17 迷走(1)
移動術をジャグジニアもろともに掛け、居室の前に戻る。
部屋に入ると控えていたドウカルネスに
「部屋を出ろ、戻れというまで戻るな」
と怒鳴りつける。
驚いてドウカルネスが部屋を出ると、抗議しようとするジャグジニアを無視して引き摺るように寝室へ向かう。乱暴にジャグジニアをベッドに放り投げる。よろけてベッドに座り込んだジャグジニアは、腕をついてホヴァセンシルを見上げる。
ホヴァセンシルの豹変に、ジャグジニアは怯え、ガタガタと震えている。
「殺して……」
震える声が微かに言った。
「わたしを殺してあなたも死んで。そうすればなにもかもなくなる。苦しみから解放される」
ジャグジニアが訴えた。
そうか、おまえは俺に死んで欲しいのか。それとも、そう言えば俺が慌てるとでも思っているのか?
ホヴァセンシルはジャグジニアを押し倒すと、ベッドに片膝を立て覆いかぶさるように見下ろした。そしてジャグジニアの顎を掴む。
その美しい顔が腹立たしかった。魅惑的なその身体も腹立たしかった。そして怒りを抑えきれない自分が腹立たしかった。総てが腹立たしかった。
「おまえは俺の妻なのだろう? ならば俺を満たせ」
驚いたジャグジニアは更に恐怖の色を見せたが、次には特別な瞬きをした。今は夫に逆らうべきではない、そう思ったのかもしれない。
「ほう、『魔女の愛欲』か、いい心がけだ」
ホヴァセンシルは自分でもなぜこんな事をしているのか判らないまま、ジャグジニアの首筋に唇を這わせていった――
静寂の中、乱れ髪の魔女がぐったりと横たわっている。生きているのか疑わしいほど、その身体からは生気を感じない。白い裸体のところどころに、薄紅の花弁のような印が散っている。
その傍らで男が一人、ベッドに腰かけて魔女を見るともなく見ている。考え事をしているようだ。時おり手を伸ばし、自分が付けた薄紅色の印に触れ、そっと撫でては消している。そしてまた考え事を始める。
サリオネルトが示顕王だというのは間違いないことだった。そしてそれをサリオネルトは知っていた。たぶんビルセゼルトも知っている。俺だけが知らされず、知らせてきたのはジャグジニアだった。ジャグジニアを城から出し、北の城を攻めるとあの二人は言った。
示顕王であると教えず、示顕王だと知っているジャグジニアを排除する目論見があったのだろうか?
いや、それはやはり考えにくい。ジャグジニアを城から出す目的は、この城に巣食う悪魔を滅ぼすためだった。でも、その悪魔も初めて聞いた存在、あの二人が言うだけで、しかも二人ですら、よくは判らないと言っていた。
そんなものは居ないのかもしれない。だが、居ないのだとしたら、俺が感じる違和感はどう説明する?
ジャグジニアは示顕王を殺せ、示顕王であるサリオネルトを殺せ、と言った。わたしを守りたいのなら、と、そう言った。
示顕王とは何者か? ジャグジニアを危険に曝す存在なのか? サリオネルトがジャグジニアに害を及ぼすとは思えない。だとすると、示顕王になった途端、サリオネルトはサリオネルト以外の者になるということか?
判らないことばかりだ。示顕王は何者か、悪魔は何者か、示顕王になったらサリオネルトはどうなるのか? そしてなぜ、ジャグジニアは示顕王に怯え、殺せというのか?
ホヴァセンシルは再びジャグジニアの背に手を伸ばし、薄紅に染まった肌に治癒術を掛ける。内出血は治癒されて元通りの肌に戻っていく。
人間関係に治癒術が使えたならば、どんなに嬉しいことだろう。まずはニア、おまえとの関係を、あの幸せだったころに戻したい。他愛のない冗談を言う俺と、大声で笑ってくれるおまえ、あの頃を取り戻したい。どこで俺たちは道を間違えた?
病に倒れた父と不安に揺れる弟を見捨てればよかったのか? そしておまえの許を離れる事がなければ、こうはならなかったか?
この城に感じていた違和感も、初めからおまえを問い質し、なんとしてでも聞き出していれば、こんなことにならなかったのか? そんな事をしても、おまえは俺を嫌わずにいてくれたか?
子は諦めろ、と言ったのがいけなかったのか? なんとしてでも産めと言えばよかったか? 子は多ければ多いほどいいと思っていた。それをあの時正直に言っていれば、また少しは変わっていたか? 諦めるしかない時に、そんな事は言えないと思ったのは間違いだったのか?
肘を両ひざに付き、ホヴァセンシルは項垂れて、拳で両目を抑える。泣いている場合ではないと思っても、涙は意思に反して止めどなく溢れては、雫となって落ちていく。
その背にそっと触れる冷たい手、ジャグジニアも目を覚ましたか……ホヴァセンシルがゆっくりと振り返る。
「ホビス、なぜ泣いているの?」
青白い顔でジャグジニアが問う。
「泣かないで。わたしはあなたを苦しめたいわけじゃないの」
そしてホヴァセンシルの肩にもたれかかる。
「今でもわたしはあなたが好きなのよ」
そっとホヴァセンシルが目を閉じた。
「なぁ、ニア。なぜサリオネルトを殺して欲しいんだ?」
「あなたはサリオネルトが示顕王だと知っていた? 知っていて知らんふりをしていたの? 示顕王は災いを呼ぶのよ」
「いや、知らなかった……」
示顕王は災いを呼ぶ――それは違うと言いたいが、言ってもジャグジニアが納得するとは思えない。
「なぜ、サリオネルトが示顕王だという事を隠さなくてはならなかったの?」
ジャグジニアがさらに言う。
「それに示顕王になったサリオネルトは苦しまないでいられるの?」
「え?」
そんな事、考えた事もなかった。
「それにもし、示顕王がとんでもない災厄を齎したら、その時マリはどれほど苦しむの? 生まれた子どもをマリはどうすればいいの?」
ホヴァセンシルは呆気に取られてジャグジニアの顔を見詰めた。そんな発想はしたこともなかった。
「あなたがサリーと仲がいいのは判ってる。でもね、ホビス。だからあなたしかいない。ビリーには無理よ。いくらなんでも弟を殺させてはいけない」
「……」
「ホビス?」
確かに示顕王が何者であるかは判っていない。それは示顕王になったらどうなるかも判らないという事だ。
ホヴァセンシルはサリオネルトの顔を思い浮かべた。バターブロンドの髪が、以前より輝きを増していたことを思い出す。サリオネルトは力が増してきている。力が溢れ出て、隠しきれなくなっている。自分が示顕王だと知っているのなら、不安を感じているのはサリオネルトが一番だ。ビルセゼルトと二人で話したいことがあると言っていた。家族の話と言っていたがきっと別の話だ。
示顕王は何者なのか、まず、それを知らなくてはならない。そして夏至の日まであと、幾らもない。
「判った」
ホヴァセンシルが言った。
「ギルドに示顕王について調べさせよう。夏至の日までにどうしても調べなくてはならないように仕向けよう」
「それでは間に合わない」
「いや、もしサリオネルトが示顕王であり、災いを招く存在ならば、ギルドがサリオネルトを処刑せざるを得ないよう考える。おまえの納得いくような、万全の策を俺が練る」




