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客間は、静かすぎた
重たい遮光カーテンが夜を閉じ込め、磨き込まれた床に照明の柔らかな光だけが落ちている。整えられた部屋は豪奢で清潔で、だからこそ逃げ場がない
窓は開かない。取っ手は外され、鍵穴は塞がれている。扉は外からしか開かない。壁の装飾は美しいのに、檻の意匠に見えてしまう
ーー女が目を覚ましたのは、夜とも朝とも言えない時間だった
吸血鬼の体内時計は、人間のそれと少し違う。だが、痛みの余韻と銀の灼ける感覚がまだ皮膚の下に残っているのがわかる
(……生きている)
生きている、というよりーー生かされている
指先を動かす。銀の影響で、まだ少し震えてしまう
耳を澄ませると、部屋の外に複数の気配がある。警戒している。見張っている。人間だ
そして、部屋の中にもひとりーー呼吸の静かな人間がいる
ゆっくりと上体を起こすと、ソファの向こう側に男がいた
穏やかで麗しい顔の男
昨夜、銀で自分を弱らせて抱き上げた男
ーー綾倉玲
彼は、テーブルに置かれたカップから湯気の立つ飲み物を一口含む。女の覚醒に気づくと静かに視線を上げた
「おはよう。……気分はどう?」
その声があまりにも“普通”だったので、彼女は一瞬だけ言葉を失った
誘拐犯の口調ではない。監禁者の声なのに、丁寧で柔らかく、看病する人のようだ
女はベッドの端に腰掛け、足先を床につけた。逃げる姿勢ではなく、向き合う姿勢を選ぶ
恐怖で取り乱せば、相手は支配を強める。百年以上生きて、そういう人間を山ほど見てきた
「……あなたは」
「綾倉玲。昨夜言った通りだよ」
「ここは……」
「俺の邸宅。君を運び込んだ。……銀で傷つけたのは謝る。必要だった」
女は唇を結び、皮膚の痛みを思い出す
銀は吸血鬼にとって毒に近い。効き目は残る
(必要、だなんて)
その言葉が一番残酷だ。必要と言われれば、被害者の痛みは“手段”に落ちる
「わたくしを、売るのですか」
彼女は敢えて、核心を突いた
裏社会の人間が吸血鬼を捕らえる理由など、だいたい決まっている
見世物、兵器、実験材料、あるいはーー金
玲は少しだけ目を見開き、次に苦笑した
その表情が、嘘をついている時のものなのか、本気で傷ついた時のものなのか、彼女にはまだ判断がつかない
「売るなんて、とんでもない」
玲はカップを置き、まるで面談のように姿勢を正す
「君を商品として扱うつもりはない。君をーー俺の人生として扱うつもりだ」
「……それは、同じでは?」
女の声は静かだったが、棘が混じった
玲はその棘を受け止めるように、少しだけ首を傾げる
「違うよ。商品は売れる。代替がきく。飽きたら捨てられる。でも君は違う。君は、俺の中でずっと……唯一だ」
唯一。その言葉にアウローラの胸が冷える
唯一は尊いようでいて、時に檻になる
「……ねぇ、名前は?」
玲が唐突に優しい声に戻る
女は目を細めた
これは会話の糸を切らせないための手口。相手を“個”として呼び、距離を詰め、心理的に支配する
――それでも、名前を訊かれて黙り続ければ、話は前に進まない
「……アウローラ、と申します」
女ーーアウローラは、できるだけ冷静に答えた
玲の瞳が微かに揺れる。そこには、隠しきれない喜びが含まれていた
「アウローラ……“夜明け”か。きみにぴったりだね」
「……夜明けなど、あなたにとっては邪魔でしょう」
「邪魔?」
玲が眉を上げる
「わたくしは夜を終わらせる。あなたのような方が暮らす世界に、夜明けは似合いません」
玲はフッと笑った
だが、その笑みは温かいだけではなかった
冷たさが、底に潜む
「君は俺を誤解している。俺は夜が好きだ。でも、闇だけが好きなわけじゃない。闇の中で光るものがーーたまらなく好きなんだ」
アウローラは息を呑みそうになり、すぐに押し戻した
言葉が上手い。危険な男だ
「わたくしを、どうなさるのですか」
アウローラが問う
玲は待っていましたとばかりに、躊躇なく答えた
「結婚してほしい」
「…………え?」
思わず声が漏れた
吸血鬼として百年生きてきたアウローラでも、この直球には間が抜けた顔になる
売買でも実験でもない。“結婚”
意味がわからない。理解が追いつかない
玲は真剣だった
目が笑っていない。口元だけが穏やかで、瞳の奥に熱がある
「驚くよね。わかってる。でも俺は、君を閉じ込めるだけの男にはなりたくない。ーー俺の隣にいてほしい」
「あなたはわたくしを……さらったのですよ」
「うん」
玲はあっさり頷く。罪悪感を隠す素振りもない
それがかえって恐ろしい
「さらった。傷つけた。監禁した。それでもーー俺は君に、嘘をつきたくない。俺が欲しいのは、君の“体”じゃない。君の“人生”だ」
アウローラは、ゆっくりと息を吐いた
吸血鬼は心拍が遅い。けれど今は、その遅い心臓が嫌にうるさい
「……あなたは、わたくしに助けられたと言いましたね」
玲の喉がわずかに動いた
その言葉を待っていたのだろう。彼は静かに頷く
「10歳の時。施設で」
その瞬間、アウローラの瞳が揺れた
施設。虐待。子ども。夜の匂い
記憶の底に沈めていた光景が、薄い膜を破って浮かび上がる
「……あの時の……」
玲は、ほんの少しだけ息を呑んだ
期待が滲む
だが彼は言葉を急がない。急げば相手が逃げることを知っている
優しいふりをした捕食者の間
アウローラは目を伏せ、指先を握った
覚えている。全員の顔を覚えているわけではない。でも、あの夜の感触は覚えている
「……生きていてくれたのですね」
アウローラの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる
それを聞いて、玲は微笑んだ
「君が、そう言ったから」
「わたくしは……あなたに、生きてと言っただけです」
「それで十分だった」
玲は立ち上がり、距離を詰める
アウローラは反射的に肩を強張らせるが、玲は手を出さず、ベッドから少し離れた位置で止まった
“安心させる距離”をわざと作る。計算だ
「アウローラ。君は優しい。君はきっと、俺を許せないだろう。でも俺は、君を手放せない。俺は……君がいないと、生き方がわからない」
「それは依存です」
「そうかもしれない」
玲は否定しない
否定せず、受け入れて、正当化する
「でも、依存でもいい。君を失うくらいなら、俺は醜いままでもいい」
アウローラは目を閉じた
胸の奥で、怒りが小さく燃える
“醜いままでもいい”と言い切る強さが、恐ろしい
この男は、自分の罪を知りながら、進む
「……わたくしは、あなたを愛していません」
アウローラははっきり言った
玲は一瞬、目を細める。傷ついた顔をする
だがその傷つき方が、どこか芝居じみているのも見える
「今は、ね」
「今も、これからも、愛するとは限りません」
「いいよ」
玲は即答した
アウローラは眉を上げる
「……いい?」
「うん。愛は、俺が育てる。君が拒むなら、拒む理由ごと抱える。俺は、君を傷つけた。だから……償う時間も含めて、君を欲しい」
償う。その言葉で、アウローラの中に別の警戒が生まれる
償いを盾にすれば、相手は残りやすい
“罪悪感で縛る”という最悪の鎖が作れる
「償いなど要りません。わたくしは、自由が欲しい」
玲は少しだけ笑った
穏やかな笑みなのに、目の奥は一切譲らない
「自由をあげるよ。……でも、全部は無理だ」
「ーーほら、やはり」
アウローラが言いかけた時、玲は静かに続けた
「君が外へ出れば、君を狙う人間がいる。俺の敵も、君を利用する。君は強い。でも“優しさ”が弱点だ。子どもを見捨てられない。そんな君を、俺は野放しにできない」
「それは保護ではありません。支配です」
玲は否定しない
ただ、言葉を選び直す
「守る、という支配。……君が嫌いな言い方なら、別の言い方にする。俺は、君に死んでほしくない」
アウローラは、笑ってしまいそうになった。
“死んでほしくない”は、万能の言い訳になる
愛しているから。守りたいから。危ないから。だから閉じ込める
そうやって人間は、相手の人生を奪う
「あなたは、わたくしを檻に入れた。檻の中で生きるくらいなら、死んだ方がーー」
言いかけた瞬間、玲の表情が変わった
柔らかな仮面が一瞬で剥がれ、凍る
空気が圧を持つ
「それは、言わないで」
低い声。怒鳴ってはいないのに、命令より強い
アウローラは息を止める
玲は一歩だけ近づいた
アウローラの視界に、玲の瞳が大きく映る
感情が濃い。恐怖に近い執着が渦巻いている
「君が死ぬのは、許せない」
「許す、許さない……」
「君の自由の話をするなら、俺も正直に言う。俺は君が死ぬくらいなら、世界を壊してでも止める」
静かな声が、刃物みたいに冷たかった
アウローラは確信した
ーーこの男は本気だ
愛と呼べるかどうかは別として、“絶対に手放さない”という一点だけで生きている
玲はふっと息を吐き、表情を戻した
あくまで穏やかに
さっきの恐ろしさを“見せてしまった”ことを、本人も自覚しているのだろう
「……ごめん。怖がらせたね」
謝罪が、やけに上手い
アウローラは首を振らない。肯定もしない
「綾倉さん」
玲の名前を、丁寧に呼ぶ。距離を取るために
「わたくしは、あなたの求婚を受け入れません」
玲は少しだけ目を伏せた
それでも、すぐに視線を上げる
「なら、最初は婚約でいい。形式はどうでもいい。俺が欲しいのは、君がここにいる“理由”だ」
「理由……?」
「君は優しいから、子どもを助けに行く。君は責任感があるから、困っている人間を放っておけない。その優しさが、君を危険にする。ーーだから俺は、君の優しさを守る檻を作る」
アウローラは息を呑んだ
優しさを守る檻
言い回しが美しい。美しい分だけ、残酷だ
「……あなたの檻は、真綿でできているのでしょうね」
アウローラが皮肉を言うと、玲は微笑んだ
その微笑みが、肯定だった
「そうだね。君が痛くないように、柔らかく。君が寒くないように、温かく。君が泣かないように、優しく」
「優しい監禁ほど、悪いものはありません」
玲は静かに頷いた。まるで同意するように
「そうだね。だから君は俺を憎んでいい。でもーーここから出るのは、駄目だ」
アウローラは目を閉じる
言葉が尽きたわけではない
ただ、現実を理解したのだ
ーー交渉にならない
この男は、譲歩を“与える”形しか選ばない
対等ではない
玲はテーブルの上のベルを鳴らした。すぐに扉が開き、使用人が頭を下げる
玲は淡々と指示した
「彼女に温かい食事を。……血も用意して。善意の提供者からのものだ。銀の傷がある。医者も呼べ」
アウローラは思わず玲を見る
「血」を当然のように用意する
吸血鬼の生態を知っている。つまりーー準備してきた
「……あなたは、どこまで」
「17年分」
玲は短く答えた。それだけで、執着の長さがわかる
アウローラの背筋が冷えた
使用人が下がり、扉が閉まる。静寂が戻る
玲はソファに座り直し、アウローラに視線を向けた
優しい声で、けれど逃げ道を塞ぐように言う
「ここでは、君に乱暴はしない。君が望まないことはしない。……少なくとも、今は」
最後の一言が、甘い毒だった
“今は”。アウローラは玲を見返す。
「わたくしは……あなたの所有物ではありません」
玲は微笑む
その微笑みは、否定でも肯定でもない
ただ、確信だけを抱いている
「うん。だから俺は、お願いしてる。ーー結婚して。君が嫌なら君が納得する形にする。でも、君をここから出すことだけは……絶対にしない」
アウローラの胸に、怒りと悲しみが渦巻く
助けた子どもが、こんな男になってしまったことへの悔しさ
それでも、玲の目の奥にある“救われ損ねた10歳”の影が見えてしまうことへの戸惑い
玲は最後にもう一度だけ、低く囁いた
「君が望むなら、檻の中の世界をーー君のために変える。だから、ここにいて」
それは求婚というより、懇願だった
けれど懇願の形をした命令でもある
アウローラは答えない。答えられない
そして玲も、答えを急がない
ただ、2人の間に生まれた沈黙だけが、確かに“始まり”の音を立てていた
この檻の中で、甘さと恐怖が同じ旋律で回り出すーー円舞曲の、最初の1歩が




