3
屋敷の朝は静かだった
静かすぎて、耳の奥が痛くなる
山本曜は、廊下の角に立ったまま呼吸の回数を数えていた。警備の交代まであと10分。視線は扉ーー“客間”に固定される。そこにいるのは、昨日の夜に玲が連れ帰った女
銀髪紫眼の、吸血鬼
しかも純血だという噂まである
(……冗談じゃない)
曜は裏社会の人間だ。人間の汚さも残酷さも、嫌というほど見てきた。だからこそ、怪物の類に幻想は抱かない
吸血鬼ーー血を飲むバケモノ
そんなものを屋敷に入れれば、いつか必ず事故が起きる。使用人が襲われるかもしれない。子どもが狙われるかもしれない
何より、玲が壊れる
(玲さんは……昔から、危うい)
柔らかな物腰。丁寧な言葉。上品な笑い方
けれど、それらは“仮面”だと曜は知っている
仮面の下にあるのは執着と、飢えと、ーー「目的のためなら平気で越える危険性」
だから曜は、あの女を危険だと思うのと同じくらい、玲も危険だと思っていた
廊下を足音が近づいてくる。使用人の1人が小さな盆を抱えて現れた。湯気の立つスープと、柔らかなパン
曜は眉をひそめた
「……中へ運ぶのか」
使用人は小さく頷き、怯えたように客間の扉を見た
曜は舌打ちを飲み込み、短く言う
「俺が行く」
護衛の役目は、外から守るだけじゃない。内側も守る
曜は盆を受け取り、扉の前に立った。鍵が外されて静かに開く
――甘い香りが流れ出た
昨夜の裏路地でも嗅いだ、あの匂い。花蜜みたいに甘く、けれど血の気配を含む香り
曜は反射的に喉を固くする
吸血鬼は、匂いで人を狂わせると聞いたことがある。冗談ではない
部屋の中は整然としていた
カーテンの隙間から薄い光。ソファ。テーブル
そして、窓辺に立つ女ーーアウローラ
彼女は曜を見ると、わずかに首を傾げた
警戒の色はある。だが、敵意は薄い
曜はそれが逆に気味悪かった
「……食事だ」
曜は低く言い、テーブルへ盆を置く
女は近づかない。距離を保ち、曜の手元をじっと見ていた
(毒でも盛ったと思ってるのか。まあ、そりゃそうだ)
曜は心の中で吐き捨てる
玲がさらった相手だ。信用しろという方が無理だ
「……あなたは、山本曜さん?」
女が、名前を言った
曜の肩が微かに跳ねる
「……誰から聞いた」
「使用人の方が。皆さん、あなたを頼りにしていると」
ーー頼りに
その言葉が、曜の中でひっかかった
(吸血鬼が、使用人と話してる?)
監禁された相手が、屋敷の人間と会話をしている
曜は女を睨んだ
「馴れ合うな。ここはお前の居場所じゃない」
女は怯まない
むしろ、淡く笑った
柔らかな、困ったような笑み
「……ええ。わかっています。けれど、ここにいる方々は何も悪くない。わたくしは、彼らまで怯えさせたくありません」
曜は一瞬、言葉に詰まった
“彼らまで”
まるで自分が加害者側であることを、女が理解している言い方だった
(……演技か?)
吸血鬼は人を騙す。甘い顔で懐に入り、油断したところで喉を裂く
曜はそう決めつけ、視線を逸らした
「食うなら早く食え。……いや、お前は血か」
「血も、いただきます」
女は頷き、テーブルの端に置かれた小さな輸血パックに目を向けた
そして、意外なことを言う
「これは……献血のものですね。善意の方の」
曜は眉をひそめた
「……わかるのか」
「匂いが違います。……それに、丁寧に扱われている。わたくしは、人を襲って生きたくありません」
その言葉は、綺麗事に聞こえた
だが、曜は何故か反射的に“嘘だ”と言えなかった
(人を襲うのが嫌?吸血鬼が?)
常識が揺れる
揺れたこと自体が、腹立たしい
曜はそれ以上会話を続けず、扉を閉めた
廊下に戻ると、胸の奥がざわついた
自分が今、何に苛立っているのか分からない
吸血鬼が礼儀正しいことへの違和感
あるいは、玲があの女に“丁寧な檻”を用意していることへの嫌悪
それともーー女が思ったより“まとも”だったことへの恐怖
その日、屋敷の中で小さな事件が起きた
厨房の若い使用人が、熱い鍋で手を火傷したのだ
小さく悲鳴を上げ、涙目でうずくまる
曜が駆け寄ろうとした瞬間、先に動いた影があった。アウローラだ
いつの間に廊下へ出たのか?
見張りがいるはずなのに、どうして?
曜は警戒して身構えたが、アウローラは火傷した手を見て眉を寄せ、迷いなく布を取って冷水で冷やし始めた
「痛かったでしょう。……すぐ冷やせば跡が残りにくい」
使用人は驚いて目を丸くし、それでも本能的にその手当てに縋った
アウローラの指先は冷たく、けれど触れ方が優しい
その場にいた子どもーー屋敷に匿われている下っ端の子が、恐る恐る近づき、覗き込んだ
「お姉ちゃん、なにしてるの」
「怪我の手当てよ」
「いたいの?」
「痛い。でもね、痛いのは悪いことじゃないのよ。体が“守って”って言ってるの」
曜は言葉を失った
吸血鬼が、子どもにそんな説明をする
脅すでもなく、甘やかすでもなく、真っ直ぐに
(……なんだよ、それ)
胸の奥に、嫌な感覚が広がる
こんなふうに“普通の優しさ”を見せられると、こちらの憎しみが宙に浮く
曜は咳払いをして前に出た
「……勝手に出歩くな」
アウローラは曜を見る
「申し訳ありません。……けれど、彼が泣いていたので」
「お前が泣かせたんだろ」
吐き捨てるように言うと、アウローラは首を振った
「いいえ。火傷です。……わたくしのせいではない」
淡々と、正しいことだけを言う
曜の中で怒りが行き場を失い、別の形になっていく
(こいつは……本当に、子どもが好きなのか)
「好き」というより、守ることが染み付いている
昨夜、裏路地で子どもを逃がした姿
今、火傷した使用人の手を取る姿
それが、全て一貫している
それは、演技にしては手間が多い。見返りがない
いや、見返りがあるとしたら“屋敷の人間に好かれる”こと
でも、彼女は好かれようとしていない
ただ、目の前の痛みを放っておけないだけに見える
曜は、嫌なものを思い出した
自分がまだ子どもだった頃、殴られた後に誰かが水をくれたら、それだけで泣きそうになったこと
優しさは、弱った心に刺さる
だから危険だ
(……玲さんが刺さってるのも、これか)
曜の視線が思わず、アウローラの横顔に吸い寄せられる
銀髪の隙間から覗く白い肌。紫の瞳
そして、その瞳が子どもへ向ける柔らかさ
――玲が壊れるのも、分かる気がした
その夜、曜は廊下で玲に呼び止められた
玲はいつもの穏やかな顔で言う
「曜。君、彼女にきついね」
曜は即答した
「危険です。屋敷に置くべきじゃない」
「危険なのは、彼女じゃない。……俺だろ?」
曜は言葉を詰まらせる。図星を突かれた
玲は構わずに続ける
「でも、心配してくれてありがとう。君の役目は分かってる。ーーだから、彼女に手は出すな」
命令
柔らかな声で言われるほど、逆らえない命令
曜は歯を食いしばった
「……分かりました」
玲は満足そうに頷き、去っていく
廊下に残された曜は、自分の拳が震えていることに気づいた
怒りなのか、恐怖なのか、分からない
ただ一つ分かるのはーー
あの吸血鬼は、予想していた“バケモノ”とは違う形で、屋敷の空気を変え始めているということだった
そして翌日
曜が巡回していると、子どもが廊下の端で転んだ。膝を擦りむき、泣きそうな顔
曜が声をかけようとした瞬間、アウローラが駆け寄り、しゃがみ込む
「大丈夫?」
「……いたい」
「うん。痛いね。でも、ここにいるよ」
その言葉が、昨日の夜の自分に刺さった
“ここにいるよ”
痛い時に、誰かがそう言うだけで、世界は少しだけマシになる
曜は、気づいてしまった
この女は、武器を持っていない
持っているのは、ただの優しさだ
それなのに、その優しさが屋敷の人間の心を動かしてしまう
(……危険なのは、こっちかもしれない)
曜は玲の言葉を思い出す
「危険なのは俺だろ?」ーー違う
危険なのは、“優しさに飢えた俺たち”だ
その時、アウローラがふと曜を見上げた
紫の瞳がまっすぐ曜を捉える
「曜さん。あなたも、怪我をしています」
曜は思わず腕を隠した
昨夜の見回りでできた擦り傷。どうでもいい程度のものだ
「……関係ない」
「関係あります」
アウローラは静かに言う
そして、まるで当然のように布を取り出した
曜はその手を拒めなかった
拒めば、自分が“傷を放置される側”の惨めさを思い出してしまうから
アウローラの指先が触れる。冷たい。痛くない
曜の喉が、かすかに震えた
(……やめろ)
優しくするな
そう言いたいのに、言葉が出ない
優しさを拒むほど、自分は強くない
曜は、アウローラの横顔を見つめた
そして心の中で、初めて“敵”ではない言葉が浮かぶ
(……この人は、危険じゃない)
人を襲う危険ではなく。人の心を変えてしまう危険
その変化が玲にとって救いになるのか、破滅になるのか
曜にはまだ分からない
ただ、確かに曜の中で何かが揺れ始めていた
吸血鬼を警戒するための冷たい心が、彼女の優しさに触れて、少しずつ溶け始めている




