10
屋敷の夜は、いつもより静かだった
静けさが深いほど、音は鋭くなる
遠くで時計が1度鳴り、廊下を歩く護衛の靴音が規則正しく消えていく。庭の木々の葉擦れさえ、今日は妙に不穏に聞こえた
アウローラは客間のソファに座り、手元の本をめくっていた
文字は頭に入らない
指輪が冷たく光り、契約の文言が脳裏で何度も反響している
――一定の自由
――子どもを助ける活動の容認
――許可なく触れない
(形ができたところで、心は……)
ふっ、と灯りが揺れた
風ではない。窓は閉まっている
温度が一瞬だけ落ち、空気が薄くなる
アウローラは本を閉じた
吸血鬼の感覚が、音より早く気配を拾う
――いる
屋敷の中に、“同族”の匂い
甘く、冷たく、紫の花に似た香りが一筋、廊下から流れてきた
次の瞬間、扉が静かに開いた
ーー立っていたのは、銀髪の青年だった
夜の闇を纏ったような黒い外套。細身の体。整った顔立ち。そして、紫の瞳
アウローラと同じ色が、硬く光っている
「……姉さん」
声が震えていた。怒りでも恐怖でもない
長い時間、探し続けた者がやっと辿り着いた時の震え
アウローラは立ち上がった
喉が一瞬、詰まった
「フィル……ベルテ……」
青年ーーフィルベルテは、1歩踏み出した
たったそれだけで、客間の空気が張り詰める
彼の視線はアウローラの顔を確かめ、次に指輪へ落ちた
紫の瞳が、鋭くなる
「……その指」
アウローラは反射的に手を引きかけ、止めた。
隠せば隠すほど、誤解が深まる
フィルベルテの怒りは“真実の欠片”だけで燃える
「落ち着いて。……まず、話をーー」
「話すのは帰ってからでいい」
フィルベルテの声が低くなる
「姉さん。ここはどこだ。誰の屋敷だ。どうして……急に消えた」
アウローラは息を吐いた
弟の言葉はもっともだ
姉が突然消えれば、探す。怒る。疑う
そして、姉を傷つけた者をーー殺したくなる
「ここは人間の屋敷です。……わたくしを捕まえたのは、綾倉玲という男」
「捕まえた?」
フィルベルテが眉間に皺を寄せる
次の瞬間、彼の匂いが変わった。甘さの奥に、血の鋭さが混じる
「……監禁か」
その2文字が落ちた瞬間、室内の温度がさらに下がった気がした
フィルベルテはアウローラを見ているのに、視線の焦点は別の場所ーー“敵”を見据えている
「姉さん。すぐ帰る。今すぐだ」
「フィル」
「今すぐ」
フィルベルテはアウローラの手首に触れようとして、寸前で止めた
吸血鬼同士でも、触れれば感情が伝わることがある
彼は今、自分の怒りで姉を傷つけたくないのだ
「……姉さん。怖かっただろ。痛かっただろ。銀を使われたか」
アウローラの胸がわずかに痛む
銀ーーあの灼ける痛みは確かに残っている
だが、それだけがここでの日々ではない
「……使われました」
フィルベルテの瞳が一瞬で冷え切った
「なら、そいつは死ぬ」
声が静かすぎて、逆に恐ろしい
フィルベルテは感情を爆発させない
爆発させる前に“処理”するタイプだ
姉のためなら、迷いなく
「フィル、やめて」
アウローラが言うと、フィルベルテは目を見開いた
「……やめて?」
「今は、あなたが想像している状況とは違います」
フィルベルテの口元が歪む
「違う?監禁だろう?銀を使ったんだろう?姉さんに指輪までーー」
彼の視線が指輪に刺さる
その瞬間、フィルベルテの声が少しだけ震えた
「……まさか、結婚させられたのか」
「違います」
アウローラはすぐ否定した
否定したが、言葉が追いつかない
指輪は契約の証。だが見た目はどう見ても婚約指輪に近い
フィルベルテは1歩近づき、声を落とした
「姉さん。洗脳か?」
「違います」
「脅されてるのか」
「それも違います」
「じゃあ、姉さんが“ここにいたい”って言うのか」
その問いが、刃のように鋭い
アウローラは言葉を失った
――言えない
“ここにいたい”と断言できない
けれど、“今すぐ帰る”とも言えない
フィルベルテはその沈黙を見逃さなかった
紫の瞳が、悲しみを含んだ怒りへ変わる
「……姉さん」
「……フィル」
アウローラは、ようやく言葉を探した
「わたくしは……ここで、子どもたちを守っています」
「子ども?」
フィルベルテは苛立つように眉を寄せる
「姉さんは昔からそうだ。人間の子どもを放っておけない。だからいつも傷つく。だから……だから僕はーー」
言葉が途切れる
フィルベルテは唇を噛み、短く息を吐いた
「姉さん。姉さんが優しいのは分かってる。でも、その優しさを利用する人間がいる。監禁なんて、その最たるものだ」
アウローラは静かに頷いた
「ええ。……彼は、わたくしの優しさを欲しがりました」
「なら、帰ろう」
フィルベルテは即座に言う
「僕のところなら安全だ。姉さんを傷つける者はいない。……姉さんを閉じ込める必要もない」
“閉じ込める必要もない”
その言葉が胸に刺さった
必要もないのに、玲は閉じ込めた
必要もないのに、玲は指輪をはめた
必要もないのにーー玲は、約束を形にしてまで縛った
それなのに、あの夜の記憶が蘇る
玲が子どもを庇って血を流した姿
玲が眠りながら「怖い」と言った声
玲が契約書に署名した指先の震え
アウローラは、ようやく本音を言った
「……わたくしは、今すぐ帰ると答えられません」
フィルベルテが凍りついた
数秒、言葉が出ない
そして、やっと絞り出すように言う
「……なぜ」
「わたくしにも分かりません」
正直だった
だから余計に残酷だ
フィルベルテの声が、少しだけ幼くなる
普段は冷静な弟が、姉の前でだけ見せる顔
「姉さん。僕は……姉さんがいないと駄目なんだ」
アウローラの胸が痛む
百年生きて、弟のこの弱さを知っている
彼は強い。強いからこそ、弱さを誰にも見せない
けれど姉にだけは、見せてしまう
「フィル……」
フィルベルテは首を振った
「責めてるんじゃない。……ただ、怖かった。姉さんが消えて。僕が守れなかったみたいで。僕が、姉さんの役に立てないみたいで」
アウローラは1歩近づきたくなった
抱きしめたくなった
けれど、彼女は止まる
ここで抱きしめれば、弟は“帰る”を強要しない自分を許せなくなる
アウローラは静かに言った
「あなたは、十分に強い。……あなたは、わたくしの誇りです」
フィルベルテの瞳が揺れた
ーー誇り
その言葉は、弟にとって鎮痛剤のように効く
でも、治らない傷もある
フィルベルテは小さく息を吸い、声を整えた
再び“冷たい弟”の顔に戻ろうとする
「……姉さん。ここにいる理由が“子ども”だけなら、僕は今すぐ連れて帰る。姉さんは優しいから、彼らを見捨てられない。でも姉さんが倒れたら、誰も救えない」
「ええ」
「だから聞く。姉さん」
フィルベルテの視線が、まっすぐアウローラの心臓を射抜く
「ーー人間の男のために、ここにいるのか」
アウローラの喉が詰まる
心臓が、遅い鼓動のくせにうるさい
「……分かりません」
やっと言えたのは、それだけだった
フィルベルテの表情が歪む。怒りではない。悲しみだ
「分からない、って……」
「彼は危険です。わたくしを縛った。でも、彼は……子どもを守った。わたくしが見てしまった」
フィルベルテは目を細める
「守った?それで許すのか」
「許してはいません」
アウローラはきっぱり言った
「けれど、わたくしは……見たものを“なかったこと”にできません」
フィルベルテは数秒沈黙し、そして結論を出した
出す時の彼は速い
「……分かった」
その声が、あまりにも静かで、アウローラは逆に不安になる
「フィル?」
フィルベルテは首を振り、目を伏せた
次に顔を上げた時、紫の瞳は決意で固まっていた
「姉さんが“帰れない”なら、僕は無理やり連れて行かない。……でも、放ってもおかない」
「……どうするつもりですか」
「確認しに来る」
フィルベルテは淡々と言った
「姉さんが傷ついていないか。契約が守られているか。そしてーーその男が、姉さんを泣かせていないか」
アウローラは息を呑んだ
それはつまり、監視だ
弟の愛は守護であり、束縛でもある
フィルベルテは一歩下がり、扉の方へ視線を投げた
屋敷の護衛が気づく前に去るつもりなのだろう
彼は侵入も退去も、夜の呼吸のように自然にやる
「また来る」
その言葉が、宣告のように響いた
アウローラは思わず言った
「……待って」
フィルベルテが振り返る
アウローラは、胸の奥の痛みを押し込み、伝えるべきことを選んだ
「あなたを、愛しています。……だから、無茶はしないで」
フィルベルテの目が一瞬だけ柔らかくなる
弟の顔が戻る
「姉さんもだ」
そして彼は、静かに微笑んだ
それは怒りのない微笑みなのに、どこか泣きそうだった
「……姉さんが選ぶなら、僕はそれを見届ける。でも忘れないで。姉さんには、帰る場所がある。姉さんが“帰りたい”と言った瞬間、僕は必ず迎えに来る」
アウローラの胸が締めつけられた
迎えに来る
それは救いであり、逃げ道でもある
同時に、玲にとっては脅威になる
フィルベルテは最後に指輪を一瞥し、低く言った
「……その輪っか。姉さんの意思でつけてるならいい。違うならーー外す」
アウローラは答えない
答えたら、自分の揺れが形になってしまうから
フィルベルテは扉へ向かい、振り返らずに去った
気配が廊下に溶け、夜の匂いが薄まっていく
取り残された客間で、アウローラは左の薬指を見つめた
指輪は変わらず冷たい
けれど、その冷たさの意味が、さっきより少しだけ重くなっていた
(……帰れるのに、帰らない)
自分が自分の檻に足を踏み入れていることに、アウローラは気づいてしまった
扉の外で、微かな足音がした
誰かが近づいてくる
護衛か、曜かーーあるいは玲か
アウローラは背筋を正し、深く息を吸う
夜明けはまだ遠い
けれど円舞曲は、もう止まらない




