第7話 執行者の刃
夕暮れの朱が街を染め、やがて夜の帳が静かに降りていった。
花屋の前の通りは人影もまばらになり、店は一日の営みを終えようとしていた。
ホロは戸締まりを済ませ、二階の部屋へと上がろうとしていた。
その背後の椅子には、ルシアが静かに腰掛けていた。
薄暗い店内の灯りに照らされる彼女の横顔は、どこか遠い世界を見つめているようだった。
天から切り離された今も、彼女の瞳にはなお揺らぐ光が宿っていた。
守りたいと思う気持ちと、抗えぬ宿命が胸の奥でせめぎ合っている。
——このまま、彼のそばにいていいのだろうか。
そんな思いを胸に押し込めながらも、ルシアはただホロの後ろ姿を見つめていた。
静かなはずの夜に、しかしどこか落ち着かぬ気配が漂っているのを感じながら。
そのとき——。
軋むような気配が、ガラス越しに伝わってきた。
まるで誰かがそこに立ち、息を潜めているかのように。
不意に、花屋の扉が激しく叩かれた。
ただの来客ではない——刃のような気配が音に宿っていた。
扉が開かれると同時に、冷たい風が吹き込み、黒衣の影が音もなく入り込む。
「……やはりここにいたか、ルシア」
低く響く声。
男の瞳は赤く、手に握る刃が月光を受けて不気味に光った。
彼は執行者——天使の戒律を破った者を消し去るために遣わされた存在だった。
「あなた……なぜここへ」
ルシアの声は震え、低く掠れていた。
この男が神の命令と己の矜持のみで動く冷酷な処刑人であることを、彼女は知っていた。
「命令だ。お前は矜持を揺らがせた。堕天は時間の問題……だが、完全に堕ちきる前に連れ戻す」
その視線が横に逸れ、ホロへと向けられる。
「そのためには……その人間を消す。存在が続けば、お前は迷いを断ち切れぬからな」
刃が冷たく煌めいた。
——彼を狙っている。
ルシアは即座に前へ出た。
「ホロには、指一本触れさせない」
「天使が人間を庇うとは……見苦しい」
執行者が踏み込み、刃が振り下ろされる。
空気が裂ける音が耳を打ち、ホロは反射的に息を呑んだ。
考えるよりも早く、ルシアはその刃を自らの胸で受け止めていた。
瞬間、鋼が骨を砕き、肺を貫いた。
血が激しく噴き出し、喉を焼くように逆流する。
体が震え、視界が赤黒く滲む。
——人間であれば、その場で即死してもおかしくない深さだった。
だがその奥で、淡い光が瞬いた。
——加護の結晶。
天使としての最後の残り火が、刃の致命をほんのわずかに逸らしていた。
それでも血は止めどなく溢れ、肺は潰れ、呼吸が断たれかける。
足元から力が抜け、床が急速に遠ざかっていく。
意識が暗闇に引き込まれそうになったその時——。
「ルシアっ!」
ホロの声が、深い闇の中へ差し込んだ。
温かい腕が彼女を支え、その鼓動が必死に生きろと訴えかけてくる。
——生きたい。
まだ、この人のそばにいたい。
その願いが、消えかけた心臓を再び打たせた。
執行者の刃が再び振り下ろされようとした瞬間、彼はわずかに手首を返し、角度をずらした。
ほんの一瞬のためらい——それは長く封じ込めていた過去の痛みを呼び覚ますものだった。
かつて、人間を愛し、そして消された天使がいた。
その影が、彼の目に微かに映る。
その時、彼は役目を果たしながらも、深く後悔したのだ。
——あの天使は、最後まで「伝えられなかった想い」を胸に抱えたまま消えていった。
ルシアは胸の激痛と血の感覚の中で、自分自身の心を強く握りしめる。
「後悔なんて……絶対にしたくない」
たとえ命が燃え尽きても、今この瞬間に託せるものがある——そう、強く思った。
ルシアは残された力を翼に込めた。
翼が大きく広がり、白と黒の狭間で揺らめく光を放つ。
それは天使としての最後の奇跡——防壁の光だった。
ホロを包み込み、刃から遠ざけるように押しやる。
光は鋭い音を立てて刃を弾き返した。
その瞬間、ルシアの翼は闇に呑まれ、完全に黒へと染まる。
血に染まった体はなお衰弱していたが、天使の残滓がわずかに傷を癒し、命だけはなんとか繋がった。
呼吸は浅く速いままだったが、心臓の鼓動は確かに生きている証を示していた。
天上の道は閉ざされ、神の声はもう二度と届かない。
執行者は目を細め、静かに告げた。
「……そこまでして人間を守るか。もうお前は天使ではない。俺の役目は終わった」
その言葉と共に、男の姿は霧のように消えていった。
静けさが戻った花屋の中で、ルシアは荒い息をつきながらホロを見上げる。
「……これで、もう神の声は届かないわ」
ホロは首を振り、彼女の肩を強く抱き寄せた。
「そんなこと……どうでもいい。ルシアを失いたくない」
ルシアは微笑む。
もう天使ではなく——堕天した身となったけれど、その胸の奥には、人としての命が温かく灯っていた。
「これからは、私が堕天した身として……あなたと共に生きる」
外では、一番星が輝き始めていた。
それは矜持を捨ててもなお消えなかった、ルシアの誇りの輝きだった。