもの柔らかな笑みを浮かべ、コーヒーを勧める。まるで普通の来客対応だ
その“普通さ”が、曜には薄気味悪い
「突然どうした、聡太」
「そりゃ顔見に来るだろ。相棒がさ、吸血鬼さらって閉じ込めたって噂が飛び始めてる」
玲の指が、カップの取っ手に触れたまま止まった
笑みは崩れない。だが、温度が下がる
「噂?」
「うん、噂。裏の耳って早いからね。玲、あんた派手なんだよ」
聡太は笑って言うが、声は軽くない
そして、玲の目を真正面から捉えた
「周り、きな臭い。ここ最近、あんたのシマに探り入れてる連中が増えてる。敵も味方も。“吸血鬼”って単語が出た瞬間、目の色変える奴が多すぎる」
玲はコーヒーを一口飲み、静かに置く
「……つまり?」
「つまり、あんたが守りたいもんがあるってバレた」
聡太はあっさり言った
曜は息を呑む
玲が守りたいものーーアウローラ
それは同時に、玲の弱点になる
玲は微笑んだ
「守りたい、ね」
「笑うとこじゃない。玲、冗談じゃなく。あんたがあの女を“宝”として抱えた瞬間、宝狙いが寄ってくる。それに……上も動くかもしれない」
「上?」
「組織の上層。吸血鬼を兵器にしたがる連中もいるだろ。あんたの趣味で済む話じゃないってこと」
玲の微笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる
「俺の趣味って言うな」
「似たようなもんだろ」
聡太は肩をすくめる。わざと軽くしている。玲を刺激しすぎないために
それでも、言うべきことは言う
「玲。あんたは昔から危うい。“欲しい”ってなったら、世界ごと抱きしめようとする。でもな、世界ってのは抱きしめた瞬間に噛みついてくるぞ」
玲は静かに息を吐き、窓の外へ視線を投げた
庭は平穏で、鳥が飛び、木々が揺れている
その平穏が、仮初めに見える
「……忠告、ありがとう」
「礼はいらない。相棒だからな」
聡太は立ち上がり、玲の肩をぽんと叩いた
そして、わざと明るく言う
「ま、でもさ。吸血鬼って本当に綺麗なんだろ?
顔くらい見せてくれよ。俺も拝んでみたい」
曜の血の気が引いた
冗談のように言っているが、聡太が“ただの好奇心”で動く男じゃないことを曜は知っている
彼は面白がる。面白がりながら、状況の核を掴みにいく
玲の視線が、一瞬だけ鋭く曜を刺した
“近づけるな”という無言の命令
曜は頷くように目を伏せた
玲は聡太に向き直り、柔らかく笑った
「まだ無理だ。彼女は疲れている」
「へぇ。優しいじゃん、玲」
「俺はいつだって優しい」
玲は淡々と言う
聡太は笑ったが、その笑いは少しだけ苦かった
「……優しさが1番、怖いんだよな。玲のは」
その言葉が、曜の胸に刺さった
自分も同じことを思っていたからだ
聡太は玄関へ向かう前に、ふと足を止めた
扉の奥ーー客間の方角をちらりと見る
視線だけで、すべてを測るように
「玲。最後に1個だけ」
「なんだ」
「その女を守りたいならさ。守り方、間違えるなよ。閉じ込めるってのは……守るのと同時に、敵も作るからな」
玲は微笑んだまま答えた
「分かってる」
だが曜には分かった
玲は“分かっていて”やる
分かっていても、止まれない
それが一番危険だ
聡太が去り、門が閉まる
屋敷にまた静寂が戻る
曜は廊下の奥、客間の扉を見た
その向こうにいる夜明けは、確かに屋敷を少しずつ変えている
そして玲は、その夜明けをーー世界ごと抱きしめようとしている
(……きな臭い、か)
聡太の言葉が、頭の中で反響する
嵐はまだ来ていない
でも、風向きは確実に変わった
静かな屋敷の中で、円舞曲の足音だけが少しずつ近づいていた




