1
裏路地は、夜の底に沈んでいた
街灯の光は届かず、濡れたアスファルトだけが鈍く光る。雨上がりの空気は冷たく、鉄錆と排気ガスの匂いに混じって、ほんのわずかに甘い香りが漂っていた
綾倉玲は、コートの襟を指先で直しながら、その匂いの正体を探っていた
17年ぶりにーーいや、もっと長い。時間の感覚はとうに壊れている
ただ確かなのは、あの夜からずっと、玲はこの匂いを追い続けてきたということだ
(……ここだ)
裏社会の情報網が拾った噂は曖昧で、滑稽ですらあった
「銀髪の女が子どもを助けている」
「幽霊みたいに消える」
「怪我をした人間の前に現れて、優しく笑う」
そんな話を、玲は笑えなかった
雨水が溜まった路地の奥で、子どもたちの声がした
泣き声ではない。怯えた声と逃げ場を探す足音
玲は物陰に身を滑らせ、息を殺す
耳だけを研ぎ澄ませた
「やだ……離して……!」
若い男の声が低く笑う
「金になるんだよ。いい子にしろ」
人攫いだ。あるいは、裏の臓器売買の手口。玲は聞き飽きている
ただーー今日は、その“いつもの地獄”が目的ではない。
子どもの嗚咽が響いた瞬間、空気が変わった
すっと、温度が下がる
雨上がりの冷たさとは別の、背骨に沁みる冷気
玲の心臓が跳ねた
「ーーその子に、触れないで」
声がした
澄んでいるのに、夜を切り裂く刃のように明確な声
玲は喉の奥が熱くなるのを感じた
何度、夢の中で聞いたかわからない声だ
「は?誰だ」
男が振り向く
そこに立っていたのは、噂通りの女だった
銀髪が濡れた夜気の中で淡く輝き、紫の瞳が闇を透かしてこちらを見ている
肌は磁器のように白く、頬に雨粒が落ちても、体温で溶ける気配がない
夜の月が人の形をとったような美しさだった
子どもは女を見た瞬間に息を呑み、泣き止んだ
恐怖が消えたのではない
“助けが来た”と、本能が理解したのだ
「お姉……ちゃん……?」
女は子どもへ視線を落とす
その表情は、驚くほど柔らかい
「大丈夫。もう終わるわ」
その言葉が、玲の胸の奥を強く叩いた
あの夜と同じだ
“怖かったね”、“もう大丈夫”
玲は子どもでなくなった今でも、その言葉に弱い
だが男は笑った
「うわコスプレ?おい、どけよ。こっちは仕事なんだ」
彼女は一歩も退かなかった
ただ、淡々と告げる
「その子を放しなさい」
男が舌打ちし、腕を伸ばす
その瞬間、玲は“速さ”を見た
音が消えるような速さ。風が吸い込まれるような速さ
彼女の手が、男の手首を掴んだ
「いっーー!」
骨が軋む鈍い音。男の顔が歪む
女の指先は、優雅に見えて容赦がない
「痛っ、やめーーっ!」
次の瞬間、玲は気づいた
彼女が“殺さない”ように力を調整している事に
(……やっぱり、そうだ)
彼女はいつだって、子どもの前では“最低限”で止める
必要なだけ痛めつけ、必要なだけ恐怖を与え、二度と近づけないようにする
それ以上は、しない
男が膝をつき、呻き声を漏らす
彼女は子どもへ視線だけを向けた
「人がいる通りまで走って。振り返らないで」
子どもは一瞬だけ迷い、玲の方を見た
玲は物陰から手を伸ばし、指で“行け”と示した
子どもは頷き、路地を駆けていった。小さな足音が遠ざかる
(……俺の前で、俺以外の誰かを守るな)
ーー嫉妬
あまりに醜く、あまりに正直で、玲はその感情を隠す気すら起きなかった
だって玲は、ずっと彼女を追ってきた
ずっと、彼女の“救い”だけを胸に生きてきた
なのに彼女は、今も変わらず、どこかの子どもを救っている
自分のためではない救い
自分だけのものではない夜明け
玲の口元が、ゆっくりと笑った
柔らかく、礼儀正しい微笑みの形を保ったまま、目だけが冷える
(……夜明け)
名前はまだ知らない
けれど、玲はそう呼びたくなった
夜明け。自分にとっての、唯一の希望
奪い取ってでも手に入れたい、光
玲はゆっくりと路地へ出た
靴音が水たまりを踏む
彼女が振り向く
紫の瞳が玲を捉えた瞬間、わずかに揺れた
驚きではない
警戒とーー微かな既視感
「……あなた」
玲は胸の奥が熱くなるのを感じた
ーー覚えている?
ーーあの夜の施設の少年を?
だが玲は問わない
問えば答えが返ってきて、もし「覚えていない」と言われたら、玲はきっと壊れる
だから玲は、壊れる前に“確保”する
「探していました」
玲はそう言い、懐から銀色の小さなケースを取り出した
銃ではない。刃でもない
ただ、銀の粉末を仕込んだ、細い針のような噴射器だ
吸血鬼への対策として、裏社会で密かに流通している
曜が嫌そうな顔で言っていた言葉が蘇る
「……銀は効きます。でも、やりすぎると死にますよ」
玲は頷いた
やりすぎる気はない
死なせる気もない
――生きたまま、手に入れる
「……銀、ですか」
玲は微笑んだ
「ええ。あなたは賢い。逃げますよね」
彼女は一歩引いた
その瞬間、玲は引き金を引いた
……シュ、と小さな音
銀の粒子が舞い、女の肌に降りかかる
彼女の白い肌が、触れた場所から赤く変わり、じわりと焼ける
痛みを堪えるように唇が震えた
玲の胸が、甘く痺れた
これは歓喜ではない、と自分に言い聞かせる
必要な手段だ
彼女を失わないためのーー
「……っ、やめ……」
彼女が歯を食いしばる
普段なら一瞬で姿を消すはずの彼女が、動けない
銀は、吸血鬼の身体を鈍らせる
玲は距離を詰めた
その時、彼女の瞳が玲を真っ直ぐに射抜いた
憎しみではない。怒りでもない
ーーただ、悲しみだ
その悲しみが、玲の胸を刺した
でも、止まれない
止まれば彼女は消える
消えたら、玲の人生はもう一度地獄へ戻る
「……ごめんね」
玲は、子どもに言うみたいに囁いた
自分でも驚くほど、優しい声だった
「でも、今度こそ……」
女がふらつき、膝から崩れ落ちる
玲はその体を受け止めた
思ったより軽い。体の線が細い。冷たい
抱き上げると、銀髪が玲の腕に流れ落ち、甘い香りが鼻腔を満たす
玲の視界が、一瞬だけ滲んだ
あの夜の匂い
あの夜の体温
あの夜の“夜明け”
(……やっと)
玲は彼女の耳元で囁く
「もう、逃がさない」
彼女は何か言おうとして、唇が震えただけで言葉にならなかった
紫の瞳が薄く閉じる
そのまま意識が落ちていく
玲は路地の奥へ視線を投げた
暗闇の中に、気配がある
部下たちだ。曜を含む、数人
玲は合図を出した
「車を回せ」
低い声。命令
玲の優しい仮面の下にある“幹部の顔”が、夜に溶けた
曜が一歩前に出る気配
「……本気ですか、玲さん」
玲は振り向かない
腕の中の女を、丁寧に抱え直す
まるで宝物のように。まるでーー最初から、自分のものだったかのように
「本気だよ」
玲は微笑む
その笑みは柔らかいのに、拒絶の余地がない
「これは、俺の人生の目的だから」
雨上がりの裏路地に、車のライトが差し込んだ
白い光が濡れた壁を照らし、影が長く伸びる
玲は彼女を抱いたまま、その光の中へ歩き出した
夜明けは、本来自由の象徴だ
けれど今、玲は夜明けを腕の中に閉じ込めている
抱きしめるほどに壊れそうなものを、壊さないために、強く縛る
その矛盾の甘さに、玲の胸は満たされていった
「ーーようこそ」
この夜から始まる
優しさと監禁が同じ旋律で回る、歪んだ円舞曲が
感想やリアクションを頂けると、作者は舞い踊ります
よろしくお願いいたします!




